第五二話 裏切り者
曹操軍に包囲されている鄴城を救うために、袁譚軍三万八千は北より進軍していた。
途中、曹操に占領された邯鄲城を通りすぎたが、武力衝突にはいたっていない。邯鄲にいる曹操軍の兵力はわずか千にも満たず、とうてい袁譚軍には抗しえないと判断したのだろう、城門をかたく閉ざして息をひそめていたのである。
袁譚としても邯鄲城にかかずらって、時間を浪費するわけにはいかなかった。
期限がせまっている。
半年は守ってみせる、と審配は豪語した。
その半年がせまっているのだった。
「もっと集まると思っていたが、三万八千だ。……心もとないな」
天幕のなかで、袁譚は郭図と王修に心情を吐露した。
冀州、幽州、并州、そして烏丸の地まで出むいて兵を集めたにしては物足りない兵数である。
思うように兵が集まらなかったのは、河北における袁家の威光・求心力が低下しているからだった。
落ち目になれば人の心は離れていく。この半年、各地でそのありさまをまざまざと見せつけられた袁譚は弱気にかたむいていた。
にしても、総大将が落ちこんでいてはしめしがつかない。
郭図はこの場にいない人物を悪役に仕立てて、主君に奮起をうながした。
「審配どのが敷いた圧政によって、民も疲弊しているのです。袁譚さまの手で善政を敷けば、おのずと民の心ももどりましょうぞ」
沮授と田豊の亡きあとに冀州閥の領袖となった審配は、徴兵徴税をくりかえしており、それが現状の民心離れの一因となっている。
以前の郭図なら、審配の所業をただ単に悪事と見なしていただろう。それを悪役に仕立てると思考している点で、半年のあいだに、郭図の審配評にも変化が生じていた。
およそ悪政秕政と呼ばれる類の多くが、審配の名によって布告されていたのを知ったのである。
なぜ自分の名を前面に出したのか。敵意の標的としてさらしたのか。忠義の心ゆえにほかならなかった。もし袁紹や袁譚の名で布告がなされていたら、民心離れはより加速していたにちがいないのだ。
民を虐げる貪欲な豪族としての一面と、その悪名をも利用して主君に尽くそうとする忠臣としての一面。二律背反しかねない複雑な忠義の形を、皮肉にも政敵であった郭図が誰よりも理解していた。
なぜなら、袁家の軍勢をつくるために冀州閥の敵役を買ってでた過去が、郭図にもあったからである。
審配が無理な徴兵を急いだ理由が、郭図にはわかる。
審配は賭けたのだ。病から回復した袁紹が大軍勢をひきい、曹操に勝利して天下をとる可能性に。袁紹の余命を考えて、急がせたのだ。
結局のところ、袁紹は病に倒れ、賭けは失敗に終わった。その直後に曹操の河北侵攻がはじまり、民をかえりみる余裕も失われたのだろう……。
ささやかな共感から、郭図は現実にひきもどされた。
王修が郭図の言に同調するように、主君を励ましたのである。
「并州の高幹どのが協力的であったなら、もっと兵は集まっていたでしょう。どうにも鍾繇に敗北して以降の、高幹どののふるまいは目にあまります。酒と女に逃避しているだの、政をおろそかにしているだの、ゆえなき風聞ではありますまい」
「むっ。たしかに、并州の統治はうまくいっていないようであった。いまは危急のときゆえ、一族という理由だけで并州を任せているが、曹操を追い返したら考えねばならぬな」
袁譚の声に力感がよみがえった。どのような方向性であれ、激情は精神を奮い立たせる。王修はわかりやすい怒りの矛先を提示したのだった。
彼の意図を見抜いた郭図は思う。袁譚はよい側近を得た。的確な判断力、孝に篤い人柄、窮地にひるまぬ胆力。王修は高い水準で均衡のとれた逸材であり、くわえて弓の名人として名高い豪傑・太史慈と並び称された武人でもある。それでいて驕るでもない。
王修は主君を煽らぬよう冷静な口調で、しかし激励をかさねた。
「鄴城の守備兵とあわせてわれらの総兵力は六万弱、曹操軍とほぼ互角です。こちらは新兵が多いため、兵の質では敵に分がありますが、曹操軍は遠征が長引いているため士気が低下し、軍規もゆるんでいます。堅牢な鄴城を活かせば、優位に戦えましょう」
「……うむ」
袁譚はようやく口元をほころばせて、
「もう少し南に進んでから狼煙をあげれば、鄴城にも救援の到来を伝えられよう。そこからどうやって城兵と連携をとるか。簡単ではないだろうが……」
「審配どのがみずから提案した作戦なのです。きっとうまく呼応してくれましょうぞ」
好感では断じてないが、自分の声に敬意がこめられているのを郭図は感じた。もはや審配が裏切るとは微塵も心配していない郭図である。
そのとき外であわただしい物音がして、天幕の入口がゆれた。
「袁譚さま、一大事にございますっ!」
姿をあらわしたのは、斥候部隊をひきいて偵察に出ていた管統だった。
管統は拝礼すると、青ざめた顔で、
「鄴城に、曹旗が掲げられております!」
「なんだとっ!?」
袁譚の声がひびわれた。管統が報告をつづける。
「城内から逃げてきた者を保護して聞き出したところ、……裏切り者が城門をひらいた、と」
高座に着いた曹操の前に、審配は引きだされた。勝者と敗者の対面である。審配は手枷をはめられ、膝をつかされ、あまつさえ襟首を剛力でつかまれている。
「虎痴、その手をはなしてやれ」
「なりません」
虎痴と呼ばれた武官は、首をふって命令に逆らった。
彼は許褚、あざなを仲康といい、曹操の親衛隊長である。背が高く、肩幅はさらに広く、腰周りは目をみはるほどに厚い。虎のように猛々しくも、ぼんやりして見えるため虎痴とも呼ばれている。頭の回転がおそいのではないかと見る者もいるが、こと曹操の身辺警護となると勘がするどく、周囲の人々をたびたびおどろかせる。
「手をはなせば、この男は曹操さまにとびかかります」
「わかったわかった。では、このまま話すとしよう」
曹操は苦笑いをおさめると、冷徹な眸で審配を見おろした。
「接見がおくれて悪かったな、審配。余も忙しかったのだ。袁譚の軍勢を追い払わねばならなかったのでな」
「袁譚さまはどうされた……」
問いかける審配の声はかすれていたが、両眼には熱い光がある。まなざしで相手を射殺すような、熱い光が。
「袁譚は幽州に撤退したぞ。どうやらおぬしらは見捨てられたようだ」
「袁譚さまがわれらを見捨てたのではない。私が袁譚さまの信任に応えられなかったのだ!」
痛切な悔恨が、審配の口をついて出た。そのとおり、鄴陥落の責任は彼にある。半年を守りきれなかった、彼の失態なのだ。
せめてものなぐさめは、袁譚が正しい判断をしたことであった。
もし鄴に拘泥していれば、袁譚軍は壊滅していたであろう。
袁譚がどれほどの大軍勢をひきいているのかを審配は知らぬが、曹操軍六万から鄴城を奪還するのは至難のわざである。まして鄴周辺の城も曹操の手に落ちている状況だ。曹操の拠点に囲まれたこの地は、いまや袁譚軍にとっての死地であった。
「ふむ。審配、おぬしの戦いぶりは見事であった」
審配の炎は、曹操の心に痛痒ではなく、感銘をもたらしたようだった。
「余に仕えよ。袁譚よりは仕えがいがあろう」
「断る」
「大勢は決した。袁譚がこの城にもどる日はこない。余に仕えよ、審配!」
「くどい! 断る!」
曹操は眉間にしわを寄せ、困ったように嘆息すると、
「……そうか。さきほど袁尚を処刑したぞ」
「ッ!?」
「袁尚の命乞いにはあきれはてた。『助けてくれ助けてくれ、お願いだから、なんでもするから助けてくれ』と。見た目がよくともあれはいかん。わが友、袁紹ならば、あのような誇りのない、見苦しい真似はしなかったであろう」
「あたりまえだッ! 袁紹さまが生きていれば、地を這っていたのは貴様のほう――」
つぎの瞬間、審配は床との接吻を強いられていた。許褚の手によって、頭をさげさせられたのである。
「おぬしは袁家の忠臣として死を選びたいのだろうが、世間はそうは思わぬ」
曹操の言葉は不吉なひびきをはらんでいた。
「城門をあけて、わが軍を呼びこんだのは、おぬしの甥。審栄だ」
審配は絶句した。
「わが軍を招き入れたのは、審栄と逢紀よ」
数秒の自失ののち、絶望とともに、審配はうめいた。
「……逢紀の甘言に乗せられたか、あの役立たずめ。なんと愚かなことを」
審栄は援軍の到来を信じきれなかったのだ。
長引く籠城生活に心をすり減らしていたのだろう。
そこへ逢紀が内応をもちかけたにちがいなかった。
きびしくいうならば、審栄が重要な役職をまかされていたのは審配の身内だからであり、彼自身の将器ゆえではない。器量が不足していたのだ。職務に、責務に、心が耐えられなかったのである。
そして逢紀だ。逢紀を処分しておかねばならなかった。
アレは小策士だ、たいしたことはできぬだろう。審配の頭のどこかに、逢紀をあなどる気持ちがあった。くわえて、許攸の家族を処分したことが官渡での敗北につながったのではないか、との思いが審配の判断を鈍らせていたのである。
審栄にしろ逢紀にしろ、対処のしようはあった。いずれも審配の落ち度だった。
彼は城内の動きにも神経をとがらせていたが、袁尚や潁川閥の動きも警戒せねばならず、審栄や逢紀に対する注意が散漫になっていたのである。
「ここで死んだところで、審家は道を守れなかった不忠の家である。余に仕え、漢王朝に仕えて、汚名をそそぐべきであろう」
圧力のみでは説き伏せられないと判断したのか、曹操の声はおだやかだった。
審配は床におさえつけられたまま、勝者の面目を傷つけるような嘲笑を浮かべた。
「ハッ、笑わせてくれる。不忠者として名を残すのは誰だ! 朝廷を壟断しているのは誰だ! みな知っていよう! 宦官の孫にさげる頭など、もちあわせておらぬわ!」
痛烈きわまる返答は、結末をむかえるための言葉でもあった。
自身のみならばともかく、祖父までけなされたのだ。部下の手前、曹操も激発してみせねばならない。
審配の目論見どおり、曹操は眉に険しさを宿らせ、声を荒らげた。
「こやつの首をはねい!」
兵士たちが歩みより、許褚から死刑囚の身柄をあずかり連行する。
審配は大股で、ゆっくりとした足どりで、死出の道を歩みはじめた。
審配の顔に恐怖の色はなかった。
彼の目にうつるのはただひとつ。
追いかけるべき袁紹の背中、ただそれだけであった。
審配が去ると、曹操は深く息をついた。
「……惜しいな。袁尚の小人っぷりを見たあとだけに、なおさら惜しい。審配の忠節は、新芽が太陽をあおぐようにまっすぐ袁紹をむいておる。なんとみずみずしく、若々しい心意気であろうか」
残念そうではあるが、どこか爽快さも感じさせる声だった。
「審栄と逢紀の処遇はどうするつもりっすか?」
横にひかえていた郭嘉が、曹操の感傷を短く断ち切った。
「わが軍にとっては功労者だ。丁重にあつかってやれ。気に入らんがな」
「待遇に差をつけたほうがいいのでは?」
「ほう? ……うむ、郭嘉の言は傾聴に値する。冀州の士大夫たちには、余の統治に協力してもらわねばならん。審栄を厚遇してやるとしよう」
それに鄴城の人々にしてみれば、逢紀はよそからやってきて自分たちを売りわたした、とんでもない男である。
「この地で暮らす者の気持ちをくまねばならぬ。余が彼らの立場だったら、逢紀の顔など見たくない。許攸もだ。あのふたりこそ不忠者である。余の目が黒いうちに、将来の禍根はとりのぞいておくべきであろう」
――建安九年八月一八日、袁尚と審配は刑場の露と消えた。
憔悴して頭をたれていた袁尚とちがい、審配は毅然と胸を張って刑場にのぞんだ。そればかりか、座す方角がちがうと処刑人を叱りつけ、主君のいる北に頭をさげて首をはねられたという。
袁尚の首はさらされたが、審配の首は丁重に弔われた。そこには叛徒はあくまで袁氏であって、冀州の士大夫を処罰するための戦ではなかったのだとしめす政治的判断もあったろう。
だが、審配の見事な最期に対し、曹操に感じ入るものがあったのは想像にかたくない。
審配正南、享年四九歳。晋代の歴史家・裴松之は、「審配は一代の烈士にして、袁家に殉じた真の忠臣である」として、彼を高く評価している。
*****
辛毗や荀諶たち、袁譚陣営にいた潁川出身者のほとんどは、鄴陥落と同時に囚われ、曹操の軍門にくだった。
ただし郭図をのぞく、というのが画竜点睛を欠いているが、まずは友人たちの無事をよろこぶとしよう。
ともあれ鄴陥落が大きな区切りであることはまちがいなく、例によって例のごとく、私のもとには多くの手紙がとどいている。
曹操がいないあいだ鄴包囲の指揮をとっていた曹洪、渉と易陽を落とした徐晃、鄴に一番乗りした楽進……。
彼らに返書を書かなければならないのだが、例外はある。
逢紀はお断りだ。
誰にでもほいほい返書を出してしまいがちな私ではあるが、文通相手を選びたいときぐらいあるのだった。
降伏という行為そのものを否定はしない。
私の友人たちだって曹操に降伏している。
けれど彼らは敵兵に囲まれたり、虜囚の身となったり、やむをえない状況になってしまったから降伏したのであって、主君に大きな損害をあたえたわけではない。
城をあけわたすのが悪い、とまではいわない。
仮に責任者の審配が城内の意見を代表して、正面から降伏を願い出ていたなら話は別だ。半年も籠城していたというのだから、最低限の忠義や義理ははたしている。そりゃ非難はされるかもしれないが、そこまでひどい評価にはならないだろう。
しかし、味方が耐えているのに、深夜に城門をひらいて敵を手引きする。
審栄と逢紀のやったことは背信行為というしかない。
その審栄と逢紀のあいだにも、微妙ではあるが差はある。
城内では餓死者が出ていたそうだ。地元の士大夫である審栄には、民からの陳情が多く寄せられていただろう。そうした民の声を考慮すると、彼は情状酌量の余地があるというか、いたしかたない面がある。
逢紀に擁護すべき点はないから、やっぱり卑劣な裏切り者あつかいでいいと思うのだ。
こういうアウト判定は、どこで線引きをするかが悩ましい。
私のなかで該当する人物をほかに挙げるなら、なんといっても許攸である。
私は許攸との交友も拒んでいるのだが、
「許攸という人は名のある人物だそうですが、恨まれはしないでしょうか……」
と門下生に心配をかけてしまったことがある。
懸念は当然だろう。許攸には大功がある。
そんな人物と険悪な関係になって大丈夫か?
大丈夫だ、問題ない。
許攸は曹操に処刑される予定なのだ!
許攸が権力を握ることはないと知っていた私は、あとくされなく、つれない態度をとれたのだった。
では逢紀がどうなったかというと、まったく記憶にない。
曹操の部下にはなっていなかったはずだから、たぶん歴史が変わっている。
逢紀の先行きは私には見えない。彼が出世する可能性もあるにはある……。
でも、そんなの関係ねぇ!
道徳は衣服に似ている。裸で歩きまわるような人物とのおつきあいは、できればご遠慮願いたい。
ま、大きな問題にはならないだろう。荀彧も逢紀に対しては辛辣な評価をくだしているようだし。
しばらくして許攸と逢紀が処刑されたとの報せがとどくと、門下生たちがキラキラした顔で騒ぎだした。
「孔明先生は、彼らが処刑されるであろうと見越していらっしゃったのですね!」
偶然だぞ。許攸はともかく、逢紀まで処刑されるとは思っていなかった。
と正直にいいづらい雰囲気だったので、私はなにも答えず、なにもかも見通していそうな透明な微笑みを浮かべてごまかすのだった。




