第三七話 鍾繇のぼやき
司馬懿が出仕してから、ひと月あまり。
洛陽の官吏たちのあいだで、彼は噂話の的となっていた。
「なんでも、あの孔明先生の一番弟子らしい」
「俊才を輩出することで知られる司馬家でも、抜きんでた才の持ち主だそうだ」
「名家の子弟を弟子にとろうとしない孔明先生が、弟子にしたほどの人物だぞ。相当な切れ者にちがいなかろう」
司馬懿当人は、少なくとも表面上は、そうした声を無視していた。
噂話にかまけるより、まずは職務に力をそそぐべきであろう。
簿曹書佐としての仕事をあっという間におぼえた彼は、金銭や穀物の帳簿づけを佐けるという本来の職分をこえて、司隷校尉・鍾繇がつかさどる仕事全般の補佐役におさまりつつある。
役職を逸脱しているのではないだろうか。
次から次へと、あたらしい仕事を詰めこみすぎではないだろうか。
なにより、……働きすぎではないだろうか?
首をひねりたくなる司馬懿であったが、上官に否というわけにもいかない。目をかけてもらっていると思うしかなかったし、事実そのとおりでもあるのだ。彼はその日、巡察にでる鍾繇につきしたがい、馬車に同乗していた。
「やれやれ、また戦か」
竹簡に視線を落としていた鍾繇が、あきれたようにぼやいた。
「と、いいますと?」
「許都で戦の準備がすすめられている。狙いは、袁紹の長男・袁譚がおさめている北海国だそうだ」
袁紹領の東南の端にあたる青州北海国は、河水の南、山東半島にある。かつて、黄巾賊が暴威をふるった無法地帯である。
孔子の子孫・孔融が北海相に任命されたものの統治に失敗し、袁紹軍によって占領されてからも、匪賊の跋扈はつづいている。
「北海ですか。それは、ようございました」
司馬懿の反応が意外だったのか、鍾繇が眉根を寄せる。
「……戦がはじまるのだぞ?」
不審そうな視線をうけて、司馬懿は説明した。
「袁紹軍には、まだ大敗の痛手が残っており、大軍を動員できる状態にありません。それに北海は賊がはびこり、税収も少ない、袁紹にとって不毛の地です。
いま攻めこめば、さしたる抵抗もなく、たやすく占領できるでしょう。どうせ、戦はしなければならないのですから、有利な形でするに越したことはありません」
「ふむ、それはそうだな」
鍾繇はあごひげをなでながら、あいづちをうった。
「北海をとれば、河水南岸にある袁紹軍の拠点を一掃できるでしょう。また、現在曹操軍が抱えている問題を解消するにも、北海はうってつけの地です」
「問題? どのような問題だろうか」
「捕虜です。官渡で得た大量の捕虜をどう活用すべきか。屯田させるにせよ、あまりに遠い場所へつれていけば、逃散する者も増えてしまいます。河水南岸は、河水の水で育った彼らを定住させるのに適した地といえるでしょう。
同じことが青州兵たちにも当てはまります。北海を故郷とする青州兵は多いはず……」
「ふむ、なるほどな。……あらたな住民が元袁紹軍の兵士や青州兵たちであれば、賊どもに襲われても、むざむざとやられはしまい。いまは貧しくとも、いずれは豊かな地になるであろうな」
「はい。労は少なく、将来の益は多いと思われます」
冷静にいってのけた司馬懿の顔を、鍾繇はまじまじと見た。
「……おまえさんは、師とは似ても似つかない性格をしているな」
「孔明先生も、同じように考えると思いますが?」
司馬懿は眉を動かして答えた。似ていないと自覚していても、人に指摘されれば、いい気はしない。
「理屈ではな。だが孔明なら、戦がはじまるのを『ようございました』とはいわないだろう?」
「それは当然です。戦が起これば、苦しむのは民なのですから」
「ま、師匠と似ていないということは、必ずしも悪いことではない。あいつはあいつで、けっこうな変わり者だからな」
「はぁ……」
司馬懿の声に困惑のひびきがまじった。
「あれだけの才がありながら、なぜ、官職につこうとしないのか。わしにはわからんよ」
鍾繇は残念そうに首をふった。
「……どのような生き方を選ぶかは、人それぞれではないでしょうか」
「たしかにな。才能なんてものは、あくまで個人の所有物だ。どう生きようが、好きにすりゃいいのだろうよ。……だが、乱世に生まれ落ちたからには、天下に安寧をもたらすために身命を賭ける。それが、男子の本懐とは思わないかね?」
「鍾繇さまが司隷校尉という要職におられるのは、その男子の本懐ゆえなのでしょうか?」
司馬懿が問うと、鍾繇は過去を思い返すように宙の一点を見やった。
「……いや。そうでもない。多分になりゆきだな」
「ご自分が信じて身をささげた言葉でもないのです。そのような言葉では、孔明先生を動かすことなどできますまい」
話しながら、自分の口ぶりが発言の中身もふくめて、師と瓜二つであったように、司馬懿には感じられた。性格は似ていなくとも、こんなところは似てくるらしい。
「……動かないだろうなあ。わしの言葉では」
親子ほども年がはなれた部下の意見に、鍾繇はため息をつくと、馬車の揺れにあわせるように、うなだれた。
「それでもあいつは、もっと上の場所、わしより上の場所に立って、才をふるうべきだと思うんだがね」
許都に独自の情報網をもつ郭図は、いちはやく曹操軍の動きをつかむと、袁紹が休息している四阿に報告にあがった。
「袁紹さま、許都の曹操軍に動きがありました。どうやら、青州の北海を狙っているようでございます」
袁紹は両眼を閉じて、数秒のあいだ、考えこんだ。
「ただでくれてやるわけにもいかんな。一万ほど援軍を送ればよかろう」
「わずか一万の援軍では、とても曹操軍には抗しきれぬかと存じますが……」
郭図の表情は険しい。その数では、袁譚を見捨てるも同然である。
「かまわん。北海はうまみのない地だ。荒廃した土地など、失ったところで痛くはない」
袁紹は、かすかに笑みすら浮かべていった。言葉どおり、なんら痛痒を感じていない様子だった。
「しかしながら、青州刺史の袁譚さまにとって、北海は無視できぬ地でございます。かの地は、袁譚さまが孔融や公孫瓚の軍と戦い、死力を尽くしてうばいとった地でございますぞ」
北海を失えば、袁譚の功績が無に帰してしまうのではないか。その思いが、郭図の口調を強くしたが、袁紹の心にはひびかなかった。
このとき、袁紹の心には別人の言葉が、故人となった沮授の言葉があったのだ。
「郭図。譚に青州をまかせようとしたとき、沮授が反対したのをおぼえているか?」
「はっ、おぼえております。……たしか、長男の袁譚さまは、青州ではなく冀州にとどまるべきである、との主張でありました。僻地に送れば、袁譚さまの家中での影響力が薄れてしまい、後継者争いを招きかねない、と」
袁紹が支配する河北四州のうち、本拠地としている冀州の豊かさは群を抜いている。冀州をはなれれば影響力を失うという、沮授の意見はまちがってはいなかった。
だが、だからこそ袁紹は、冀州閥の顔色をうかがわずに自由に動かせる、「袁家の軍隊」をつくらなければならなかった。それゆえ、長男・袁譚を青州に、次男・袁煕を幽州に、甥の高幹を幷州に送りこみ、一族の者に各州を統治させたのである。
「譚はよくやっている。むずかしい青州の地をよくおさめているし、官渡では最後まで私のそばにあって奮戦していた。そろそろ、この鄴に腰をすえてもいい頃合いだ」
「御意に。ならば、袁譚さまに、鄴へ帰還するよう命じるべきかと存じます」
「いや、なにもいわないでいい。譚の才覚にまかせるとしよう。もし、譚が北海を枕に討ち死にするようなら、しょせん、その程度の器だったということだ」
袁紹は、どこか遠くを見るような目つきで、庭を眺めた。
「大局を判断できぬような男に、袁家をゆだねるわけにはいかん。そうは思わぬか?」
「はっ」
郭図はうやうやしく拱手して、四阿をあとにした。
庭をはなれる彼の顔は、無表情の仮面におおわれており、通りすぎる人々は空気に押しのけられたかのように、近づこうとしなかった。
――袁紹さまは弱気になられた。
以前の袁紹ならば、曹操が攻めこんでくると聞けば、激昂したにちがいなかった。いかに不毛の地とはいえ、こうも平然と領土をゆずりわたすことはなかったであろう。
袁紹は官渡以前と変わりない、堂々たる態度を取りもどしている。大敗の屈辱を払拭したのだと、衆目は見ているだろう。しかしときおり、その威風にほころびが生じているように、郭図には感じられるのだった。
袁紹の身にそなわる威風は、けっして先天的なものではない。
宮中にて腐敗した宦官(去勢された官吏)勢力と戦い、董卓の暴政に反旗をひるがえし、河北の群雄として飛躍し、袁術との家督争いに勝利し、年と経験を重ねて、後天的につちかわれたものであった。
であるのなら、一時的な敗北によってかげりが見えようとも、曹操相手に勝利さえすれば、その威はより輝きを増すはずである。
袁紹はまだ、精神的再建を果たしきっていないだけなのだ。
「本当に、それだけであればよいのだが……」
郭図は心中でつぶやいた。胸の裡に暗雲が立ちこめるのを、意識せずにはいられなかった。




