第四四話 馬超猛進
いま、私の店には、官民を問わず洛陽中の料理人が集まっている。
祝勝会のメニューは、私が中心になって決めさせていただいたが、万を超える兵士たちに食事を提供するのだ。うちの店だけでは、とても手が足りない。
レシピを共有して、多くの料理人に協力してもらわねばならなかった。
レシピが広まるのは問題ない。
隠匿したければ、そもそも店を出してないので。
プロの料理人たちの手で、洗練された料理へと発展していけばよろしいのではないでしょうか。
料理人たちは目つきギラギラ、かなり気合いが入っている。
彼らにとっても、この戦は他人事ではないのだから、当然だろう。高幹軍に占領されれば、どのような目にあわされるかわかったものではない。それに、最近流行っている私の店の料理を学べる、という期待もあるようだった。
「孔明先生、その調理器具はなんというのですか?」
と、ある料理人が質問した。彼らの興味深そうな視線は、私がもっているこの時代には存在しない道具にそそがれている。
「うむ。これは、おろし金というものだ」
私が右手にもっているのは、特注でつくってもらった銅製のおろし金である。
もう一方、左手には白いパンをもっている。時間が経って、固くなったパンもどき。
残念ながら発酵が不十分なのか、出来立てであってもふわふわとまではいかないし、正確にいうとパンでもないと思う。蒸してつくられているから、肉まんの皮の原型みたいなものだろうか。
こうした小麦粉料理全般を、餅という。
異民族から伝わったという粉食文化は、まだまだ歴史が浅いので、料理のくくりかたもずいぶんとおおざっぱだ。
餅と書いてパンなのだから、日本語的にもややこしい。
ただ、粉食の歴史が浅いという点は、私にとって有利にはたらく。
一八〇〇年後の美食の国、日本の食文化を知っていることが、大きなアドバンテージになるはずだ。
おろし金とパン。
そう、これからつくるのはパン粉である。
私はおろし金に固くなったパンをあてて、ゴリゴリおろしはじめた。
白いパン粉が降り積もっていく様子は、寒い時期だというのに、かき氷を思い起こさせた。
*****
東の空にのぼった太陽ですら、きびしい寒気を押しのける力はもちあわせていないようだった。母なる河水の流れは氷雪におおわれ、あちらこちらで氷が盛りあがり、するどい岩のように突きでている。
白銀の世界に反射する太陽光のまぶしさに、馬超が目を細めていると、龐徳が馬を寄せてきた。
「この凍りついた大河が、敵の目には吉兆に見えているでしょうな」
龐徳は白い息をはきながら、おもしろくなさそうにいった。
「だろうな」
氷上を歩いて渡河している敵軍から視線をそらさず、馬超は短く答えた。
分厚い氷は、武装した歩兵や騎兵の重さに耐えてあまりある。
川が障害とならないのだから、攻め手の高幹・呼廚泉軍にとっては非常に都合のよい状況であった。
北から流れてきた河水は、秦嶺山脈につきあたり、東へと流れを変える。
その大河が折れまがる南岸に潼関があり、潼関から東へ進んだ地点で、馬超軍一万三千と鍾繇軍一万四千は敵軍を待ちかまえていた。
この日に先立ち、馬超軍と鍾繇軍が合流したときに、軍議がひらかれている。
そこで、異彩を放った人物がふたりいた。
ひとりは賈逵、あざなを梁道という男である。
絳邑城の守りについていた賈逵は、高幹軍に敗れて、捕虜となっていた。
だが、敵兵を籠絡し、住民の手を借りて、脱出に成功したのである。
彼は虜囚の身でありながらも、冷静に敵軍の様子をうかがい、分析していた。
「高幹軍二万二千は歩兵が中心であり、呼廚泉ひきいる匈奴軍一万はほぼ全軍が騎兵である。そして、あぶみが配備されているのは、数が少ない高幹軍の騎兵だけなのだ。ここに勝機があるだろう」
賈逵が見解を述べると、帷幕を好戦的な空気が支配した。
戦は日々進化している。精強な騎馬民族として知られる匈奴であろうと、あぶみがなければ時代遅れであろう。おそれるほどではない、と。
もうひとりの人物は、軍議をとりまとめていた司馬懿である。
この戦で主導的な役割をあたえられているらしい司馬懿が、潼関の東が戦場になるであろうと明らかにすると、異論があがった。
「ここはいったん函谷関まで引くべきであろう。函谷関で敵軍の前進をくいとめ、後背から馬超どのの軍勢がおそいかかる。これこそが必勝の計である」
純軍事的に正しい意見だと馬超は思った。あくまで戦場のみを見ればであるが。
司馬懿はゆずらなかった。
「函谷関まで引いてしまうと、洛陽と関中をつなぐ公路が断たれてしまいます。洛陽の商業や民心に、大きな影響をおよぼすでしょう」
「だが、なによりも勝たねばならぬ」
「勝てます」
断言した司馬懿は馬超にむきなおり、
「われらが高幹軍の攻撃を引きうけているあいだに、馬超どのには呼廚泉軍を撃破していただきたい。同じ騎兵同士、数と質で勝る関中軍ならば、たやすいと思うのですが。いかがでしょう?」
「ふっ、よかろう。呼廚泉軍など一蹴してごらんにいれよう」
馬超は不敵に笑ってみせた。
じつは、強気にふるまうのには理由があった。
函谷関まで引かれては、馬超が困るのである。
安定しつつある洛陽と比べて、関中はまだ不安定な状況がつづいている。
公路を遮断されて動揺がはげしいのは、むしろ関中のほうであった。
さらに馬超軍が遠征に出ていて留守とあれば、なにが起こってもおかしくない。
変事が起これば、最悪の場合、馬超軍は戦わずして関中に引き揚げる可能性すらあるのだ。そうなれば必勝どころではない。
おそらくそれを見透かしているから、司馬懿は函谷関まで引こうとしないのだろう。
「馬超どのの軍勢はかならずや呼廚泉軍を撃破してくれるでしょう。そののち高幹軍を挟撃する。これで勝利は疑いありません」
黒羽扇を手に、司馬懿が淡々というと、反論は急速にすぼんでいった。
まだ年若いにもかかわらず、彼の声は妙に老成しており、聞く者に抗弁しがたい印象をあたえていたのであった。
「……うまく乗せられてしまったか」
軍議を思い返して、馬超はつぶやいた。
諸将の前で関中軍閥の弱みをさらさずにすんだことを、司馬懿に感謝すべきかもしれない。
だが、どうにもそのような気分ではなかった。
結局、呼廚泉軍と戦い、高幹軍と戦い、もっともはげしい戦場に身をおきつづけるのは馬超軍なのだ。
それでも戦の勝敗を人にゆだねるより、よほどましであろうし、苦しい戦いになるのは鍾繇軍とて同じである。彼らは一万四千の兵で、二万二千の高幹軍をふせがなければならない。
「龐徳」
「なんでしょう」
「もし、われらが呼廚泉軍を潰走させる前に、鍾繇軍が崩壊したら、どうしたらいい?」
冗談めかした口調であるが、問いそのものは深刻である。
「若大将のなさりたいように」
「わが軍だけで、高幹軍も倒すか」
馬超がかるく笑うと、龐徳は目を丸くしてあきれた。
「……また、無茶をいいなさる。適当にやっていればよろしいでしょうに」
「負け戦は性にあわん」
「まあ、鍾繇軍の奮戦に期待するとしましょう。あの司馬懿という男も、ただの口舌の徒ではありますまい」
龐徳の声は、称賛というにはややひねくれていた。
足もとを見透かされているような居心地の悪さを、彼も感じていたのだろう。
自分だけではなかったか、と馬超は愉快そうに口の端をつりあげる。
「口先だけの男なら、孔明先生に高く評価されてはいないだろうよ。……さて、そろそろ、しかけどきだな」
高幹軍も呼廚泉軍も、あらかた河水の南岸にたどりついている。まだ布陣は完了していないようだが、もちろん、そこまで待ってやる義理はない。
白銀の鎧をまとった馬超が将兵の前に馬を進めると、人馬の列を緊張と高揚がはしりぬけた。
彼らにとって、馬超ほど大将にふさわしい将はいない。武勇はもとより、その英姿颯爽とした姿が陣頭にあるだけで、将兵たちの胸の裡には、誇りと戦意がわきおこるのだ。
馬超は槍を天に掲げた。陽光をうけて、槍の口金にかたどられた虎の頭が、まばゆく黄金にきらめく。
「全軍突撃!」
号令とともに、馬超軍は動きだした。一万三千の騎兵軍団である。加速して疾走にはいると、その馬蹄のとどろきは、大地を揺るがすほどであった。
呼廚泉軍もやや遅れて前進を開始した。騎馬民族たる彼らは、騎兵の強みを知っていた。なにより速度が重要なのだ。足をとめたままでは、馬超軍の突進をささえきれないように思われた。
矢が飛び交う距離をほんの数秒でおきざりにして、両軍は肉薄する。
衝突のそのとき、馬超は先頭集団の、さらに先頭にいた。
矛をかまえた匈奴兵が、猛々しい笑みを浮かべてせまりくる。
それを見た馬超の白面にも、同種の表情がひらめいた。
カッと目を見ひらいた、虎の笑顔。
次の瞬間、匈奴兵ののどぶえから血が噴きだした。
自分の身になにが起きたのか、彼は最期までわからなかったろう。目にもとまらぬ速さで、馬超が槍を突きだしたのだ。
ただひと突きで敵兵を屠ると、馬超はつぎの獲物に狙いをさだめる。
馬超の武勇は卓絶していた。
槍を突きだし、ふるうたびに、黄金の残影が尾を引き、血しぶきがほとばしる。
白銀の鎧を返り血で染めながら、彼は大音声をあげた。
「どけどけどけいっ! 死にたいやつから前に出ろッ!」
どけばいいのか、前に出ればいいのか、じつは当人も理解していないのだが、とにかくすさまじい勢いであった。




