表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/159

第四八話 神医の訪問


 惨敗を喫した高幹は并州ヘイシュウに撤退し、高幹軍に占領されていた河東郡は、鍾繇軍が進軍するまでもなく解放された。


 南匈奴の単于ゼンウ呼廚泉コチュウセンは袁家と手を切り、曹操に使者を送って恭順の意を示したそうだ。


 洛陽にせまっていた危機が去ると、私は陸渾に帰り、いつもどおりの平穏な日々をすごしていた。


 そんな私の家を、ある日、客人が訪れた。


 客人の名は華佗カダ、あざなを元化ゲンカといった。三国志ファンならおなじみ、天下の名医である。


 かなりの高齢で、九十歳ぐらいだったと思う。ひげは真っ白だが、肌つやが若々しいためか、七十歳ぐらいにも見える。


 華佗は年齢を感じさせない所作でむしろに正座をすると、床の上においた青いふくろを、すすっと私の前へ押しだした。


「胡昭どの。本日は、貴殿にこれを受けとっていただきたく、まいりました」


「はて、これは……?」


 首をひねりはしたが、私には心当たりがあった。

 華佗で青い嚢というと、青嚢書せいのうしょではないだろうか?


 青嚢書とは、曹操の勘気に触れて牢にとらわれ、刑死間近となった華佗が、自分によくしてくれた獄吏にゆずったとされる医術書である。


 獄吏は「これで天下の名医になれる」とよろこんだのだが、「名医になっても華佗のように獄死してしまっては元も子もない」と、妻に燃やされてしまい、幻の書となってしまうのだ。


 なお、三国志演義での話だと思われるので、実際のところは定かではない。


「これは、私がおさめた医術の集大成ともいえる書でございます」


「なんと?」


 予想は当たっていたが、私はおどろいてみせた。いやだって、中身がわかっていたらおかしいじゃないの。


「そのような貴重なものを、なぜ私に?」


「じつは、宮仕えをやめようと思っているのです」


「…………」


「いつだったか、胡昭どのには書簡にて胸中を吐露いたしましたが……。私は名声を追いもとめ、躍起になってまいりました」


 華佗も士大夫の例にもれず、名声を追いもとめるクチである。というのも、私たちにとって名声のあるなしは、死活問題といってもいいほど重要なのだ。


 わかりやすいのが諸葛亮の例だろう。


 彼が荊州の名士社会にくいこみ、隆中リュウチュウでのんびり暮らしていられるのは、琅邪ロウヤ諸葛氏が名家だからである。もし諸葛家がただの地方豪族だったなら、もっと苦労していたはずだ。


 地方豪族は郷里を失えば、土地、私兵、民といった力の源泉を失ってしまう。けれど名声さえあれば、身ひとつで遠い地に移住しても歓迎してもらえるし、いろいろ便宜をはかってもらいやすくもなる。


 士大夫にとって、名声とはステータスであると同時に、乱世を生き抜くための力でもあるのだ。


 私は理解をしめすようにうなずいて、


「苦労なさったでしょう。医士の立場はあまりかんばしいものではありませんからな」


「はい。宮中にて忠勤に励み、貴人に評価していただければ、と思っておりましたが、望みはついぞ叶いませなんだ」


 華佗も悲しげにうなずいた。


「曹司空は華佗どのの医療技術を高く評価されている、と聞きおよんでいますが……」


 曹操なら、技術のある人材は高く評価しそうに思える。


「……医士のなかでは、でございます。しょせん医術は医方であり、医士は方士なのでございます。占い師や仙人を自称するようなやからと同じ、方士なのでございます」


 華佗は声をふるわせた。口惜くちおしさがあふれて、おさえきれないようだった。


 ……なるほど。技術や能力を評価する一方で、迷信だとかまじないだとかをうとんじるのが曹操だ。


 医療技術に対するプラス評価と、方士に対するマイナス評価がないまぜになって、思うような評価を得られなかった、ってところだろうか。


「宮中にいては、私の望みは叶いませぬ。自身の名声も医士の立場も、高めることはできぬのです。老い先短いわが身、このままでよいのかと考えていたときに、ふと胡昭どのの存在を思い出したのでございます」


「私の存在、ですか?」


「胡昭どのの名声は、涼州のような辺境においてもなりひびいておられます。胡昭どのを見習い、宮中にこもらず直接民を救う道もあるのではないかと思った次第でございます。この年になって、今さらかもしれませぬが」


 むむっ。私の存在によって、華佗の行動が変わろうとしている……。


 どうしたものかとシミュレートしてみるが、悪い変化ではないように思える。

 なにせ、このまま曹操のそばにいれば、華佗は処刑されてしまうのだから。


 たしか、頭痛で悩む曹操に対し、「頭蓋骨を切りひらいて手術しなければ治りません」といって、「こやつ、余を殺す気か!」と激怒させたんだっけか。


 いくら華佗でも頭蓋骨の切開手術に成功したなんて話は聞いたことがないから、これもまた後世の脚色だとは思うけど、もとになった話はあったはずだ。


 曹操に処刑されたというのは事実だろうから……。

 うん、悲劇をむかえる前に、曹操のもとをはなれたほうがいいのかもしれない。


「……なるほど。それで、許都をはなれるおつもりでしょうか?」


「はい。まずは故郷に帰ろうと思っております。それから各地を旅しながら人々を治療し、医学を広め、弟子を育てようと思っております」


「それもよいのでしょう」


 といって、私は青い嚢の口をあけた。

 とりだした竹簡を見ると、表題がなかったので尋ねる。


「……して、この書の名は?」


「それが、まだ決めかねておりまする。ぜひとも、胡昭どのに命名していただきたく……」


「……わかりもうした。それでは、この『青嚢書』、たしかにあずかりました。この書とともに華佗どのの名がさらに世に広まること、私が約束いたしましょう」


「おおっ……、かたじけのう存じまする。ご厚恩、生涯忘れませぬ」


 華佗は深々と頭をさげ、安堵を含んだ声でいった。


 どうやら、私の対応はまちがっていなかったようだ。

 いくらなんでも単なる善意や好意で、あまり面識のない私に貴重な書をあずけるわけがない。


 華佗にとっては取引であり、賭けだったのだ。


 華佗の医療技術を広めて名声を高めるために、私の協力がほしい。

 対価として、大切な書をさしだす。

 そんな取引をしたかったにちがいない。


 取引相手に私を選んだのは、名声のある書家だから。

 当人に名声がなければ、華佗の名声を高めることもできない。

 書を重んじ、写本の作成もする書家なら、うってつけの相手だろう。


 けれど私のほうがだいぶ立場が強いから、対等な形での申し出ができず、さきに書をさしだして、私の反応に賭けるしかなかったのだ。




 こうして、私の写本づくりの日々がはじまった。


 本草ほんぞう学、鍼灸しんきゅう、運動療法……。


 この時代らしからぬ先進的なものもあれば、たまに未来の知識にかんがみて首をかしげるようなものもある。


 だが手直しはしない。これは華佗の書なのだから、私が削ったり付けくわえたりせず、そのまま世に出すべきだと思う。注釈もやめておこう。「はて、孔明先生はどうやって医療知識を学んだのだろう?」なんて詮索されたくないし。


 華佗の知識を最大限に尊重しつつ、私の保身もばっちり。

 どこにも問題はないな、よし!




 写本作成にとりかかって三日後。また来客があった。といっても、今度は華佗のようなめずらしい客人ではない。顔なじみの行商人である。


「農民たちから、『今年の秋は豊作になりそうだ』との声がちらほらあがっているようですよ。ちかごろ晴天がつづいているからでしょうか」


 などと語っていた行商人は、ふいに顔を曇らせると、


「そうだ、孔明先生。……新野の劉備さまはご存じでしょう?」


 いかにも思わせぶりな声で、ささやくようにいった。


「うむ。むろん、知っておるぞ」


 汝南で反曹操運動をくりかえしていた劉備は、史実どおり劉表のもとに身を寄せ、荊州北部の新野城に駐屯している。


「劉備さまといえば、曹操さまの暗殺をたくらんだ人物でしょう? 天子さまを救いだすために許都を攻めるべきだと、再三、荊州牧の劉表さまにはたらきかけては拒まれていたそうで……。ところが!」


 行商人は目を見はって、声調をあげた。


「いままで曹操さまとの戦に消極的だった劉表さまが、なにを思ったのか、二万の兵を劉備さまに貸しあたえたんですって」


「…………!?」


 なん……だと……?


 史実では、劉備は劉表の協力を得られなかったように記憶しているが……。

 歴史の微妙な変化が影響して、劉表の心境にも変化が生じているのだろうか。


 行商人はわざとらしく肩をすくめて、


「どこもかしこも戦争ばかりで、本当、いやになりますよねえ」


 おどけたようなしぐさだが、目は笑っていない。彼のまなざしは正直に、戦に明け暮れる群雄たちに対する、怒りとあきれを発露していた。




 *****




 黎陽城を占領した曹操は、城民を慰撫いぶしてから、さらに北へと軍を進め、鄴城を攻略している最中である。


 大軍勢が遠征に出ているため、劉備軍に対処すべく許都から動かせる兵力は、二万五千が限度だった。


 大将は曹操の従兄弟いとこにして、主君から全幅の信頼をうける夏侯惇カコウトン、副将は数多くの戦功をうちたてた名将・于禁ウキン、どちらも信任に足る将である。


 しかし、勇躍出陣する彼らを見送った、荀彧の心境は晴れやかとはほど遠い。


「夏侯惇どのが勝てるのか、心配ですか?」


 表に出さずにいた不安を指摘したのは、夕餉ゆうげに同席していた陳羣だった。

 図星をさされた荀彧は、かすかに苦笑を浮かべた。

 陳羣は口堅い男だから、隠す必要もあるまい。


「うむ。君の目には、劉備という人物がどう見えているのかな?」


 問われ、陳羣は箸を置いた。


 彼は一時期、徐州で劉備に仕えていた。荀彧よりも深く、劉備を理解しているだろう。


「民の敬慕を集め、将兵の信望も厚い。劉備どのは一代の英傑でありましょう。軍事指揮官としても、一流の手腕の持ち主といえます。欠点もありますが……」


「その欠点とは?」


「粘りがありません。不利な戦況を耐えて、反攻に転じようとする意志が薄いのです。もっともそれは、壊滅的な被害をうける前に逃げを打てるという意味では、長所ととらえることもできるのですが」


「いや、勝てるかもしれない戦をあきらめてしまうのは欠点だよ。それでは機をつかみそこねる。……ああ、たしかに劉備にはそうした面があるな」


「そうですね。こたびの戦も、高幹軍が健在なうちに動いていれば、より大きな脅威となっていたでしょう」


「うむ。おそらく劉表の腰が重かったのだろうね。……劉備も劉表も大局が見える男ではあるが、どうも時勢に乗りきれていないようだ」


「時勢、ですか……」


「ひとつの勝利が天下を揺り動かすことは、往々にしてある。だが、そうした勝利は、時勢に乗っているからこそ手にできるのだ。そうでなければ、勝ち戦も一局面での勝利にすぎず、戦略の盤面をくつがえすにはいたらない」


 いいながら荀彧は、劉備の半生に思いを馳せた。


 たしか年齢は、荀彧よりひとつかふたつ、上だったろうか。もう若くはない。各地を転戦し武勲を積みかさね、人望も名声もありながら、劉表の客将という身分に甘んじているのだ。不遇をかこっているといえるだろう。


 劉備の部下に、時勢を見きわめ、好機をたぐりよせることのできる知謀の士がいれば、もっとうまく立ちまわれたはずだ。逆にいえば、そのような軍師がいないかぎり、劉備は深刻な脅威にならないともいえる。


 ともあれ、いますべきは劉備軍を撃退することであって、潜在的な脅威をはかることではなかった。


 はたして夏侯惇は、劉備に退却を選ばせるだけの状況をつくりだせるのか。


 荀彧は不安をぬぐえず、気の置けない後輩の前で、盛大に嘆息した。


「せめて、程昱どのが許都にいてくれればよかったのだが……」


 対袁譚戦線に投入されている荀攸、郭嘉、賈詡、程昱。


 彼らのうち、だれかひとりでも夏侯惇軍に同行できれば、劉備軍の対処に難儀することもなかったろうに。それが荀彧の偽らざる本心であった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
三國志の時代では医師の立場が低いのか謎でしたが、黄巾党の発祥が民間治療していた団体なのですね。第2第3の黄巾党誕生とか洒落にもならないですし医師が権力者に警戒されますのも当然の話ですか。
[一言] 華陀さん運命回避W 良かったW
[良い点] 転生物とかでついうっかり主人公が入れちゃう注釈を回避するとは流石は胡孔明先生!!!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ