第四六話 黒羽扇
「気をつけろ!! あっちにも敵がいるぞっ!!」
馬超軍の兵士が叫び声をあげ、敵軍の姿を指でさししめした。その指は、敵味方が混沌と入り乱れる前線ではなく、左手後方にむけられている。そこには、戦場を迂回してきた郭援軍の姿があった。
「馬超軍の陣容は乱れている! 突進、粉砕せよッ!!」
郭援の号令がひびきわたり、彼と麾下の騎兵部隊は、猛然と馬超軍におそいかかった。
突きだされた戟を払いのけ、郭援の槍がするどくひるがえる。馬超軍の兵士があえなく落馬するのを見て、郭援軍の鬨の声はいや増した。
その喊声に気圧され、馬超軍の兵士たちのあいだに動揺がひろがっていく。ついいましがたまで、彼らは後方にいたはずなのだ。ところが忽然とあらわれた郭援軍によって、前線に立たされてしまっている。
いかに精強をうたわれる涼州兵であろうと、最前線で呼廚泉軍を相手に大暴れしている精兵たちと比べれば、彼らの士気や練度は十分ではなかった。
郭援軍の攻勢はとまらない。馬超軍の動揺は混乱となり、恐慌となろうとしていた。その波が後方の兵士たちにとどまらず、全軍に波及するかに思われたとき、あらたな一団がこの戦場に馳せ参じた。
「あわてるな!! 持ちこたえよ!!」
鼓舞激励するのは龐徳である。郭援軍の動きをいち早く察知した彼は、精兵の一隊をひきつれ、前線からこの場へと急行したのだった。
「龐徳さまだ! 龐徳さまがきたぞっ!!」
馬超軍の兵士たちは歓喜の声をあげて、関中屈指の猛将をむかえた。大将の馬超が前線をはなれられぬ状況で、副将の龐徳が駆けつけたのだ。これほどたのもしい援軍はほかにいまい。
「よく見ろ! 敵の数は少ないっ! 落ち着けえいッ!!」
龐徳の大喝が空気を震わせた。兵士たちの背中を平手でたたくようなはげしい声が、伝播しつつあった動揺をしずめていく。
ただならぬ敵の登場に、郭援は目をすがめた。品定めでもするようなまなざしであったが、警戒の色は一瞬でかき消えた。
数が少ない。たしかに、郭援の手勢は二千騎とけっして多くはない。馬超軍の五分の一にもとどかないが、それをいうなら龐徳のつれてきた一隊は、数十騎でしかないようだった。百騎にも満たない相手など、突進の勢いのままに蹴散らしてしまえばよいのだ。
さらに馬をあおり、咆哮をあげる郭援の視界のなかで、龐徳は長柄の得物を手放した。大刀を鞍において、かわりに手にとったのは弓である。
矢をつがえるやいなや、弓弦の音が戦場の喧騒を切り裂いた。
怒号と悲鳴をつらぬいた一矢は、馬上から無造作に放たれたのが信じがたいほど正確に、郭援の顔面を狙っていた。
「うぐっ……」
郭援は低くうめいた。とっさに顔をかばった彼の右腕に、矢が深々と突き刺さっている。
そのときすでに、龐徳は弓を投げ捨て、大刀をつかんでいた。みずから射た矢を追いかけるように、一直線に郭援めがけて馬を走らせる。
龐徳の馬は、見目が悪くて駑馬にしか見えない。しかし、足どりは飛ぶようにかろやかである。まるで騎手の技量を信じきっているかのようだった。
郭援は槍をかまえようとして、愕然とした。右腕に力が入らない。苦悶にゆがんでいた顔が、狼狽の色に染まる。
眼前にせまりくる敵が、並々ならぬ豪傑であろうことは容易に知れた。なにしろ、弓馬術の神技を、たったいま目の当たりにしたばかりである。郭援はたまらず、
「ま、待て――」
「待つか、阿呆!」
水平にひらめいた龐徳の大刀を、郭援はかろうじて槍でうけた。うけはしたものの、右腕を負傷したいま、彼の槍をささえているのは、実質左腕一本の力でしかない。脆弱な抵抗をものともせず、大刀は横一閃にはしりぬけた。ただ一合で、郭援の首は宙に舞った。
*****
ふー。ようやくにわとりの解体を終えた私は、これから鶏肉料理の講習をしなきゃならないのに、もう仕事を終えた気分である。というか、終えたい気分。だって疲れちゃったんだもの。
「孔明先生に新鮮な食材を使っていただきたいのです!」という善意なのはわかっちゃいるが、加減ってものを考えてほしい。
さて、気を取りなおして、つぎの料理は焼き鳥である。
串焼き自体はこの時代にもあるから、説明も簡単だ。
塩でもいいけど、せっかく醤があるのだから、醤油ベースのタレもどきでいこうと思う。
私が鶏肉とねぎを串に刺しはじめると、見学している料理人たちから質問があがった。
「孔明先生、なぜ鶏肉にねぎをはさむのでしょうか?」
「うむ。鶏肉とねぎは相性がいい。……それに、鶏肉の節約にもなる」
「…………!」
その瞬間、彼らの私を見る目つきが、変わったような気がした。
より真剣になったというか。単なるアイデアマンを見る目だったのが、同業者を見る目に変わったというか。
なるほど。私はその理由を察した。
鶏肉であっても、肉は高い。
彼らは頭のなかで、原材料費を計算していたにちがいない。
だから、ねぎをはさんで原価をおさえようという工夫に、経営者としてうなずくものがあったのだろう。
原材料費の高騰をどう商品価格に転嫁するか。
いつの世でも変わらない、永遠のテーマといえる。
「孔明先生、どうして鶏肉とねぎを同じ数にしないのですか?」
料理人たちからの質問はつづいた。私はひとつうなずいて、
「たしかに、鶏肉とねぎをいっしょに食べてもらうという理由にせよ、鶏肉の量をおさえるという理由にせよ、同じ数でないのは不思議に思える。しかし、ねぎが端にあったら、串から抜け落ちてしまうであろう」
「あっ」
その料理人は恥ずかしそうに照れ笑いをする。彼は初歩的なことを失念していたのだ。火を通すと肉は縮んでしまう。けれどその性質があるから、串にくっついていられるのである。
だから、ねぎが抜け落ちないように、鶏肉ねぎ鶏肉ねぎ鶏肉と、鶏肉ではさみこむ必要があるのだ。
そこで、また別の料理人が首をかしげながらいった。
「肉ねぎ肉ねぎねぎ肉、という順番にすれば、同じ数でも抜け落ちることはないように思うのですが……」
「……っ!?」
この日一番の衝撃を、私はうけた。
なんてこった。こんな簡単なことに気づかなかったなんて……。
「ウム! まったくだ! さっそくそうしてみよう。すばらしい、じつにすばらしい案だ!!」
私はここぞとばかりに、その料理人を褒めちぎった。
彼がうれしそうに、誇らしそうに笑うのを見ていると、思わずこちらも笑みがこぼれてくる。そのとき、私の心のなかで、なにかがしっくりかみ合った。
はー。やっぱ、おだてられるより、おだてる側にまわったほうが落ち着くわ。
*****
将を失った郭援軍は、目に見えてあわてふためき、その馬蹄のとどろきは方向性を見失った。ひとたび足がとまれば、四方を敵にとりかこまれ、孤立してしまっている。彼らはそれまでの勢いが嘘のように、おそれおののき震えあがった。
「足をとめるな! 前進だ! このまま前進して、敵陣を突破する!!」
「いや、南だ! 南のほうが敵は少ない。南にむかって馬を駆けさせよ!!」
残された将校たちがけんめいに死地からの脱出をはかるが、命令は統一性を欠いていた。
郭援なき郭援軍に、もはや戦う力はなかった。獲物が弱るのを待つ肉食獣のように、馬超軍は包囲網をせばめていった。ほどなく太鼓の音がひびきわたる。突撃の合図であった。馬超軍は一斉に動きだし、退路をなくした敵軍に殺到していった。
そのおおよその状況を、司馬懿は伝令が走るより早くつかんでいた。
地上を見おろす鳥のように、戦場を鳥瞰しようと神経を張りめぐらせていた彼は、馬超軍の旗が乱れ、おさまったのを見てとったのである。
司馬懿は自問する。
じきに伝令が、詳細な報せをもってくるだろう。しかし、それを待っていてよいのだろうか。伝令が誤報をもたらす場合もあれば、正しくとも状況が二転三転してしまい、時機を逸する場合もある。
彼が予測した範囲内で、戦は推移しているようだった。好機が訪れたように見える。ある程度の確信はあったが、ある程度でしかなかった。なにしろ初陣である。自身の経験不足は否定できない。
だが、迷いの原因が経験不足にあるのなら、それこそ引きずられてはならなかった。彼個人の内面や感情には、一顧の価値もないのである。経験不足による疑心暗鬼、武功にはやる功名心、軍を指揮する高揚感、そして戦をあずかる重責。そうした余計なものに惑わされてはならないのである。
極力、主観を排して判断しなければならない。
黒い羽扇を握りなおし、司馬懿は結論を出した。
やはり、いまこそ動くべきときであろう。
「そろそろ、よろしいかと」
司馬懿は、轡を並べて戦局を見まもっていた鍾繇に献言した。
「うむ」
鍾繇がニヤリと口角をつりあげた。なにかを思いついたようである。
「命令はおまえさんが自分で伝えるといい。何事も経験だからな」
戦場に慣れておくにこしたことはない。司馬懿は、上役の配慮に感謝して頭をさげると、伝令を呼びよせた。
「温存している騎兵部隊へ伝令。東からまわりこんで、高幹軍の側面を攻撃せよ。あわてる必要はない。遠からず、呼廚泉軍が潰走して、馬超軍と高幹軍が交戦に入る。そこに呼吸を合わせて、挟撃せよ!」
「はっ!」
伝令を送り出すと、鍾繇がからかうように、
「なかなか、さまになっているではないか」
「であればよいのですが」
鍾繇のもと、司馬懿は参軍事に任命されて、この戦にのぞんでいる。
えこひいきと見る者もいるであろうが、さいわいなことに、兵士たちの司馬懿を見る目に侮りの色はないようだった。
それというのも、外見によるところが大きい。
大柄な司馬懿は黒い鎧に身を包んで、これまた大柄な黒馬にまたがっている。風貌だけなら、輝かしい戦歴をほこる名将に見えなくもない。
見た目詐欺もいいところだが、彼を見る兵士たちのまなざしには、ときおり畏敬の念すらこめられているのだった。
「ははは、外見も立派な才能よ」
鍾繇はかるい口調でいった。冗談めかしているが、本心であろう。
兵士たちの感情は、戦場を流れるうちに巨大なうねりとなって、戦局を左右する。勝敗を決定づける要因となりうるのだから、留意しておかねばならない。
彼らの心のよりどころとなるのなら、こけおどしであろうとかまわないのだ。
「見てくれだけといわれぬよう、はげんでまいります」
「はん、いいたい奴にはいわせておけ。どっしりかまえておきゃあいい」
「はっ、どっしりしております」
生真面目に答える司馬懿の全身を、鍾繇はあらためて、まじまじと眺めやった。
「それにしても、ずいぶんとものものしい姿だな、その黒ずくめの格好は。威厳といい、風格といい、たいしたもんだ。……ふぅむ。白羽扇でなく、黒羽扇にしたのも、そのためか」
「どうせ血で汚れて、黒くなりますゆえ」
と、司馬懿は苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを浮かべた。
この黒羽扇は、初陣の祝いとして孔明から贈られたものである。
洛陽の市を物色しながら、「なにがよいか?」と師に問われ、司馬懿が所望したのが黒羽扇だったのだが、そこには相応の理由があった。
白地の鶴氅に白羽扇、孔明の白は秋の色であり、黒は冬の色である。
黒羽扇はいかにも孔明の弟子らしく司馬懿には思えたし、鎧や馬と黒一色でそろえたのは、太平の春をむかえるまで戦に身を投じるのだという、彼なりの覚悟のあらわれでもあるのだった。




