第四十話 狙われた郭図
河北でも梅の花が咲く季節になった。
ときおり吹く風が、かぐわしい春の気配をはこんでくるようになったものの、鄴城に出入りする諸将の心中には、いまだ寒風が吹きすさんでいる。
袁紹の病状は悪化し、もはや誰の目にも明らかとなっていた。
冀州の官民にとって、袁紹は悪い主君ではなかった。彼のような強力な指導者がいなければ、豊かな冀州といえども、黒山賊や公孫瓚といった大波にのみこまれ、あえなく淪没していたであろう。
田豊と沮授亡きあと、冀州閥の領袖となったのは審配である。
主君の病状に気を揉んでいる彼の屋敷を、ある夜、逢紀が訪れた。
「審配どの。内密の相談があるのですが、よろしいか」
逢紀は荊州南陽郡の出身で、袁紹にとっては古参の臣にあたる。
韓馥から冀州をうばうのに多大な貢献があり、郭図らとともによそ者派閥を形成していたが、最近ではそこをはなれて、冀州閥に身を寄せていた。
「どのような相談かな、逢紀どの」
審配はうさんくさげな目を来客にむけた。
「このまま袁譚さまが跡を継ぐのは、冀州の豪族にとって、あまりよろしくないのではありませんかな。なにしろ、袁譚さまは名士を敬重していらっしゃる。潁川出身者とは、さぞ相性がよろしいことでしょう」
豪族は支配者であり、徴税者である。名士、名家と見なされる豪族もまれにいるが、基本的に、民から煙たがられる存在なのだ。
郭図や荀諶といった潁川の名士たちと、評判や名声で比べられては面倒なことになりかねない。彼らは土地をもたず、力も脆弱だが、名声の一点にかぎればあなどりがたい。
「ふむ。で、どうしろというのだ?」
「袁家の跡取りにふさわしいのは、袁尚さまではないか。そうは思いませんか?」
いいたいことはわかるが、臣下の分をわきまえぬ、出過ぎた言葉である。審配は鼻で笑った。
「ふっ、話にならんな。袁紹さまのお言葉はすべてに優先する。袁譚さまが当主になられると決まったからには、われらは袁譚さまに忠誠をつくすのみよ」
「ほう。では、よそ者が大きな顔をするようになってもよいのですかな?」
逢紀は目を丸くして、皮肉っぽくおどろいてみせた。
「それこそ、よそ者の貴殿に心配されるいわれはない。よけいなお世話というものだ。私がなにも手を打たないとでも思っているのか」
審配は強い語気でいいはなった。
「と、いいますと?」
「よそ者の中心となっているのは郭図だ。やつを暗殺する手はずは、すでに万事ととのっておるわ」
ほめられた手ではない。だが、審配はためらうつもりはなかった。
袁譚が当主になれば、袁家の弱体化はまぬがれない。袁譚が悪いのではない。袁紹の代わりになる者は、どこにもいないのだ。
影響を最小限におさえて、袁家を守る。そのためには、自分が全権を握っておいたほうがよい。
傲慢にも思える審配の自信は、しかし、過信ともいえなかった。
事実、官渡の敗戦によって動揺する冀州をまとめあげたのは、審配だった。
彼のすぐれた行政手腕――ときとして主君である袁紹すら眉をひそめるほどの辣腕ぶりは、れっきとした実績に裏打ちされている。
「おおっ、さすがは審配どの。手抜かりはありませぬな」
逢紀の世辞をうけて、かえって審配は不機嫌そうにいう。
「鄴は私の庭だからな。ならず者を飼っているのも、こういうときのためよ」
袁紹は例外として、鄴でもっとも大きな力をもっているのが審配である。人ひとり消すのは、さほどむずかしいことではない。たとえそれが、対立する派閥の中心人物であろうとも。
「それで、決行はいつごろを?」
「さて、いつになるかな」
「……はっ?」
間の抜けた声を、逢紀があげた。
「いま、騒ぎを起こしてどうする。袁紹さまのご心労をふやすわけにはいかぬであろう」
審配はまなじりを吊りあげた。
なによりも、袁紹の病勢が快方にむかうのが一番ではないか。その身辺を、家臣団が対立して騒がしくするなど、言語道断である。この不届き者めが!
審配の発する怒気が演技ではないのを察したのだろう、逢紀はさも感心したふうに、
「なるほど、審配どのは、まことの忠臣でおられる」
「郭図など、袁譚さまが跡を継ぐときに始末すればよい。その混乱に乗じて、袁譚さまの側近を、われら冀州の豪族でかためる。それでなにも問題なかろう」
「なんと頼もしい。どうやら、私は正しい身の振りかたをできたようですな」
追従する逢紀を、審配はじろりと傲睨した。
逢紀がすり寄ってきた理由を、審配は見透かしていた。
許攸である。
袁紹古参の臣にして南陽郡出身、許攸と逢紀は同じ経歴をもつ、近しい間柄だった。
その許攸が裏切り、官渡の大敗を招いたのだ。
逢紀にむけられる家中の視線も、冷ややかにならざるをえない。
よそ者派閥では、なおさらきびしい視線にさらされたであろう。
彼らは名士の色が強い。つまり、儒教の色が強いのだ。
徳を規範とする集団では、居心地の悪い思いをしたであろうし、中核から外されもしたであろう。
逢紀が冀州閥に転向した理由は、おおかたそんなところにちがいなかった。
「逢紀どの、私も許攸の件では失態を演じてしまった。それを貴殿にかばってもらった恩もある。だから、われらの同志として認めているが、わかっているだろうな」
あるいは審配を擁護したとき、恩を売って近づこうという目論見が、すでに逢紀の頭にはあったのかもしれない。ともあれ、変節者にくぎをさしておく必要を、審配は感じた。
「もちろん、わかっておりますよ。審配どのを裏切るつもりなど毛頭ありません。ただでさえ、許攸のせいで肩身の狭い思いをしているのです。自分が裏切り者になってどうするというのですか」
「ほう。そのわりに、かつて同じ派閥にいた郭図が殺されようというのに、とめるつもりはないようだが?」
「これは異なことを。われわれの主君は袁紹さまでございましょう。私は袁家の将来を憂えて、審配どのが実権をにぎったほうがよいと考えただけ……。いや、今宵はよき話ができましたな」
逢紀は悪びれもせずにいって、満足げに屋敷を去っていった。
「ふん、逢紀か……。保身に走っただけであろうに、忠義の言葉で飾りたてようとは。あからさますぎて、反吐が出るわ」
審配はせせら笑うと、真顔になって思考の淵に沈みこんだ。
もともと、信のおける男だとは思っていなかった。
したたかな謀士というのが、逢紀に対する、審配の評価である。
だが、会話を交わすほどに、ただの小策士なのではないか? との疑念がふくらんでくる。
「これだから、よそ者は頼りにならんのだ」
審配はにがにがしげに舌打ちした。
逢紀には田豊の代役をつとめてほしかったのだが、どうやら期待はずれに終わりそうであった。
それから半月ほどして、審配のもとに、孔明の書簡がとどいた。
「陸渾の胡昭? 袁紹さまの辟召を拒んだ男か……」
冀州にいたころは知る人ぞ知る存在にすぎなかった孔明だが、いまや碩学として世に認められ、「天下の模範は胡孔明」とうたわれるほどの名声を得ている。彼から手紙がとどけば、そこらの豪族なら、とびあがってよろこぶだろう。
が、審配は、その名声に飛びつくような単純な男ではなかった。
「いまさら、なんの用だ」
審配は目をすがめて、疑り深く手紙の文面を確認し、……困惑した。
「……どういうことだ?」
これが曹操への降伏をうながすような内容なら、迷うことなく火にくべていたが、そうではなかった。そもそも、孔明は曹操の部下ではないから当然であろうが、それにしても、袁紹や曹操の名にはまったく触れていない。
書かれているのは、河北の民の暮らしぶりを案じるかのような、世間話でしかなかった。
「むう、……意図がわからん」
審配の困惑は深まるばかりだった。
なんの変哲もない手紙を手にしたまま、審配は室内をうろつきまわった。何周かするうちに、その双眸に理解の色が浮かんでくる。
「ふん、読めてきたぞ。しかし、そうなると……」
ひとりごとをくり返しながら、さらに何周か歩きまわり、ようやく足をとめた審配は、すぐさま甥の審栄を呼び寄せた。
ほどなく、文人ふうではあるが、無骨者の印象をぬぐいきれない男がやってきた。
審栄は袁紹の臣としては粗雑なところがあるが、豪族らしい手荒なやりかたには慣れている。一族の者であれば信用もできるので、審配は法を犯すような仕事を甥にまかせることが多かった。
「呼びましたか、叔父上」
「郭図を襲う準備はどうなっている?」
「はっ、刺客はそろっています。いつでも命じてくだされ。ふふふ、名士さまの命乞いか。どのような顔をしてくれるのか、見ものですね」
嗤笑を浮かべ、卑しい心根をむきだしにする審栄に、審配は不本意そうに告げた。
「いや、……郭図暗殺は、中止だ」




