第四話 孔明、曹操と対峙する
私は、司空府の廊下を侍臣に案内されていた。
袁紹からは、すたこらさっさと逃げればよかったけど、曹操に嫌われるのはちょっと困る。
私の安住の地は、曹操の勢力範囲内なのだ。
頭の中で大陸の地図を広げてみる。
河北は袁紹の息子たちが、骨肉の争いを繰りひろげる予定だ。
関中は董卓軍の残党がはびこっていて、そのうち馬超が進撃してくる。
漢中は曹操と劉備、宿命の対決の舞台となる。
荊州は曹操が攻めるわ、関羽が暴れるわで、泥沼になるだろう。
蜀には劉備が攻めこんで。
江東では、ただいま孫策が小覇王ってる真っ最中。
徐州はというと、赤兎馬をフェラーリばりに乗りまわして、呂布がブイブイいわせております。
ふふっ、どこもかしこも地獄だぜ!
というわけで、曹操のスカウトを断り、なおかつ不興を買わないよう気をつけなきゃいけません。
昨夜、荀彧の屋敷に泊まった折に、「誰にも仕えるつもりはないと述べて、諫言を口にしなければ問題はないであろう」との心強い助言をいただいたわけですが、ホントかな? 信じちゃうぞ。
前を歩く侍臣が足を止めて、「曹操さまはこちらの部屋でお待ちです」といった。
大丈夫、大丈夫。
しっかり曹操対策はしてきたつもりだ。
深呼吸をしてから、室内に足を踏み入れる。
「おお、胡昭、よく来てくれた。待っていたぞ」
中に入ると、榻に腰かけていた小柄な男が、親しげな笑みを浮かべて立ちあがった。
……へぇ。あまり、えらそうにしないんだな。
それが対面した、曹操という人物の印象だった。
部屋の中にいたのは曹操だけ。部下が並んで威圧してくるなんてことはなく、それどころか護衛すらいなかった。
曹操はにこやかな笑顔のまま、こちらに歩み寄ってくる。とてもフレンドリィ。
正直、悪い気はしない。
いやいやいやいや! なに騙されそうになってんのッ!?
くっ、さすが曹操! 袁紹とは格がちがう、格がッ!!
袁紹のプライドを生け贄にして、平常心を取りもどすことに成功した私は、とりあえずうやうやしく拱手した。
「お招きにあずかり、恐悦至極でございます」
「うむ。かねてより、おぬしの書法家としての名声は知っていた。くわえて、その才知は几案の才にとどまらぬそうではないか。荀彧や郭嘉がいうには、天下の大略を得た人物である、とな。……その器量、野に埋もれたままにするには、あまりにも惜しい。どうだ、余に仕えてみる気はないか?」
「荀彧に郭嘉、彼らこそ、まことの賢才にございます。私など、彼らと比べれば、まったくの凡夫でしかありません。曹司空に仕えたところで、お役には立てないでしょう」
えらい人は役職で呼んだほうがよろこぶ。
これは文化人類学上、明らかである。
キャバクラのホステスさんが証明してくれている。
「そう謙遜するでない。……それとも胡昭、おぬしは、余に仕えるのは嫌と申すか?」
「――ッ!?」
その瞬間、曹操の矮躯が数倍に膨れあがった。
にらまれたわけでも、すごまれたわけでもない。
表情も口調も穏やかなままなのに、喉元に刃物を突きつけられたように感じる。
……そうだ。それこそ格がちがったんだ。
相手は稀代の英雄で。こちとら、ただのおっさんだ。
「……では、こういたしましょう」
と、なんとか声を絞りだす。
がんばれ私、がんばれッ!
むりに機転を利かせる必要はない。
あらかじめ用意しておいたセリフをいうだけでいいんだ。
「私は、曹操さまに、お仕えします」
あ。
司空つけ忘れた。
ええい、いまさら、いいなおせるか! このままいくしかない!
「そして、今日をもって、致仕させていただきたい」
「なにっ、たった一日で辞めるというのか? なぜだ」
「私は畑を耕し、書をひらくことしかできぬ非才の身でございます。ですが、そんな私にも、曹操さまに忠義の心を捧げることだけならばできます。どうか、私の忠誠心をお納めください。……孫子に『道とは、民の心を君主とひとつにさせること』とあるように、私は民とともにあり、民のひとりとして曹操さまとともにありましょう」
「ほう。……忠義はこの曹操に捧げるというか、民とともに……」
言葉の意味をたしかめるように、曹操はつぶやいた。
曹操は孫子に傾倒していたはず。
孫子からの引用、どうか効いてくれ……。
「ならばよし!」
効いたああああああああああああ!!
よっしゃあああああああああああ!!
「人にはそれぞれ志がある。出仕するも野にあるも、人それぞれであろう。胡昭、おぬしの生きざま、まことに見事である。それを無理に曲げるわけにはいかぬ。この曹操が認めよう。おぬしはおぬしの道をいくがよい」
「ははぁっ!」
私は万感の思いをこめて拱手した。
ふっふっふ。
ちなみに、前世の私は、孫子の内容を知らなかった。
この時代で読みました。
今の私、けっこうインテリなのですよ。
*****
王佐の才。荀彧は若くして、そう称揚された。
そこに、特別なよろこびも気負いも感じたことはない。
才気煥発、眉目秀麗、いずれは名門荀家を担う人材になるだろう。
幼いころから常に期待をかけられていたし、それを裏切らぬよう、絶えず研鑽を積みかさねてきた。
周囲の大人たちに才能を見定められながらも、それに負けじと己の器に水を満たしていく。
そうした日々を過ごすうちに、自分もごく自然に、周囲の人々の才能や器をはかるようになっていた。
ところが、あまりにも振れ幅が大きすぎて、将来の読めない友人がひとりいた。
それが孔明だ。
一風変わった少年だった。
たまに奇妙なことをいいだし、ときにその奇抜な発想を実行にうつしては、当然のように失敗する。
それは型にはまった退屈な日々を過ごす自分にとって、馬鹿馬鹿しく、それ以上に羨ましく、そして何より新鮮なものに感じられた。
長じてから、孔明の異才は天下にむけられた。
天下の趨勢を見極めるその目は、はるか昔にこの大陸を駆けぬけた偉大な英雄たちと比べても、まったく見劣りしないように思えた。
学者としてか、発明家としてか、はたまた宰相としてか。
どの道を進もうと、彼はきっと、歴史に名を残すような人物になっただろう。
――太平の世であったならば。
孔明は、不思議なほどに血の匂いが似つかわしくない男だった。
儒学の大家、荀子の子孫として道徳を重んじる立場にいる自分は、彼の生き方を好ましく、高潔にすら思う。
しかし、今は暴力と権謀がすべてを喰らいつくす時代である。
どのような才も、天運に恵まれなければ、日の目を見ることはない。
彼の才は、干戈の冬に芽吹くことなく、このまま朽ちてゆくのではないか。
孔明は生まれる時代をまちがえたのではないか。
ひそかに、荀彧はそう嘆いていた。
うつくしい文章を書く几案の才でも、君主を補佐する王佐の才でもない。
孔明の奥底には、もっと大きな何かが眠っているというのに。
幾度となく、そう嘆いていたのだ……。
「……もう出てきてよいぞ」
孔明が退室してから、曹操は誰にともなくそう呼びかけた。
すると、衝立の裏に隠れていた荀彧と郭嘉が姿をあらわす。
曹操は、「群臣を並べて飾り立てているようでは、賢者と胸襟をひらいて語りあうことなどできまい」と一対一の対話を望み、荀彧と郭嘉は、「推挙した身として、その場に居合わせたい」と申し出ていたのである。
「見事にフラれてしまいましたね」
「ふふっ。おまえたちの予想どおりにな」
郭嘉にあっさりとした口調でいわれ、曹操は肩をすくめた。
「……いかがでしたか、孔明は」
荀彧はいささか慎重に訊ねた。
「うむ。耳をそばだてている邪魔者さえいなければ、脅してでも部下にしていたのだがな。……もっとも、おまえたちが隠れていることには、胡昭も気がついていたようだが。ふふふ、あの男、この余に君主の道を説いていきおった」
言葉のわりに、曹操に気を悪くしたそぶりはない。
郭嘉はうなずいた。
「孔明先輩のことですから、オレたちが隠れて聞いてることにも、気づいてたでしょうね」
もちろん、まったく、全然、かけらも気づいていなかった。
「うむ。たいした男よ。なるほど、おまえたちの称賛もうなずける。あれぞまさに天下の大賢であろう」
そうと知らぬ曹操は、孔明に対して惜しみない賛辞をおくった。
「…………」
荀彧はその評価を、まるで自分のことのようにうれしく思った。
漢室の庇護者として、諸侯に号令をかける曹操が認めたのだ。
いずれ孔明の名は、天下のすみずみまで届くだろう。
「余はあきらめんぞ。いつの日か、あの男も手に入れてみせよう。といいたいところだが、今はそれより気にすべきことがある。……余に忠誠を捧げる、という言葉だ」
聞き耳をたてている者がいないか探るように、郭嘉の視線が宙を動いた。
「曹司空ではなく、曹操さまに……ですね」
「うむ……。漢王朝の司空にではなく、この曹操にだ……」
曹操の眸に白刃のような鋭い光がよぎる。
「あの男は、もはや漢王朝には天下を治める力はない、そういったのだ」
気圧されて、舌がまわらなかっただけである。
だが、「言いまちがえただけなのでは?」などと指摘する者は、この場にはいなかった。
その呼び方の変化に、どれほど重大な意味があったか。孔明の声は震えていたではないか。
三人が三人とも、その意味を即座に理解したうえで、まったく同じ結論に達してしまっているのだから、異論など出るはずもない。
「……孔明は、そのときを迎える覚悟をせよ、と伝えたかったのでしょう。そのときこそ、君主のあるべき姿を忘れてはならぬ。私たちにそう説いたのです……」
と荀彧は目を伏せた。
漢王朝の天運が尽きれば、とってかわるのは誰か。
袁紹と曹操がその座を争うことは間違いない。
孔明のことだ。曹操が勝つとみているだろう。
それは、曹操が簒奪者となることを意味していた。
そのとき、自分はどうすればいいのか?
荀家の者として、道にはずれた簒奪はとめなければならない。
だが、その曹操を主君とあおぎ、協力してきたのは他でもない、荀彧自身なのだ。
孔明は、荀彧の身に訪れるであろう苦境を予見して、示唆したのだ。
かつて、韓馥と袁紹の間で板挟みになったことがある。
あのときとは比較にならぬほど、漢室と曹操とのあいだで悩み苦しみ、身動きがとれなくなるときがくるだろう、と。
そればかりか、孔明は大切なことを思い出させてくれた。
民とともにあること。それこそが君主のあるべき姿であり、道なのだと。
漢室か曹操かで悩むくらいなら、民のためになるかどうかで悩め。
民とともに生きる自らの道を示すことで、そう叱咤激励してくれたのだ。
そう。民とともにあること。
それさえ忘れずにいれば、自分はどのような選択をしようと胸をはって生きていける。
「ふぐっ、…………うぅっ」
荀彧の胸にこみあげるものがあった。
目頭が熱くなるのを感じずにはいられなかった。
荀彧が孔明を心配していたように、孔明もまた荀彧の身を案じてくれていたのだ。
「…………くっ、ぅぅ」
口元をおさえて、荀彧はむせび泣くのを懸命にこらえる。
何事にも動じぬ荀彧の世にも珍しい姿を前に、曹操と郭嘉はどことなく微笑ましそうに苦笑を浮かべ、
「さて、手には入れそびれたが、他の者にわたすわけにはいかん。胡昭を余につなぎとめておくにはどうしたらいい?」
「オレにお任せを」
郭嘉は自信ありげに献策する。
「孔明先輩は民の暮らしを助けるために、農具の開発に力を入れています。その農具を屯田制に取り入れて、我々との関係を強固なものにしてはいかがでしょうか?」
曹操は、我が意を得たり、とばかりにうなずいた。
昨年より曹操がはじめた屯田制は、従来の兵士による屯田にとどまらず、民間人を動員するという、これまでにない画期的な政策であった。耕作放棄地と流民が増える、戦乱の世ならではの土地政策といえる。
そこで働く人々は軍民を問わず、孔明の開発した農具に触れることになった。
新たな農具を手にした人々はその性能に歓喜し、開発者の名を、心に深く刻みこんだ。
中央官庁に招かれながらも、それをなげうち、民衆のために心を砕く。
その人物を、人々は親しみと敬意をこめて、孔明先生と呼んだ。
これを機に、曹操と荀彧、やがて破局を迎えるはずだった両者は、漢王朝滅亡後の治政を話しあうようになる。
また、革新的な農具を用いた屯田制は、荒れ果てた中原の農業を飛躍的に拡大させていくのだった。
時の迷い人、孔明自身が気づかぬうちに、歴史の流れはゆるやかに、だが確実に変わりはじめていた。




