第三八話 跡継ぎ
建安六年晩夏、袁紹領の北海を攻略するために、曹操軍四万が出陣した。
総大将は、曹軍においてもっとも戦上手で知られる人物、すなわち曹操自身である。
これが官渡の戦いより前であれば、袁紹は四万を上まわる援軍を用意し、みずから陣頭に立って、北海にむかったであろう。
だが、袁紹は鄴を動かず、援軍はわずか一万にすぎなかった。
それも新兵ばかりである。練度は低く、士気もふるわないことおびただしい。
援軍の顔ぶれを見て、袁譚は愕然とした。
「これで曹操と戦えというのか……」
袁譚の軍も、さきの大戦で多くの将兵を失っており、一万を割っていた。
官渡大勝のいきおいに乗る曹操軍と野戦になれば、蹴散らされるのは目に見えている。
唯一望みがあるとすれば籠城戦だが、その籠城戦の望みこそが援軍なのだ。籠城したとして、どれほどの援軍を期待していいのか。はなはだ心許なかった。
袁譚の苦悩を察して、上申した臣がいる。
名を王修という。
かつては孔融に仕えて、為政者としての能力に欠ける主を大いに助けた賢臣である。
「袁譚さま。北海にこだわれば、土地だけでなく、将兵をも失うことになりましょう」
北海出身の王修が、北海を捨てろというのだ。袁譚は少なからずおどろいた。
「失礼ながら、袁譚さまが曹操に勝つこと、泰山をわきにかかえて北海を飛び越えるがごとし。とうてい無理にございます」
「む、むうっ……」
「しかしながら、曹操に勝つ手が、ないわけではありません」
「ど、どのような手だ」
「地の利を得るのです。戦をするのなら、河北でしなければなりません」
「河水の南を手放せというのか……」
袁譚はうめくようにいった。
河川が行政区画の境界線となる事例はよく見られるが、青州はその例にあらず、河水の南北にまたがっている。
その青州の大半を占めている南部を放棄しろ、と王修は進言しているのだった。
「……たしかに。河北が戦場となれば、父上も本腰を入れて対応してくれるであろう。袁家の総力をあげて迎えうつことになる。曹操に勝つのも不可能ではないが……」
「いますぐとはかぎりません。ですが、いずれ、曹操が河北に攻めよせてくるのは必定であります」
「うむ」
「しかし、その決戦にのぞむときに、袁譚さまの手元に十分な兵が残されていなければ、どうなるでしょうか……」
「あっ」
袁譚は顔を蒼白にした。
河北でならば勝てる。
しかし、それは袁紹の勝利であって、袁譚の勝利とはいえない。
その戦で功績をあげなければ、袁譚は無能者の烙印を押されてしまうだろう。
曹操に領地をうばわれ、父親に尻ぬぐいをしてもらったのだ、と。
「負け戦で、将兵の命を無駄に散らしてはなりません。ここは退くのです。雪辱のために、力を温存しておくべきかと存じます」
「お、おお。そなたのいうとおりだ」
袁譚は撤退を決意し、即座に行動にうつした。
民をつれていく時間はない。財物のみを運びだし、北に急いだ。
かくして、曹操軍をはばむ者はいなくなった。
彼らが北海に着いたとき、城門は開けはなたれたままだった。
「袁譚は逃げたぞ! 抵抗は無意味だ!」
誇示するように叫び、曹操軍は隊列を乱さずに行進する。
もとより、北海の住民たちは逆らおうとしなかった。民衆にとって重要なのは、軍隊に規律があるか否かである。袁紹か曹操かなど、どうでもいい話であった。
曹操軍を見さだめるように、住民がじっと見つめるなか、城壁に曹の旗が高々と掲げられる。その旗は日を追うごとに、周辺の城にも広がっていった。
河水北岸の都市・平原に居城をうつした翌月、袁譚は袁紹に召集された。
袁譚の騎馬隊が、すごすごと鄴の城門をくぐるのを見て、民衆はささやきあう。
「見ろ、袁譚さまのお姿を。さすがに気落ちしておられるようだ」
「領地をうばわれたのだ。無理もない。やはり、叱責はまぬがれないだろうよ」
「ふん、他人事じゃないぞ。この鄴が、戦場になるかもしれないんだ。もう、いつ曹操が攻めてきたっておかしくない……」
民衆があげる不安の声は、袁紹にも伝わっていた。
いや、誰よりも不安を感じていたのは、袁紹自身だったかもしれない。
彼は対外的な敵だけでなく、自身の内にも懸念を抱えていたのである。
牀に腰かけている袁紹の体を診て、典医が安堵したように息をついた。
「なにも異常はございません。発熱に気をつけて、体と心を、おいたわりくださいませ」
「うむ」
典医をさがらせると、袁紹は身だしなみをととのえた。
近ごろ、体が不調を訴えることが多い。食欲がない。熱が出る日もあれば、胸が痛む日もある。
だが、弱さをさらけだすわけにはいかなかった。
曹操の脅威に対する民衆の不安は、いいかえれば、袁紹の統治に対する不信であり、不満であった。
袁紹が厳然とあらねば、動揺は鎮まらない。
人心を落ち着かせたうえで、その不安を外敵への敵愾心として、ひとつにしなければならないのだ。
執務中の袁紹は、精励そのもので、周囲に不調を感じさせなかった。袁譚が鄴に到着した、との報告を侍者からうけると、庭の四阿に呼ぶよう命じる。
その場に居合わせた荀諶が、神妙な顔をして袁紹の前に歩み出た。
「袁紹さま。袁譚さまの判断は、誤りではございませぬ。どうか、とがめだてなさいませぬよう、お願い申しあげます」
「ははは、荀諶らしいな。わかっておる」
やがて、袁紹は執務を切りあげて、四阿にむかった。
四阿には壁がないので、壁のむこうで聞き耳を立てている者はいない。密談をするのに悪くない場所だった。
もうひとつ、それとなく体を休めるにも都合がよい。
袁譚はすでに四阿で待っていた。ただひとり、所在なげにたたずんでいる。
「父上からあずかった地を失いました……。申し訳ありませぬ」
「よい。敗北も失態も、次の勝利のための糧とすればよいのだ」
なかば自分にむけた言葉である。袁紹は椅子に腰をおろすと、息子にも座るよう命じた。侍者たちを全員さがらせ、父子ふたりきりで卓を囲む。
「譚、曹操は手ごわいな」
「はっ。ですが、排除しなければならない奸臣です」
「うむ。そのとおりだ」
「そもそも、曹操がわれらを裏切っていなければ、すでに天下はおさまっていたはずなのです!」
感情を昂ぶらせる袁譚を、袁紹は苦笑を浮かべて見つめた。
以前、袁紹にとって、曹操は頼りになる仲間であり、副将ともいうべき存在だった。部下だったといってもいいが、より正確にいいあらわすなら、舎弟といったところだろうか。
曹操の危機に、援軍を送ることも、兵を貸すこともあった。
南を曹操がおさえることで、袁紹は仇敵である公孫瓚との戦いに専念できた。
「だが、曹操は、私と袂をわかち、対立した。やつの能力も野心も、私は知っていた。わかっていながら、御しきれなかったのだ」
「父上……」
両者の対立が決定的になったのは、曹操が今上帝を擁立したときであろう。
朝廷の権威は、乱世の奸雄に翼をあたえた。彼は野心のおもむくままに、袁紹のもとから飛び立っていった。
「私は曹操を恨んでいるわけではない。だが、倒さねばならぬ。乱世の覇者になれたとしても、太平の世を築くことができない理由が、やつにはあるのだ」
「理由、ですか」
「曹操の祖父、曹騰が宦官だったのは知っているな」
「はい、大宦官であったと聞いております」
大宦官・曹騰は、清濁あわせのむ器量の持ち主であり、一世の怪傑だった。
四人の皇帝に仕えて権勢を振るい、引き際までも巧妙であった。
多大な功績をあげた曹騰は、宦官でありながら、養子をとって後継を立てることすら許された。その養子が、曹操の父・曹嵩である。
「曹騰が朝廷に残した足跡は、悪しき前例となった。彼以降、宦官は権勢を次代に継承できるようになってしまった。政敵をおとしいれ、一族を高官につけ、賄賂を要求する……。曹家は、そうした宦官禍を助長してしまった家なのだ」
袁紹は、にがにがしげに首を振った。
「朝廷を退廃させた宦官どもと、この国をささえる名士たちとのあいだには、血塗られた過去と憎悪が横たわっている」
「党錮の禁……」
袁譚はつぶやくようにいった。
「そうだ。党錮の禁だ」
朝廷を私物化する宦官に対して、儒学を重んじる名士たちを中心に批判の声があがった。彼らはみずからを「清流派」と称し、宦官勢力を「濁流派」と呼んで、改革を志した。
この動きは全土に広がったが、しかし、朝廷の実権を握るのは宦官たちである。清流派にくみした人々への弾圧がはじまり、千人あまりが投獄され、百人あまりが処刑された。
この弾圧事件を、党錮の禁という。
一連の事件を目の当たりにした若かりし日、袁紹は清流派の理念に共感して、義憤にかられた。
母の喪に服すといって官職を辞し、喪が明けるなり、さかのぼって父の喪にも服して、官から遠ざかった。そのあいだに、迫害をうける名士たちをかくまったり、逃がしたりもした。
都合六年の服喪は、宦官たちの腐敗を公然と非難できないなかでの、せめてもの抗議表明だった。
党錮の禁は、袁紹の人生にも大きな影響をおよぼしたのだ。
「名士たちの胸底には、宦官に対する厭悪と侮蔑がこびりついている。曹操がどのような手を使おうと、そうした歴史を消し去ることはできない」
若き日の曹操もまた、宦官の不正を取り締まろうとした、忠勇義烈の士であった。心情的には、名士側に近いだろう。しかしそれでも、曹家と名士たちとのあいだにある溝は、埋めようがないのである。
「いまはなにを差しおいても、戦乱を終結させねばならない。だから、名士たちは、朝廷をおさえた曹操に協力している。……だが、戦が落ち着き、太平の世が近づけば、亀裂はあらわになるだろう。いずれ、曹操と名士たちは反目しあう」
濁流の家に生まれながらも、清流の道を選んだ曹操を、袁紹は高く評価していた。仮に、曹操が天下をとったとしても、宦官に実権をあけわたすような愚かな真似はしないだろう。いまでも、その程度には信頼している。
だが、曹操の下につくことはできなかった。
曹家にひざまずくのは、四世三公の名門・袁家を穢すも同然であった。
袁紹こそは、まごうことなき名士である。
だから、わかる。
曹操に対して袁紹が抱く、屈折した感情と同種の思いが、名士たちの心中にはわだかまっているのだと。
「曹操では、この国はおさまらぬのだ。だが、やつを打倒しうる者は、もはや私をおいてほかにいまい。……私が勝たなければ、戦乱の夜は明けぬ。私は勝つ。次は、勝つ!」
河北の巨人にふさわしい、力強い宣言だった。決意と覚悟を熱量とした言葉は、代わりに疲労をもたらした。体内の熱をすべてはきだしてしまったかのように、体が重く、袁紹は恨めしげに奥歯を噛んだ。
「決戦の折には、ぜひ、この私に先陣をおまかせあれ! かならずや、曹操軍を撃破してごらんにいれましょう!」
父の威にうたれたのか、袁譚は頬を紅潮させ、声を上擦らせた。
「よくぞいった。だが、そうもいかん」
「な、なぜですッ!」
袁譚が不満を表に出した。袁紹は一転して、しずかな声で答える。
「曹操は中原の支配をかためつつある。すでに、一度の勝利でほろぼせるような相手ではない。戦は長引くだろう。そう、長期戦を戦い抜くために、統治体制を変えていかねばならないのだ。戦の最中に、私になにかあってからでは遅い」
声をのんでいる袁譚に、袁紹は告げた。
「譚、今日から、お前が私の後継者だ」
建安六年の秋、袁紹は、長男・袁譚を跡継ぎとする旨を布告した。
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史実における袁紹は、後継者を決めないまま病没した。その後、長男・袁譚と三男・袁尚の跡目争いが激化して、自滅に近い形で、袁家は衰退していく。
……そうなるはずだったのだが、袁譚が後継者に指名されたらしい。どうも様相が変わってきそうだ。ここらで、袁紹軍の今後の展望について、誰かとさりげなく相談しておきたいところ。
けれど、司馬懿がいるのは洛陽だし……。いっそ、洛陽に行ってみるか、と私が考えていたとき、ちょうどいい相談相手がやってきた。わが家を訪れたのは、郭嘉である。ナイスタイミング。
「これ、長文からあずかってきた、お礼の品っす」
郭嘉はむしろにあぐらをかいて、一振りの刀を差し出した。漆塗りの黒いこしらえに、金や玉が象眼された、いわゆる宝刀というやつだ。とってもお高そう。
「お礼の品?」
陳羣からお礼をもらう理由なんてあっただろうか?
「藷蔗(さとうきび)を栽培できる場所が見つかったんすよ」
おおっと、その件か。




