第三三話 宴席での噂話
袁紹が鄴に帰還したとき、つきしたがう兵はわずか数千にすぎず、十万をこえる大兵力で意気揚々と出陣した威容は見る影もなかった。
うしなわれたのは、兵力だけではない。
家中を代表する淳于瓊、顔良、文醜といった武将たちは戦死し、戦術家として定評のあった張郃も曹操に降伏した。
もっとも大きな痛手は、沮授の死であったろう。曹操の捕虜となった沮授は、降伏の誘いに頑として首を縦にふらず、脱走しようとして斬られたのであった。
沮授の忠節と訃報を伝え聞いた袁紹は、ふさぎこんで自問自答をくりかえした。
どこでまちがえたのだろうか。なにが悪かったのだろうか。
懊悩する袁紹に、逢紀という臣が訴え出た。
「ご報告もうしあげます。獄中の田豊どのが、袁紹さまに対して、不満をもらしているようでございます」
「……田豊は、歯に衣着せぬ男だからな」
「河北の民心は乱れております。なかには、田豊どののいうように、戦をしなければよかったのだ、と放言する者も……」
官渡の敗戦は、袁紹の求心力を低下させ、出兵を諫めた田豊の正しさを際立たせる結果となった。
家中でうごめく不穏を、袁紹も察してはいる。放置してはおけなかった。
「曹操の工作に乗り、袁紹さまに叛旗をひるがえそうという地域もあるようです。手をこまねいていては、一大事になりましょう」
亡者となれば、旗印にはなりえない。田豊を処刑するよう、逢紀はうながしているのだった。
「逢紀、おぬしの意見はわかった。では、審配への処罰は、どうすべきであろうか?」
なぜ、負けたのか。ふりかえれば、最大の要因は許攸の裏切りである。
許攸の家族を誅殺して、裏切る原因をつくってしまった審配には、敗戦の責がある。
「寛大なご処置を」
逢紀の答えは簡潔だが、単純ではなかった。計算の跡が見える。
「理由を聞こう」
「審配どのは我欲こそ強いものの、袁紹さまのなさりように反対する人物ではありません。いまは領内を安定させねばならぬとき。彼に冀州閥をまとめてもらうのが、もっとも効果的でありましょう。それに、処刑ばかりでは、暴君のそしりはまぬがれないかと」
「……なるほど。審配の手腕ならば、冀州の豪族たちをまとめるのも不可能ではない、か」
口やかましい田豊よりも、審配が冀州閥の長となったほうが、たしかに袁紹にとって都合がよい。
袁紹は、郭図にも意見を求めた。逢紀とは正反対の意見が返ってきた。
「沮授どのが亡くなられたいま、田豊どのまで欠いてしまえば、曹操に勝つのはむずかしくなりましょう。むしろ、軍規をただすためにも、審配どのをこそ刑すべきかと存じまする」
「ふむ……。田豊の知恵も惜しくはある」
河北の安定を第一に考えるなら、逢紀の案を。
打倒曹操を第一に考えるなら、郭図の案を選べばよい。
袁紹が採用したのは、逢紀の案だった。
「いまは領内をまとめねばならん。威信をとりもどさねば、曹操どころではない」
理屈でいえばそうなる。が、袁紹の判断に、私情がふくまれていたのは否めない。
敗戦の責を問う? 審配を罰するのはかまわない。だが、もっとも責任が重いのは袁紹自身である。きびしく処罰すれば、自分にはねかえってくるだろう。
田豊を処刑し、審配を赦し、とにもかくにも、袁紹は一歩を踏み出した。
いつまでも、失意の淵に沈んではいられない。豊沃な袁紹領はいまだ健在であり、挽回は不可能ではないはずだった。
一方、勝利した曹操陣営では、ある動きが活発になろうとしていた……。
*****
大戦が終結し、世情が少し安定したと見たのだろう。許都の上流階級で、結婚ラッシュがはじまった。
家と家のむすびつきを強めて、権力基盤を強化しようというわけだ。
中心にいるのは、曹操配下の有力者たちである。もし、官渡で袁紹が勝っていたら、袁紹陣営の有力者が中心になっていたはずだ。
私は、陳羣と荀彧の娘との結婚を祝う宴席に、招かれていた。
結婚を祝うといっても、現代日本での披露宴のような、派手なものではない。ちょっとしたお祝いの席である。
昔はやたら手間がかかったらしい婚礼の儀式も、いまではだいぶ簡略化されている。堅苦しいのも、ややこしいのも苦手だし、私にはありがたい。曹操が倹約を推奨している影響も、少なからずあるのだろう。
席をはずして厠にいってきた私は、庭の片隅にいる郭嘉を発見した。
陳家の家人となにやら熱心に話しこんでいる。遠いので話の内容は聞こえてこないが、相手が若い女性であること、郭嘉がめったに見ないほど凛々しい顔をしていることから、口説いているのは一目瞭然だった。
「さて、邪魔をしては悪いだろう。しかし、お相手が困っているようなら、割ってはいったほうがいいのだろうし……」
私は立ちどまって、思案する。
女性は迷惑そうな顔をしているように見える。けれど、心底からいやがっているかというと、そうでもないような。
この世に生をうけて四十年になろうとしているが、女心の機微なんて、とんとわからぬ。前世とあわせれば八十オーバーなのに、さっぱりだ。
私が判断に迷っていたら、郭嘉があわてて逃げだして、入れちがうように陳羣がやってきた。口説かれていた家人と二言、三言、言葉をかわしてから、陳羣は郭嘉を追いかけていく。
第三者の立場で観察していた私は、首をひねった。
なにも、走って逃げなくてもいいのでは? どうせ、毎日のように顔をあわせるのだから、逃げても明日には捕まるだろう。
まあ、追いかけるほうも追いかけるほうだし、郭嘉は陳羣をふりまわして、からかってるだけなのかもしれない。
酒が入ってるからだろうか。それとも、一大決戦の重圧から解放されたからだろうか。なんだか、子どものころを思い出させる光景だった。
私は宴席場にもどると、靴を脱いで室内にあがった。
みんな床に座っていて、それぞれの前に、お膳で食事が出されている。なつめ、蓮の実、栗、りんご、卵のスープ、鶏肉の魚醤焼き……。
自分の席について、となりの席の荀彧に声をかける。
「変わり者の友人をもつと、苦労するのだろうな」
もちろん、私は郭嘉と陳羣のことをいったつもりだった。きわめて軽い気持ちで、率直な感想を口にしたのだが、これがまずかった。現場を見ていない荀彧に伝わるはずがない。それどころか、荀彧は奇妙なまなざしを私にむけてきた。まるで、変わり者の友人を見るかのような。
「変わり者か。……ところで、孔明。子どものころ、君が池でおぼれかけて大騒ぎになったのを、おぼえているだろう?」
ぎゃふん。やめてくれ荀彧。その攻撃は私に効く。
なにげなく声に出してしまったひとことのせいで、私は黒歴史を思い出すことになった。
あれは、そう。十三歳の夏の出来事だった。
私は奇妙な夢を見た。
口元に竹筒をあてて呼吸しながら、水中を歩くという夢だ。いわゆる水遁の術である。
目が覚めて、まず思った。天才じゃね?
さっそく、手ごろな竹をさがして、加工にとりかかる。節を抜いて、口と鼻にあうように、竹を削る。
作業を終えた日、私は同年代の友人を誘った。荀彧は勉強中で家から抜け出せなかったので、ほかの遊び仲間たちといっしょに池にむかう。
暑い日だった。池につくと、私は服を脱いで、特鼻褌いっちょうになった。腰に命綱をむすんでから、池に入る。
ほどよく冷たい水温が、気持ちいい。
池の底はやわらかかった。くるぶしまで足が沈む。注意が必要だ。おそるおそる、慎重に進んでいく。腰までだった水深が深くなる。胸をこえて、肩の高さまで。もう、十分だろう。
「もぐるぞー!」
威勢よく岸に声をかけると、私は竹筒を口元にあてがった。
一気に水中にしゃがみこむ。
口のなかに、水は入ってこなかった。よし。あとは呼吸ができれば成功だ。
息を吸う。吸えない。
思いっきり吸う。けど、吸えない。
肺呼吸、腹式呼吸、全身呼吸! やっぱり吸えない!!
こめかみに血管が浮きでてるんじゃないかってぐらい力んでも、なぜか空気が動かない。
意気揚々とはじめた手前、絶対成功させたかった。
けれど、空気が重い、かたい、びくともしない!
吸っても空気が動かない、ってどういうこと!? そんなの想定できるか!!
息が苦しくなった。いったん仕切りなおすしかなかった。
失敗したときのことも考えてある。といっても、立つだけでいい。水深は、肩までしかないのだから。
ひざをのばそうとして、私は愕然とした。
ひざに力が入らないッ!?
あわててしまったのが、悪かったのだろう。
竹筒がはずれて、のどに水が流れこんできた。
頭がまっ白になった。ひとつだけはっきりしてる。これはダメだ。死ぬ。死んでたまるか、こんちくしょう。文字どおり必死だった。私は竹筒を手放して、どうにか腰の命綱をひっぱった。
すると、すごい力で岸までひっぱられた。まるで、釣られる魚のように。
陸にあがった私は嗚咽まじりに、水を吐いて、咳きこんだ。浜にうちあげられた魚がビチビチはねるよりも、見苦しかったと思う。
「胡昭!! このバカタレがッ!!」
怒鳴り声がふってきた。大人の声だった。
顔をあげると、郭図がいた。
二十歳そこそこの郭図は、おっさんみたいな顔に鬼の形相を浮かべていた。眉を逆立て、目を見開いて。命綱をひっぱっていたのは、郭図だったのだ。
当時の郭図は、私たちにとって兄貴分というか、監視役だった。
私たちが危険そうな遊びをしていると知って、すっとんできたのだった。
私は正座させられた。長い説教になるだろうなと覚悟した瞬間、目の奥に火花が散った。私の頭に、郭図が拳骨をふりおろしたのだ。ものすごい衝撃だった。地面に顔がぶつかるかと思った。
物理的にもひどく痛かったけれど、精神的な痛みのほうがずっと大きかった。もうしわけない気持ちでいっぱいだった。
いまの私が、危険な遊びをしてる子どもを見かけたら、やっぱり同じように叱りつけるだろう。
自分のことながら思う。なんだこの胡昭とかいうクソガキは。まったくもってけしからんな。
……いつからだろう? 郭図が私のことを高く評価してくれるようになったのは。彼からしてみれば、昔の私は問題児でしかなかっただろうに。
私が大人になって、名士としての評判を得てから、ではなかったと思う。もっと前からだったような。
孔明というあざなを名乗るようになってから、郭図は私のことを「胡昭」ではなく、「孔明」でもなく、「孔明どの」と呼ぶようになった。
でも、それは郭図がそういう性格だからだ。あざなをもらったら「どの」と呼んで一人前あつかいする。ここらへん、郭図はきっちりしてる。
「郭図」呼びからそのままスライドして、年上の人物を「公則」呼ばわりしちゃってる私とはちがう。いや、いまさら「公則どの」もないけれど。
う~ん。郭図から評価されるきっかけなんて、あっただろうか?
前世の記憶がよみがえる前の、二十歳になる前の私は、変わり者あつかいが妥当だったような気がする。
まあ、いまでもちょっと風変わりな面があるのは、認めないでもないが。
しかし、しかしである。
そもそも、あの件は、奇妙な夢が発端だったのだ。あんな夢を見たのは、深層心理にひそんでいた前世の記憶のせいだろう。
水中で息ができると思ってしまったのだって、前世の記憶がまだなかったからだ。いまならわかる。空気を吸えなかったのは、おそらく圧力の問題だろう。
あんな無茶は、もう絶対にしない。
つまり、つまりである。
あれは不幸な事故だった。
前世の記憶が影響して、なおかつ現代知識がないという、特殊な条件によって起こってしまった、偶発的な事故だったのだ。
私は強く主張したい。「『水遁の術で水没事件』は、あくまで例外である。私の人格に起因するものではないのだ」と。
弁解せねばなるまい。私自身の尊厳のために!
「あれは、若さゆえのあやまちであってだな……」
「人の本質というものは、そう簡単に変わらないと思うんだがなあ」
荀彧の言葉はにべもなかった。
はい、ごもっともで。尊厳の回復をあきらめて、私はきゅうりの味噌漬けをつまんだ。ああ、おいしい。
荀彧は上機嫌でいう。
「ああ、そうそう。変わり者で思い出した。司馬徳操だ」
「むっ。徳操がどうかしたのか?」
三国志でおなじみの水鏡先生こと、司馬徽のあざなを徳操という。彼も潁川出身なのだが、いまは荊州に移住している。年寄りの印象があるけど、郭嘉より年下なんだから、イメージってあてにならない。
「彼から連絡がきたよ。襄陽でひらいた学問所が、なかなか盛況のようだ。君にあこがれて、鶴氅を着て、白い羽扇をもつ者も多いらしい」
「隠士のまねなんてしていたら、出世できぬだろうに」
「ふふふ。そのなかに、おもしろい若者がいるそうだ。学問所に出入りしているだけで、門下生ではないのだがね。はからずも、あざなを孔明といって、たしか、琅邪諸葛氏の出身だったかな」
「ほう……」
とりあえず。ここは一発、有名なセリフを使わせてもらいましょう。
さながら、某怪盗三世を追いかけまわす警部のごとく。
私は心のなかで、叫ぶのであった。
バカヤロー! そいつが本物の孔明だッ!




