第五話 ある青年との出会い
よく晴れたある日のこと。
農作業を終えた私が農具をかついで歩いていると、馬に乗った青年が通りかかった。
卑しからざる身なりから、士大夫の家の者だとわかる。
年の頃は二十くらい、体格はよく、聡明そうな眸をしていた。
その青年は馬をおりて、私に道を尋ねてきた。
「この地に胡昭という学者が暮らしているはずなのだが、どちらにお住まいか知っているかな?」
「…………」
私です。
ここにいるぞッ!
といってみたい衝動をおさえ、屋敷までの道順を教える。
青年は礼をいい、ていねいに頭をさげてから、かろやかに馬に乗って、進んでいった。
「ふむ……」
私が名乗らなかったのはなぜかというと、農夫の格好をしているからである。
士大夫の中には、露骨に農民を蔑む者もいる。
そうした人物からしてみれば、私が名乗ればその瞬間、見くだしていた相手がじつは名士だったと発覚する、きまりが悪い展開になるわけです。
体面重視のこの社会、相手の面目をつぶすような行為はやめといたほうが無難ですので。
それに最悪の場合、
「農民ふぜいが名士の名を騙るとは、この痴れ者めがッ! これでもくらえッ!!」
チャキッ、キラーン、ズバッ!!
「ぎゃあああーーッ!? 本人なのに~~」
なんてことすらありえる。おお、怖い。
こういう状況では、後で名士っぽい服に着替えてから、
「ふっふっふ。じつは私が胡昭だったのだよ!」
「なんと!? これはしてやられましたわ」
「「あっはっは!!」」
といったふうに、笑い話にしたほうがお互いのためなのです。
まあ、今の青年は農民に対しても礼儀正しかったから、名乗ったところで問題はなかっただろうけど。
しっかりとした教育をうけたのだろう、なかなかの好青年に見えた。
感心しながら、私はのんびり自宅にむかうのだった。
まだ肌寒いころに陸渾に引っ越してきて、そろそろ夏に差しかかろうとしている。
あたらしい暮らしにも、だいぶ慣れてきたように思う。
この地にきて、私の生活にも変化があった。
もてあまし気味だった広い屋敷を利用して、私塾をひらいたのだ。
そこは村人に読み書きを、門下生に学問を教えるだけでなく、名士たちが集まるサロンにもなっている。今のように、私と面識のない人物が訪れることもあった。
「孔明先生っ!」
のどかな道を歩いていると、そう呼びかけて駆けよってくる若者がいた。
門下生の周生である。
「畑仕事ですか? いってくれれば、そんなことは私たちがやりますのに」
といってくれるが、私ではなく私たち、というのが要注意。
自分でやるのではなく、とりまきにやらせるつもりなのだろう。
困ったものだ、と私が内心でため息をついていると、
「さっき、馬に乗った士大夫が通りましたよ。あれは私より年下でしょうね」
と周生がいった。さきほどの青年のことにちがいない。
「うむ。どうやら私の客人のようだ」
「ご存じでしたか」
「さきほど、道を聞かれたのでな」
「どちらさまなんです?」
問われて、私は首をひねる。
「さて……」
「へえ」
周生は愉快そうに口角をあげた。
「なら、さっきの人は、孔明先生のことを農夫だと思ってるんですね?」
「名乗っていないのだから、おそらくそうであろうな」
「そいつは見ものだ。ちょっと先にいって、様子を見てきます」
「周生」
身をひるがえしかけた門下生を、私は呼びとめた。
「はい、先生」
「客人に対して、粗相があってはならぬぞ」
「はい、わかりました」
周生は笑顔でうなずくと、私の家に急いでいった。
「ふぅむ……」
ホントにわかってるのだろうか? ちょっと心配。
私は遠ざかる周生の背を見ながら、つい最近、十日ほど前の出来事を思い出していた。
その日、ある士大夫が、私を訪ねて陸渾にやってきた。
道すがら、農民たちにさんざんいばりちらすような、いけ好かない男だった。
彼は、運が悪いことに私の顔を知らなかった。ついでに間も悪かった。
その農民の中に私がまぎれこんでいたことに、気づかなかったのである。
そして、屋敷に着いた彼は、身だしなみを整えた私が正体を告げるなり、その場にへなへなと座りこんでしまったのだ。
その光景は、たしかに見ものだったと思う。
目撃者は屋敷の中にいたほんの数名だったのだが、この話はあっというまに広まった。こんな痛快な話が広まらないわけがない。
あとから知った周生は、その場に居合わせなかったことを、ずいぶんと悔しがっていたものだ。
きっと、同じような光景が見られるのではないかと期待しているのだろう。
さすがにあんなクリティカルな反応は、そう簡単に再現されないと思うが。
そんなことを考えていたら、
「……先生、ちょっといいですかね」
肉屋の主人がおずおずと話しかけてきた。道ばたで話していた私と周生の様子をうかがっていたようである。
「あいつ、先生に迷惑をかけちゃいませんかね?」
「むっ。あいつとは、周生のことであろうか?」
「はい……」
「ううむ。若者たちを集めて遊び歩いている、という噂は聞くが……」
「周生は昔から、ここに越してきた当時から、けっこうな悪ガキだったもんで……」
「ふむ。そうであったか」
たしか周生の年は二十四だったか。もう、悪ガキと呼べる年齢ではないな。
「それでも、孔明先生の門下生になって少し落ち着いたように見えたんですけど。ちょっと気になる話を小耳にはさみまして……」
「ほう?」
「孔明先生の家には、おえらい人が出入りするでしょう? 周生が先生の門下生になったのは、そういった人たちに取り入って、官吏に推薦してもらうためなんじゃないか。そんな話なんです」
なんだか可愛らしくモジモジしながら、肉屋のごっついおっさんはつづける。
「オレたちゃ、あいつが先生に迷惑をかけてないか。心配になっちまって……」
「…………」
いわれてみれば思い当たる節があった。
わが家を名士が訪れると、きまって周生が顔を出していたような気がする。
周生は名士をもてなしながら、教養や儒学を、熱心に論じあっていた。
あれは学ぶためではなく、自分の能力をアピールするためだったのか。
中国での官吏登用というと科挙がまっさきに思い浮かぶが、この時代にはまだ科挙という制度はないようで、官吏になるのに最も重要なのは 地方官や名士のあいだでの評判なのだ。
つけくわえると、そういった評判をまとめる名士ネットワークの中心にいるのが荀彧でして、私のコネは最強です。
もっとも、そのコネはいざというときの切り札でもあるので、みだりに使用するつもりはありませんが。
ふふふ。切り札は温存しておくからこそ、切り札たりうるのですよ。
「うむ、気にとめておくとしよう。なに、この地を訪れる名士に気に入られるかどうかは、周生の才幹しだいであろう」
私がそう返すと、肉屋の主人はほっとしたようだった。
自宅に帰って、服を着替え、頭の巾をとき、冠に髪を押しこむ。
ちゃんと名士っぽく見えるようにしとかないとね。
「……売りこみに力を入れること自体は、問題ないのだがなぁ」
周生のやっていることは、いたって普通におこなわれていることだ。
ただし、度が過ぎると失礼になるし、私の名前を利用されていると思うと、やっぱりいい気分はしない。
私の門下生になって少し落ち着いたともいっていたから、しばらくこのまま様子を見るつもりだけど、あまり失礼なことをしでかすようなら、破門も考えなきゃいけません。
「よし、名士。どこから見ても名士」
鏡台の前で、服装のチェックを終える。
さきほどの青年は、学堂で門下生たちと話しているという。
私がその学堂にいくと、周生が悔しそうに顔をゆがめて立ちつくしていた。
周生と対峙するように立っているのはさきほどの青年で、それを門下生たちが固唾をのんで見守っている。
むむむ。なにやら雰囲気がギスギスしております。
これは、あれだ。
年少の相手とあなどった周生が論戦をいどんで、こてんぱんに言い負かされたとみた!
その場に私が姿を見せると、張りつめた空気が少し緩んだように感じられた。
この青年に一泡吹かせてやれる、とでも思ったのか、周生の顔にも余裕がもどる。
しかし青年は、私を見てもまったく動じることなく、平然と拱手した。その所作は、洗練された見事なものだった。
そして、
「さきほどは失礼をいたしました。私は、胡先生に教えをこいたく、河内郡温県孝敬里より参りました。姓は司馬、名は懿、字は仲達ともうす者です」
「…………!?」
はい?
私は自分の耳を疑った。
司馬懿? ふ~ん、司馬懿ね。
すごいのきちゃった。




