第四七話 祝勝会
結果として命を代償とすることになった郭援軍の奇襲は、しかし形勢を変えるにはいたらなかった。
後方をおびやかされ、勢いにかげりを見せるかに思われた馬超軍であったが、そのあいだも馬超がみずから前線で奮戦し、呼廚泉軍に反撃の隙をあたえなかった。
郭援軍が全滅して後方の憂いがとりのぞかれると、馬超軍の前進を押しとどめるものはなにもない。
彼らが人馬の奔流と化して、呼廚泉軍をのみこもうとしたとき、ついに悲鳴まじりの命令がひびきわたった。
「退却ッ! 退却せよッ!」
呼廚泉軍は算を乱して逃げだした。
元来、匈奴兵は逃げるのが巧みである。なにしろ騎兵であるため足が速い。負け戦だとみるや、無辺の大地をどこまでも逃走し、漢朝の軍勢をひきはなしていくのだ。
呼廚泉がひきいる南匈奴の兵士たちも、漢化したとはいえ匈奴の血を濃く受け継いでいた。
あるいは斬り殺され、あるいは突き殺されながらも、呼廚泉軍の兵士たちはつぎつぎと戦場を離脱していく。
彼らが乗っている馬は金になる。欲望に目の色を変え、追いかけようとする馬超軍の兵士たちの頭上を、馬超の大声が打ちすえた。
「逃げる敵はどうでもいい! 敗残兵にかまうな! 敵の総大将は高幹だ! 高幹を討ちとれば恩賞は思いのままだぞ!!」
先陣をきり、全身を返り血で染めた大将の言葉である。兵士たちは素直にしたがった。関西で暮らす彼らは力の信奉者であり、馬超は力の体現者であった。
兵士たちの欲望の目は、鍾繇軍と交戦している高幹軍へとむけられた。
「かかれえッ!!」
号令をかける、馬超の息は熱いまま。もう寒さで白くなることはない。
血なまぐさい戦場の熱気が地表をおおい、冷気を押しのけているかのようであった。
それも、そろそろ終わるだろう。
戦が佳境に入ったのを、馬超は感じとっていた。
馬超軍が高幹軍におそいかかるのとほとんど同時に、高幹は凶報に接していた。
「なにっ!? 郭援が討ちとられただと!!」
彼は顔に怒気をみなぎらせて、味方をののしった。
「ええい、呼廚泉といい郭援といい、なんたるざまか! あの役立たずどもめッ!!」
とはいえ、悪態をついたところで状況がよくなるわけではない。
高幹軍の右翼は、鍾繇軍と馬超軍の挟撃にさらされ、完全に浮き足立っていた。
さらに伝令が馬をとばしてくる。凶報はあいついだ。
「左翼、新手の敵から攻撃をうけています! 鍾繇軍の騎兵部隊です! いますぐ援軍を――」
高幹のするどい視線に刺され、伝令は声を失った。
「今度は左翼か。……ふん、苦戦しているのだな?」
「は、はいっ」
「わかった。善処しよう」
あいまいな答えをしつつ、高幹は心中でつぶやく。
「これは……負け戦やもしれん」
高幹は勇敢で果断な将として知られている。粗略だの短慮だのと評する者もいないではないが、そうした悪評のなかにも臆病の二文字は見当たらない。
しかしこうも敗色が濃くなれば、高幹とて退却を視野に入れざるをえない。
理性が退却を訴えているが、感情は敗北を認められずにいる。
勝利の糸口がどこかに残されてはいないかと、高幹はすがるような思いでさぐった。
右翼と左翼は苦戦している。残るは正面である。
敵軍中央を突破して、鍾繇を討ちとりさえすれば……。
高幹の願いを断ち切るように、正面でも形勢に変化が生じていた。それまで守りをかためてさがるだけだった鍾繇軍が、攻勢に転じて高幹軍を押し返しはじめたのである。
その整然とした用兵を見て、高幹はうめき声をもらした。
「鍾繇軍は……ただ押されていたのではなかったのか」
鍾繇軍は反攻の機会を待っていたのだ。高幹軍を両翼からはさみこむ、絶好の機会を。
もはや中央突破どころではない。
勝機がついえたどころではない。
敵軍の一隊が北にまわりこみでもしたら、退路すら失いかねない状況である。
全滅という言葉が脳裏をよぎり、高幹は顔面を蒼白にして、馬首を北へめぐらした。
「退却! 全軍、退却ッ!!」
命令を発したとき、彼を乗せた馬はすでに駆けだしていた。
退却を命じれば、兵士たちのあいだには少なからず混乱が生じるだろう。その混乱に巻きこまれぬために、誰よりも早く逃げを打つ必要があったのだ。
それでも命令を下したのは、ひとりでも多くの兵士を逃がすためというより、むしろ彼自身の名誉のためであった。部下をおきざりにして敵前逃亡した、との汚辱はさすがに耐えがたい。
「くそっ、わが軍のほうが兵数は多かったはずだ。呼廚泉と郭援が不覚さえとらなければ……」
高幹はこの期におよんでも人を責めたが、最大の敗因は、なにより彼自身が計算をたがえていたことにある。
騎兵を温存しておき、機を見計らって敵の側面をつく。じつは高幹が開戦当初に思い描いていた作戦は、司馬懿の作戦とさしてちがいはなかった。
しかし、高幹が脳裏に予定を書きこんだだけであったのに対して、司馬懿は敵味方の情報を集め、彼我の戦力差を綿密に分析していた。そのうえで有利不利をつくりだし、有利な馬超軍には積極的に攻めさせ、不利な鍾繇軍には徹底的に守りをかためさせたのである。
どのように戦えば好機をつくれるのか。敵よりも早く味方に好機をもたらすためには、どうすればよいのか。それらを計算していた司馬懿と比べれば、高幹はただ好機を待っていただけにすぎなかった。
勝敗をわけたのは、両者の予見力の差であったのだ。
そもそも、高幹は戦がはじまる前から計算をたがえている。
彼は、「官渡と同じ轍は踏まぬ」と豪語して洛陽に狙いをつけたが、この作戦を当時上申していれば、袁紹はこういって却下したであろう。
「洛陽を占領すれば、南で劉表の領土と接する。私に荊州を攻める意思がなくとも、劉表は警戒するだろう。それを曹操が利用しないとでも思うか? 朝廷を通じて、私を討つよう劉表に命じるのは目に見えているではないか。劉表は皇族だ。漢朝の権威が地に落ちていようと、無下にはしづらかろう。勅命にしたがうかどうかは劉表次第だが、いずれにせよ、私は自分の運を人にあずけるつもりはない」
袁紹は頭のなかに天下の地図を思い描けたが、高幹にはできなかった。曹操という巨大な敵を見るだけで、高幹の器は飽和していたのである。
洛陽方面を攻める作戦を、袁譚が是とし、重臣の郭図や審配らが反対しなかったのは、あくまで黎陽に進出した曹操に対して、洛陽方面から撹乱するのは効果的であろうと判断したからにすぎない。
洛陽方面に侵攻すること自体に意味があったのだ。
彼らは洛陽の占領に固執したわけでもなければ、そこから許都に攻めあがり天下をとるなどという、高幹の秘めた野心に賛同したわけでも当然なかった。
「高幹が逃げたぞ!」
「追え、追えっ!」
敵兵の声が追いかけてくる。いまや高幹は生きる宝の山である。
「高幹さまが逃げたぞっ!」
部下の叫びは悲鳴だったが、助けをもとめる声に背をむけ、高幹は馬に鞭を入れた。
逃げる。
わき目も振らず、逃げる。
馬にしがみつくように身を小さくして、逃げる、逃げる。
不本意な、このうえなくみっともない形で戦場から離脱したころには、精も根も尽きはてていた。
もし彼が、曹操のごとき強靱な精神の持ち主であったなら。即座に敗残兵をまとめあげ、河東郡の要所をおさえて、虎視眈々と巻き返しの機会をうかがっただろう。
高幹にはそれもできなかった。
曹操に比肩する才気の持ち主だと自負していたにもかかわらず、彼の虚ろな瞳には、そうするだけの覇気は残されていなかった。
高幹は、曹操の本質もはきちがえていたのである。
河東郡の侵略に成功したとき、彼は曹操の隙をついたと錯覚してしまった。
だが、高幹が気づいたことに、曹操たちが気づいていないはずがない。
ある幕僚に、「河東郡の防備が手薄なように思われますが」と進言された際、曹操はつぎのように答えている。
「河東郡にまわす余剰兵力はない。なに、西は鍾繇にまかせておけばよい。……放任しているのではないぞ。河東が敵の手に落ちたなら、うばいかえせばよい。洛陽が陥落したのなら、うばいかえせばよい。手元に兵力さえあれば、いつでも土地はうばえるのだ。すぐれた人材を抱えていれば、たいして骨も折れぬであろう。いざとなれば、余がみずから出陣すればよいだけのことよ」
領土をうばわれたなら、うばいかえせばよい。
土地より人を重視しているからこそ成りたつ曹操の戦略的判断は、果断を通り越して、過激とも酷烈ともいうべきであろう。
この、まず人ありきで考える曹操の精神構造を、高幹は理解していなかった。
彼は曹操の業績や立身出世に目がくらんで、本質が見えていなかったのである。
結局、高幹は大陸一流の人物ではなかった。
予見力においては司馬懿に、思考の規模においては袁紹に、精神の強靱さにおいては曹操に、それぞれ遠くおよばなかった。
自尊心と野心をこなごなに打ち砕かれた高幹は、わずかな供をつれて、一目散に北へと逃げた。自身の本拠地・并州へと、ひたすら馬を走らせた。その姿は、忌まわしき惨敗の地から、一刻も早く遠ざかろうとしているかのようであった。
*****
夜になっても、洛陽の街は活気にあふれていた。
戦勝の報せがとどくまでの、息がつまるような寒々しい空気がうそのようだ。
帰還した兵士たちをむかえて、城の内外いたるところで宴会がひらかれている。その春めいた闊達な喧騒ときたら、盛時の洛陽もかくやと思わせるほどであった。知らんけど。
もちろん、私の店も宴会場のひとつだ。この時代にはめずらしい、テーブルセットが並んだ店内には、なかなか豪華なメンバーが集まっている。
鍾繇、司馬懿、馬超、張既、賈逵……。
けれど、VIPたちがつどう店内は、勲功第一といってもいい、重要な人物を欠いている。
敵将郭援を討ちとった龐徳がいないのだ。
その理由は、まさに郭援を討ちとったことにあった。
豫州沛国出身の郭援は、鍾繇にとって実の甥にあたる。
甥っ子の首を検分したとき、鍾繇は人目もはばからずに、おいおい泣きくずれたそうだ。なんという模範的な悲しみかたであろうか。儒教的に考えて。
大粒の涙をこぼして嘆き悲しむ鍾繇を見て、心苦しくなったのだろう。龐徳が謝罪すると、鍾繇は、
「わしにとっては甥であろうと、郭援は国賊なのだ。おぬしが謝る必要はない」
と、きっぱりいったそうな。むむ、なにやら立派なことをいっておられる。
そうしたわけで、鍾繇と顔を合わせるのが気まずい龐徳は、ちがう場所で飲み食いをしているのだった。
で、もう一方の鍾繇はどうしているかというと……。
「わっはっは! そこでわしはいってやったのよ! 『春秋は左氏伝が一番よ。公羊伝なぞ読んでおるから口がまわらんのだ』とな!」
はい、すっかりできあがっております。
今回の戦とはまったく関係のない、自慢話を語っております。
いや、気持ちはわかるのだ。兵力で劣っていたのに、思わぬ大勝をして、重圧から解放されて、ハイになっちゃうのもわからないでもないのだ。……けどね、甥が死んだ悲しみはどこへ行ったのよ。
私が長ーいため息をついていると 鍾繇がめざとく気づいて、
「孔明、おまえさんも春秋は左氏伝が一番だといっておったろう?」
「あー、はいはい。左氏伝が一番ですよ、左氏伝が」
私は席を立って、鍾繇の背後にまわった。白羽扇で口元を隠しながら、兄弟子の耳元にこそっとささやく。持っててよかった白羽扇。
「鍾兄は少し酔っておられるようですが、よいのですかな?」
「むっ?」
「郭援どのが亡くなられた直後なのですよ。そのようにはしゃいでいては、よくない風聞が広がりましょう」
鍾繇はハッと目を見開いた。
「……ううむ、そのとおりだ」
鍾繇は手のひらで顔をなでまわし、落ち着きを取りもどすと、椅子から腰をあげて声を張った。
「どうやら酔いがまわってしまったようだ。あまりみっともない姿を見せたくないのでな。わしは先に退席させてもらうとしよう。みなは楽しくやってくれい」
めんどくさい人が退場してから、つぎに私は馬超に声をかける。
「さて馬超。龐徳を呼んでくれぬだろうか。彼の功も、みなでねぎらうべきであろう」
馬超はあわてた様子で、口のなかのとんかつをゴクリと飲みこむと、
「はいっ。龐徳もよろこぶでしょう」
うれしそうに拱手して、
「表にいる部下に龐徳を呼びにいかせます」
と、なかば走るように店の外に出ていった。
しかしまあ、兄弟子の外聞を守ろうとしたり、功労者に礼を失しないようにしたりと、私の気配りもなかなかではないだろうか。
私が内心自画自賛しながら雑談に興じていると、龐徳はすぐにやってきた。
「龐徳、あざなは令明ともうす。胡先生にお招きいただき、光栄でござる」
かしこまって拱手する龐徳に、私はほがらかに笑いかける。
「さあさあ、まずは一献」
こうして宴席の夜は更けていった。
「うまい! うまい! いやあ、洛陽の食事はひと味ちがうと思っておりましたが、さすがに胡先生の店の料理は格別ですな! うまい! うまい!」
と、龐徳がぱくぱく料理をたいらげる。
戦場での武勇伝や、とりとめのない無駄話に花が咲く。
馬超が鍛えあげた上半身をさらし、見事な剣舞を披露して喝采を浴びる。
……なぜ脱ぐ?
途中、幾人かが酔いに負けたり、睡魔に負けたりしていくなか、私は最後まで意識を保ちつづけた。……というのも、寝るどころではなかったのだ。
胃がもたれる。
私は祝宴のメニューとして、とんかつのほかにもいくつか揚げ物を用意させていたのだが、ちょっと食べすぎたのかもしれない。くそう、自分の財布じゃないと思うと、ついつい食べすぎてしまう。
この時代に油で揚げる調理方法は存在しない。
だから、揚げ物を食べ慣れている私は、それなりに耐性があるほうだと思っていたのだが、どうやら過信だったらしい。やはり年齢か。もう四十過ぎだし、二十代の頃のようにはいかないわな。
いつしか夜は白みはじめていた。窓の外には、あけぼのの空が広がっている。
ここで一句。
かつは揚げ物、ようようクドくなりゆく。
……句じゃねーな、これ。
胃のあたりをさすりながら、私はしみじみと、戦乱の雲が遠ざかっていったのを実感するのだった。
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建安七年(二〇二年)五月に最大の敵・袁紹が死去すると、これを好機と見た曹操は河北侵攻の意思をかためた。九月、曹操は六万の兵を率いて黄河を渡り、黎陽城の南に本陣を置いた。
袁紹の跡を継いだ袁譚は、あらかじめ黎陽城の西に城砦を築き、黎陽城とあわせて六万の兵をもって曹操軍を迎え撃った。両軍の兵力はほぼ同数であった。
黎陽での戦況が膠着する一方で、袁譚は曹操領を脅かすべく、高幹に命じて河東郡を攻めさせた。高幹は南匈奴の単于、呼廚泉の協力を得て、次々と河東郡の城を落としていった。
河東郡をふくむ曹操陣営の西方をあずかっていた鍾繇は、胡昭にすすめられて司馬懿を参軍に任命し、また張既を派遣して関中に援軍を要請した。要請をうけた関中の馬騰は馬超・龐徳らを援軍に送った。
建安八(二〇三年)二月、高幹・呼廚泉軍と鍾繇・馬超軍は潼関の東で対峙した。馬超軍は呼廚泉軍を大いに破り、呼廚泉は敗走した。さらに龐徳が高幹軍の将・郭援を討ちとり、司馬懿の作戦によって包囲された高幹軍はさんざんに撃ち破られた。
この大敗は袁譚領内の民心に大きな影響をあたえ、主戦場である黎陽の戦況も動かした。
袁譚領では、官渡の敗戦によって失われた兵力を回復するため、徴兵がたび重なり、圧政によって民が苦しんでいた。そのため高幹惨敗の報が広まると、反乱が頻発した。
三月、袁譚は反乱を鎮圧するために本拠地の鄴にもどり、曹操は放棄された黎陽城を占領して河北平定の足がかりとした。
黎陽・潼関の戦い wiikiより一部抜粋
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