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第三六話 司馬懿の出仕


「あ゛~~」


 肩まで湯につかるなり、思わず声がもれる。


 石造りの四角い浴槽は、足を伸ばした大人が四、五人は入れる面積があった。無色に近い湯が、あふれんばかりに流れこんでいる。


 湯温は熱すぎず、ぬるくもなく、快適だ。屋敷のなかに専用の温泉があるとは……司馬家、なんて贅沢なのだろう。


「失礼」


 と、体を洗い終えた司馬防シバボウが湯に入ってきた。


 いやいや、こちらこそ、失礼いたしました。屋敷の主人の存在を、すっかり意識の外に追いやっておりました。全裸のおっさんを見ても、いい気分に水を差すだけなので。


「ここ温県は大都市ほど豊かではない。が、湯だけは自慢でな」


 といって、司馬防は、ふー、と息をはいた。


 司馬懿の父は、息子がそのまま年を取ったような風貌をしている。どことなく威圧感があって、とっつきにくそうなのだが、浴室でリラックスしている状態なら、さほどでもない。全裸で、そんな威圧感を出されても困るが。


「ときに胡昭コショウどの。貴殿に相談があるのだ」


「はて、なんでしょうか?」


「じつは、懿の心を仕官にかたむけるのに、成功しそうでな」


「ほう。それはまた、上手くやったもので。いやはや、私も仲達には、たびたび推挙の話をもちかけているのですが、うまくかわされていましてな。で、どう説得したのです?」


「これからおまえは、戸主にならねばならんのだ。職なしでは、家庭内での肩身も狭かろう。と……」


「ははあ、それはそれは」


 さすがの司馬懿も無職の身で、新妻に「仲達さまはどのようなお仕事をしていらっしゃるのですか?」と尋ねられるのはつらかろう。


 私は結婚式で見かけた十三歳の新婦、張春華チョウシュンカの姿を思い出した。


 卵形の顔は繊麗な目鼻立ちをしていて、黒瑪瑙(めのう)のような瞳を恥ずかしげに伏せていた。紅をさした唇はふっくらしていて、その初々しく可憐な姿に、参列者は目を見はるばかりだった。聞けば、親孝行で学問を好むとの評判である。


 司馬防が息子のために、気合いを入れて嫁を探したのが伝わってくるようだ。


 ただし、そんな楚々とした少女も、一皮むいたら、どんな本性を秘めているかはわからない。なにしろ、張春華という人物には、司馬懿の出仕にまつわる、おそろしい逸話があるのだ。


 俊傑と名高い司馬懿を、人材コレクターの曹操が、いつまでも放っておくはずがない。


 あるとき、曹操は司馬懿を呼び出した。仕官したくない司馬懿は、病気といいはり、寝たきりのふりをして、それを回避する。


 ところが司馬懿、そのあと、らしくもないヘマをする。カビが生えぬよう書籍を天日干しにしていたら、急に雨が降ってきて、大切な書を取りこむために動きまわっている姿を、女中に目撃されてしまうのだ。


 曹操に仮病がばれれば、夫は誅殺される――。


 張春華はすぐさま、人気ひとけのない部屋に、女中をつれていった。


「あなたは、見てはならないものを、見てしまいました」


 そういって微笑むと、張春華はぎらりと光る刃物を、女中の胸へと……。


 ははは、とんだ小悪魔ちゃんじゃないか。……ヤバいぞ、あの女。


「もうひと押しで、押し切れそうなのだ。懿を仕官させるのに、胡昭どのにも協力してもらいたいのだが」


「おお、もちろん、もちろん。よろこんで協力いたそう。それで、仲達はどこでなら働いてもよい、と?」


「洛陽だ」


「なるほど。では、私も司隷校尉どのに、一筆書くとしましょう」


「ありがたい。胡昭どのの推挙で出仕するとなれば、アレも忠勤に励むだろう。出世がそのまま、師への恩返しになるのだからな。……ふふふ、そう簡単にやめさせてなるものか……」


 司馬防は、まるで悪代官のような含み笑いをした。私も越後屋になった気分である。かくて、全裸のおっさんたちは、湯けむりのなか、がっちり握手するのだった。




 司馬懿が洛陽で働きはじめた。


 史実と比較してどうかはわからないが、司隷校尉府の簿曹書佐ボソウショサだから、スタート地点は上々だ。出世コースにはまちがいなく乗っている。


 私の影響で司馬懿の出世が遅れる可能性は、まず、なくなったと見ていいだろう。


 なにより、司馬懿が出仕したことで、『おさな妻はあやしく微笑む!? 濡れた書籍に秘められた謎! 司馬家女中殺人事件!!』も未然に防げたわけでして。めでたしめでたし。


 しかしながら、こうも慶事が重なると、ちょっとしたことが不安に思えてくるものだ。

 なにが不安かというと、司馬懿の上司となった司隷校尉・鍾繇の性格である。


「世間の評判はともかく、あの人、奇人だからなあ」


 そう印象づける、決定的な出来事があったのだ。


 いつごろの話かというと、まだ私が見習いだったころ。

 先生の下で、書の練習に明け暮れていたころの話である。


 当時十五歳だった私は、その日も先生の屋敷で書の練習に励んでいた。

 そこへ鍾繇がやってきて、私の手元をのぞきこんだ。


「おっ、胡昭。なかなか調子がよさそうだな」


「あ、鍾兄しょうけい


 私は筆をおいて、頭を下げた。ただの見習いにすぎない私に対して、歳が十ほども上の鍾繇は、すでに新進気鋭の書家として名声を博していた。官吏としても頭角をあらわしており、兄弟子たちのなかでも別格の存在だった。


「うむ。いい字じゃないか」


「ありがとうございます。じつは、市で掘り出しものの筆を見つけたばかりなのです」


 この時代の筆は、出来上がりにムラがある。腕の立つ職人が作ったものなら、一定の品質が保証されるが、私の小遣いでは手がとどかない。


 そうなると、安物のなかから、掘り出し物を探し当てなければならない。


 私は、これがけっこう得意だった。


 先日買った筆は、最高級品とくらべても、まったく遜色がない。千本探してもまたとない、と思えるほどの逸品だったのだ。


「ほう。どれどれ」


 鍾繇は腰をおろすと、私の筆を手にとった。瞬間、姿勢と表情から、一切のゆるみが消える。私は息をとめて、筆の動きを見つめていた。竹簡に書かれた文字は精巧で、空間を大きく使っていて、何度見ても文句のつけようがない。


 得心がいったように、鍾繇はひとつうなずいた。


「……ふむ。この筆、しばらく借りるぞ」


「……っ!?」


 返事を待たずに、鍾繇は立ちあがった。


「ま、待ってください」


「まあ、いいじゃないか。すぐに返すから」


 脳裏をよぎったのは、門下生たち――その大半は私にとって兄弟子にあたる、のあいだでささやかれる悪い噂だった。「鍾兄ってさ。借り物を返してくれないよな」……まさか。私はあわてて追いかける。


「貸すとはいってないのですけど……」


「ちっ、しつけーな」


「鍾兄!?」


 本性をあらわにした鍾繇が、走って逃げ出した。私も走った。門下生たちが「なんだ、なんだ」とおどろいて立ちどまる。庭を駆けまわって、鍾繇が逃げこんだのはかわやだった。


 荒々しく鍵のかかる音がした。


 厠の匂いに顔をしかめながら、私は戸を叩いた。


「鍾兄っ!」


「ぬああああぁああ!! 腹が痛ええぇぇ! ウンコ出ねええぇ! 死ぬうううッ!!」


 とんでもない怒鳴り声が返ってきた。立派な、いや、まともな大人のすることではない。あまりのひどさに、私は唖然とした。


 門下生が野次馬よろしく集まってくるなか、私は厠にむかって、さらに呼びかける。


「鍾兄! 私の筆を返してください!!」


「アアアアアアアッ!! 薄情な弟弟子のせいで死ぬッ! 死んじまうううッ!! くそっ! こうなったら、ケツの穴に、この筆をツッコんで、かきだしてやろうかッッ!!」


「やめてえええええええッ!!」


 見栄も外聞もなく、私は絶叫した。


 おどしに決まっている。けれど、やりかねないとも思う。鍾繇という人が狂っていることだけはまちがいなく、狂人の行動は予測不能だからである。


 状況を察したらしい兄弟子たちが、苦笑を浮かべた。


「ああ、こりゃ無理だ。あきらめろ、胡昭」

「なにかあると、すぐ厠に閉じこもるんだ。あの人は」

「筆か……。なに、書物じゃなかっただけ、傷は浅いぞ」

「犬にかまれたと思うしかないな」

「鍾兄は、私たちではどうにもならないよ。せめて、先生が洛陽に出かけてなければなあ」


 幾人かは同情するように、私の肩にぽんと手をおいて、兄弟子たちは去っていった。


 なにしろ、長居できる場所ではなかった。鼻がひん曲がるほどクサいのだから。


 とにかく、厠から出てきてもらわねばなるまい。


「絶対に返してもらいますからね!」


 私はそういって、厠から距離をとった。


 その日は暑く、午後の日差しを浴びていると、じんわり汗ばんでくる。


 鍾繇はなかなか出てこない。

 厠のなかは、蒸れてとてつもない匂いになっているだろうに。


 持久戦にそなえて、私は建物のなかに移動した。


 窓には目のあらいすだれがぶら下げてあったので、すだれ越しに、厠の監視をつづける。


 こちらの姿は見えないはず。なのに、鍾繇が出てくる気配はない。


 抜け出したのを、見逃してしまったのだろうか?

 不安になる。だが、厠を利用しようとして追い返される兄弟子たちを見るに、まだ、なかにいるようだ。


 いつしか、中天にあった日はかたむいて、空は赤く染まっていた。

 かたく閉ざされていた戸が、ついにひらいた。


 逃がすものか。ようやく出てきた鍾繇に、私は駆けよった。


 鍾繇は露骨に、まだいたのか、という顔をした。


「あー、わりわりい。騒いでいるうちに、おまえさんの筆、厠のなかに落っことしちまった。ありゃ、拾えんわ」


 はっ!? そんなバカな!?


 呆然としてへたりこみそうになる私に、鍾繇は眉を怒らせた。


「おまえさんが、騒がしくするからだろう」


 そんな理不尽な!?


「ま、なくしちまったもんはしょうがない。あたらしい筆を買ってやるから。な」


 鍾繇はばつが悪そうに笑いながら、そういい残して、去っていった。


 翌日、私は鍾繇に筆を買ってもらった。

 私の小遣いではとても手が出せない、かなり値がはる代物しろものだ。

 けれど、厠のなかに消えた筆とくらべると、乗りが悪い気がしてならなかった。


 話はこれで終わらない。


 半年ほどして、私は先生の使いで、鍾繇の家に行った。


 鍾繇は私を見て、


「あっ」


 しまった、といわんばかりに目と口を丸くする。その手には、例の筆がしっかり握られていた。


 そう、厠のなかに落としたというのは、まっかな嘘だったのである!


「鍾兄、その筆、私の――」


「ち、ちがうッ! ちがうぞ! 証拠はあるのか? 似ているかもしれないが、これはおまえの筆ではない! それに、代わりにいい筆を買ってやっただろう?」


 鍾繇は頑として、しらばっくれた。

 こうして、私の筆は兄弟子のものとなってしまったのであった。


 ……かえすがえすも残念な人である。けれど、実績や名声によってフィルターがかかると、こうした話ですら、世間さまは美談に仕立てあげてしまう。


「鍾繇さまの書にかける情熱は、なみなみならぬ。厠に入っては書のことを思い、終日出るのを忘れていたそうだ」


 そんな立派なものではない。私の知ってる鍾繇は、そんな立派な人ではない。


 まじめな司馬懿が、イジられてなきゃいいんだけど。先生、ちょっと心配。




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― 新着の感想 ―
文豪の性格がアレなのは時代を問いませんね…
[一言] 前々からいい性格してるなって、思ってた。まさか、人のものは俺のものなジャイアニズムの持ち主とはなぁ。 調べたら、書家としてすっごい人なんですね。 今も昔も物書きですごい人は性格悪かったりどこ…
[良い点] デキる人ってどこか弛んでますからね……代わりを買ってくれただけまだなんとか……
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