第三四話 孔明の誘い、諸葛亮の答え
建安六年(二〇一年)の春。諸葛亮、あざなを孔明という若者が、襄陽城のはずれにある司馬徽の屋敷を訪れた。
ここ荊州をおさめる劉表は、学問を奨励し、州外から移住してきた名士たちを積極的に庇護している。司馬徽はそうした移住者たちの中心的存在であり、同じくよそ者である諸葛亮にとっては、何度となく世話になった恩人だった。
「胡孔明先生からの仕官のお誘い。せっかくですが、お断り申しあげます」
諸葛亮はそういって頭をさげた。
先日、司馬徽のもとに、諸葛亮を中央に推挙したいとの手紙がとどいた。送り主は陸渾の孔明である。諸葛亮は熟慮のすえ、謝絶しにきたのだった。
「よい、よい。それもよかろう」
司馬徽は鷹揚にうなずいて、残念そうに眉を動かす。
「やはり、曹操は気に入らぬか。よい話だと思ったのだがな」
「はい。いまの漢朝に仕えるのは、曹操に仕えるのと同じこと。徐州で略奪と殺戮をくりひろげ、死屍の山を築いたあの男を、私は許すわけにはいかないのです」
諸葛亮の出身地は徐州である。
幼いころに母を亡くし、父も後妻をむかえてから、しばらくして亡くなった。継母と亮たち兄弟が残されたが、その関係は悪いものではなく、琅邪諸葛氏の力もあって、まずまず不自由のない暮らしをしていた。
それを一変させたのが、曹操の徐州侵攻、虐殺だった。
徐州牧の陶謙が曹操の父を殺害し、曹操が報復として、徐州での殺戮を指示したのである。
大量の血が流れ、家屋は焼け落ち、人の姿も家畜の姿も消えうせた。さらに、天災までもが追い打ちをかけた。まるで、武力抗争をくりかえす人々に、罰をあたえるかのように。
「食べるものがなくなる?」
首をかしげた亮少年に、兄の瑾は沈痛の色を隠そうともせずにいった。
「ああ、イナゴだ……。イナゴが大量発生して、作物を食い荒らしているらしい。これでは流民も賊徒も、増える一方だ。もう、琅邪では暮らしていけないのだろう」
飢饉と戦乱からのがれるため、彼らは南をめざした。
多くの出会いと別れがあった。
諸葛家のように故郷をはなれる人、家族をうばわれた者、賊に身をやつす以外に生きるすべのない男、生きるために赤子を道に捨てていく母。
世に満ちあふれる怨嗟と不条理を、まざまざと見せつけられる旅だったが、亮少年にとって幸運だったのは、同行した叔父の諸葛玄が頼りになる人物だったことだろう。
徐州を脱出すると、すでに成人していた瑾は、継母を実家に送りとどけるために別行動をとった。その地で才を見いだされて、いまは孫権に仕えている。
兄と別れた亮少年は、弟の均とともに、叔父に引きとられた。
諸葛玄は弁舌が巧みだった。
生活基盤をととのえるため、その地を支配する袁術に近づき、懐に入りこんだ。またたく間に信頼を勝ちとった諸葛玄は、袁術によって豫章太守に任命された。
豫章太守が死亡したのを知った袁術は、懇意になった諸葛玄をその座につけることで、勢力を拡大しようと考えたのである。
本来、太守の任命権限は朝廷にあるはずだが、その朝廷は混乱し、もはや形骸化していた。袁術にかぎらず、力のある群雄が太守を任命して版図を広げようとするのは、めずらしいことではなかった。
豫章は江水(長江)の南にある。亮と均は叔父について、江水を渡った。
ようやく、生活が落ち着いたかに見えたが、それも長くはつづかなかった。諸葛玄が、豫章をはなれるといいだしたのだ。
「職務を放棄してよろしいのですか?」
いぶかる亮の問いかけに、諸葛玄は苦笑を浮かべた。
「ああ。朝廷から、正式な豫章太守が派遣されてしまったんだ。私を豫章太守に任命したのは、しょせん袁術だ。どちらが正統な太守かは明白だろう?」
太守の座を捨てて逃げるのだ。袁術のもとへ帰るわけにはいかない。
「心配しなくても、大丈夫だよ、亮。おじさんはこう見えて、けっこう交友関係が広いんだ。一回ぐらい逃げたって、かくまってくれる人はそれなりにいるのさ」
幸いなことに、諸葛玄は劉表と顔見知りだった。
こうして、彼らは荊州に流れ着いたのであった。
「まあ、袁術は忠誠心を刺激するような人物ではなかったからね。安易に主君を選んだ報いをうけた、と考えるしかないのだろうなあ」
そうぼやいていた諸葛玄もすでに亡く、青年となった諸葛亮は、襄陽の西にある隆中という地で、弟といっしょに畑を耕して暮らしている。
「徐州虐殺か……。曹操は父の仇討ちと称していたが、そんな単純な男ではなかろう。なにが、彼を虐殺に駆りたてたのか。孔明、おぬしは、見当がついているのではないか?」
話題が話題なだけに、司馬徽の声もおだやかではない。
「ええ、おおよそは。報復は建て前でしょう。虐殺という選択は、汚点になると同時に、曹操に多大な利をもたらしています」
諸葛亮は唇をかんで、肺腑からしぼりだすように答えた。
「曹操は激情に駆られたのではありません。冷徹に計算したのです。覇業をなしとげるには、必要な犠牲だ、と。あの男の野心が、民の血を欲したのです……」
初平三年(一九二年)、帝を奉戴する前の曹操は、領外だけでなく領内にも厄介な敵を抱えていた。青州黄巾賊である。練度はともかく、実戦経験豊富な、雲霞のごとき大軍であった。
一戦して、曹操がひとまず勝利すると、青州黄巾賊の指導者たちは降伏を申し出た。まだ弱小勢力だった曹操は、軍事力強化の機をのがさず、彼らを青州兵として自軍に組み入れた。
だが、すぐに問題が露呈する。青州黄巾賊の数は、あまりにも多すぎたのだ。曹操があたえることのできる田畑だけでは、彼らを食わせていくには足りなかった。
そもそも、彼らは生活苦ゆえに賊徒になっていたのだ。食っていけないとなれば、賊徒にもどるのは当然である。青州兵たちによる略奪、犯罪が横行し、もとからの領民たちとのあいだで、いさかいが頻発するようになった。
解決策が見いだせず、途方に暮れていた曹操の耳を打ったのが、かねてより敵対していた陶謙が曹操の父を殺害した、という報告である。
曹操は父の仇討ちを名目に、徐州に侵攻して、青州兵を煽った。
「徐州の民を殺せ。食糧をうばえ。土地をうばってしまえ!」
元賊とはいえ、青州兵も人の子である。自分たちの所業がよくないことは、重々承知している。主君が悪名をかぶってまで、土地を用意してくれるというのだ。彼らは感涙し、忠誠をあらたにした……。
諸葛亮の分析は、司馬徽を納得させ、うならせるには十分だった。
「むう……。つまり、曹操は虐殺という不名誉とひきかえに、自領の民の被害を減らし、敵地に甚大な被害をあたえ、青州兵の忠誠を手に入れたということか……」
「はい」
いかに非道であっても、曹操の選択は効果的だったのだと、諸葛亮も認めざるをえない。
このあと、曹操領では大規模な反乱が起きている。もし、青州兵による被害を徐州に押しつけていなければ、反乱はより苛烈なものとなり、曹操の命運はそこで尽きていただろう。
「曹操にとっては、必要な犠牲だったのかもしれません。ですが、そんなことはどうでもよろしい。権力者の都合で、いちいち犠牲にされては、民百姓はたまったものではありません」
諸葛亮の怜悧な眸には、しずかな怒りが浮かんでいる。そのまなざしは、彼個人の感情だけでなく、旅の途中で出会った人々の慟哭を宿していた。
「合理的かつ革新的、なるほど、曹操が傑物であるのは認めましょう。しかし、人の心を排して民の虐殺を指示する、怪物のような精神だけは認めるわけにはいかない。……私はおそろしいのです。曹操がこの荊州の地を侵略したとき、徐州と同じ光景がくりかえされるのではないか……。過去を忘れて、あの男に仕官したところで、正しい道を歩めるとは思えないのです」
無力のにじむ声に、司馬徽はやわらかくうなずいた。その両眼は湖面のようにおだやかに、圧力に抗おうとする、才気あふれる若者の姿をうつしだしていた。
司馬徽の屋敷を出た諸葛亮は、屋敷の前を流れる沔水のほとりに腰をおろした。うららかな春の日差しが、川面を明るく輝かせている。水と緑の匂いに包まれて、若き天才はひざを抱えこみ、ため息をついた。
じつのところ、孔明の誘いに、惹かれる気持ちはあった。
陸渾の胡孔明は、袁紹や曹操から招聘されようとも、仕官を拒んだ高士である。戦乱の世で、こうした生きざまをつらぬくのはむずかしい。権力者におもねることなく、民の暮らしぶりに寄与する孔明は、きわめて稀有な存在であり、ある種の理想の名士像を体現している人物ともいえた。
その孔明が自分の名を知っている。推挙してくれる――。
司馬徽から話を聞いた瞬間、諸葛亮は心に翼が生えたようにすら感じたのだ。
しかも、この話には軽視できない利点があった。
現在、朝廷の主な役職を占めるのは潁川閥である。琅邪出身の諸葛亮に栄達の目はない。はずだったが、孔明の推挙であれば、話は別だ。
潁川閥でも一、二をあらそう名声の持ち主が、後見するのだ。諸葛亮にも相応の席が用意されるだろう。栄達も不可能ではなくなる。
だが、だからこそ、おそろしかった。
曹操に仕えて、自分の心が変貌していくのがおそろしかった。
生来まじめな諸葛亮は、たとえ憎むべき相手に仕えていようと、職務には忠実に励むだろう。実績をあげ、評価されて、出世する。そのような日々をすごしていくうちに、曹操に認められることをよろこんでしまうのではないか。曹操に評価されるための日々を送るようになるのではないか。
唾棄すべき想像だった。
もしそうなれば、誰よりも少年期の諸葛亮自身が、彼をけっして許さないだろう。生涯にわたって、彼を裏切り者と糾弾しつづけるだろう。
諸葛亮は未練を振り払うように、かぶりを振った。
救うべき人々、救われるべき人々の姿が、流浪の記憶に焼きついている。そこには、少年期の自分自身の姿もあった。自分を裏切ることも、見捨てることも、彼にはできなかった。
二十一歳の春、諸葛亮は確約された栄達の道に背をむけた。その日はとりもなおさず、曹操打倒を漠然とながら決意した日であったのかもしれない。
このとき、彼は考えてもいなかった。怪物を超克するには、みずからも怪物にならなければならないのだということを。
そして、幸か不幸か。
曹操にも引けをとらない超世の才が、彼のうちには眠っていたのである。




