第三十話 兵糧
関羽が曹操のもとを去ったらしい。
関羽千里行。
それは、さながら無双ゲーのごとく。
これでもかと関羽があばれまわる物語。
曹操への恩に報いた関羽は、許都の屋敷を立ち退き、劉備のもとへと旅立つ。
ところが、通行手形をもっていなかったため、関所をとおしてもらえない。
むむむ、これは困った。
普通ならそうなりそうなもんだが、関羽は普通じゃなかった。
あまり悩む素振りもなく、決断する。
腕ずくでまかりとおる!!
これはひどい。
関所の守将からしたら、たまったものではない。迷惑千万である。
道中には、五つの関所が立ちはだかる。
そこを守る曹操の武将たちを、関羽はバッタバッタと斬り殺していく。
そして長旅のすえに、ついに主君・劉備と感動の再会をはたすのだ。
三国志演義にあった、このエピソードをなぞるように。
関羽は許都を去って、劉備のもとへと奔った。
ただし、お話とは、だいぶ状況が異なるようだ。
そのころ、劉備がどこにいたかというと、袁紹の命をうけて、汝南で打倒曹操を呼びかけていたのだ。汝南である。許都のすぐそばだった。
千里どころか、二、三日で再会してた!?
そんだけ近けりゃ、そりゃ会いにいっちゃうでしょうよ。
関羽と劉備が合流したのもつかの間、曹操は許都に配した四万の兵のうち、二万を曹仁にあたえて、反乱鎮圧に動かした。
この討伐軍に、劉備はまたしても敗れた。
徐州で城をもっていたころとはちがい、劉備には、袁紹から借りたわずかな手勢しかいなかった。騎兵でもなければ、精兵でもない。数百の雑兵だ。曹操と戦えるような戦力ではなかった。
で、例によって劉備はとりのがしたものの、曹仁はその余勢をかって、周辺の反乱を矢継ぎ早に鎮圧していった。
いまでは、豫州と徐州で頻発していた反乱は、ほぼおさまっている。
袁紹にうばわれた兗州こそとりもどせずにいるが、それ以外の領地は回復したといってよい。
これで、冬を越すだけの兵糧を、曹操は確保できるだろう。
農作業の帰り道、私はあぜ道を歩きながらつぶやいた。
「……そろそろ、であろうか」
「はい。そろそろでしょう」
私と同じように、農夫姿をしている司馬懿が、あいづちをうった。
収穫の秋がすぎ、冬がおとずれようとしている。
季節とはただそれだけで、戦争がはじまる理由にも、終わる理由にもなる。
かのナポレオンはいった。
「冬将軍には勝てなかったよ」
……いってたっけ? そんな感じだったと思う。ちょっとさだかではないが。
この国にも、季節と戦争を関連づけた言葉がある。
前漢の趙充国――百聞は一見にしかずという有名なことわざを残した名将は、こんな警句も残している。
「秋になると、食糧をもとめて匈奴が南下をはじめる。
春、夏と草を食んで、たくましく育った馬とともに。
今秋も匈奴はおそってくるであろう。マジつらたん」
遊牧民族の匈奴は、冬を越すために、物資の略奪にくるのだ。
冬にそなえなければならないのは、どこも同じ。
曹操と袁紹だって、例外ではない。
いまごろ両陣営とも、兵糧をかき集めていることだろう。
「どちらも大軍です。消費する兵糧は、莫大な量となりましょう」
「うむ」
曹操と袁紹の戦は長期化しつつあった。
長期化すればするほど、非生産的な軍事活動に、大量の物資がつぎこまれていく。
「どちらの領土も、疲弊しきっているであろうな」
「はい。しかも、戦線は停滞しています。あらたな戦果が期待できないとなれば、遠征している袁紹軍の将兵たちからは、不満の声もあがるようになりましょう」
「彼らは帰郷を望むようになり、その声は日に日に強まっていく……か」
透明度の高い空の下を、私たちはのんびり歩いていた。そうしていると、物騒な戦争の話題が、なんだか不釣り合いにも思えてくる。
袁紹軍は官渡を抜けずにいた。
思うようにいかなければ、将兵の不満がたまり、陣中には厭戦気分がただよってくる。なかには、曹操に寝返る者すらでてくるだろう。
そう、裏切り者。
官渡の戦いの鍵を握るのは、裏切り者の存在だ。
烏巣にある袁紹軍の兵糧庫を焼きはらって、曹操は勝利する。
その兵糧庫の場所を教えるのが、袁紹を裏切る許攸という人物である。
張遼が文醜を討ちとったように、歴史は変化しているみたいだから、それが許攸とはかぎらない。
けれど、誰かが曹操にくだって、兵糧庫の場所を教えることが、勝敗を決定づける確率は高いと思う。
一般の兵卒は、どこになにがあるかなんて知らされていない。
兵糧庫の場所を知っているのは、ある程度階級の高い将校だ。
そこから裏切り者をだすのが、曹操の勝利には必要だろう。
……いちおう、離間策を勧める手紙でも、荀彧に送っておきましょうか。
*****
冷たい雨が降りしきるなか、官渡城の一角がわきたった。
出撃していた徐晃隊が帰還したのである。馬体や鎧はことごとく雨に濡れ、光沢をまとっている。
すぐさま、城内の兵が群がるように出迎えた。その人数が増えるにつれて、喝采や笑声が広がっていく。
得意げな表情を浮かべて、堂々と行進する徐晃隊の面々を、郭嘉と荀攸は二階の窓からながめていた。
「へえ。どうやら、かなりの成果をあげたみたいっすよ」
「…………」
郭嘉が片眉をあげて声をはずませると、荀攸が無言でうなずいた。
徐晃隊は、袁紹軍の後方を撹乱する任務をおびていた。
おそらく、大規模な輜重隊と遭遇して、物資の収奪に成功したのだろう。
現在、官渡城には約二万の曹操軍がつめている。
ただ守り耐えるだけなら、半数の兵でもことたりるのだが、官渡城は積極的に反攻にでる、起点ともなっているのであった。
いまのところ、その方針はうまくいっている。なんといっても、曹操軍の騎兵が袁紹軍の騎兵に対して、優位に立っているのが大きかった。
「騎兵の質ではこちらが上だろう、と踏んではいましたけどね。数でも上まわれたのは、うれしい誤算だったっすね」
「うむ……」
当初一万いた袁紹軍の騎兵は、小さな局面で敗北をくりかえした結果、二割ほど数を減らしている。
一方、鍾繇を介して関中軍閥から四千頭の馬を提供された曹操軍は、騎兵の数を一万にまで増やしていた。
「……馬騰には、おどろかされた」
徐晃隊に視線をとめたまま、荀攸はぼそぼそとした低い声でいった。
「いくら涼州が馬の産地とはいえ、四千頭ですからねえ。馬騰が気前のいい男で助かりましたよ。いやあ、ありがたい」
「袁紹にとっても、とんだ計算ちがいだったろう」
「思惑をはずれて、うまくいきそうもないのなら、さっさと切りあげりゃいいんですよ。だって、敵が守りをかためている場所を、しゃにむに攻めつづけるなんて、まずい戦の典型でしょう?」
あきれたような郭嘉の言葉に、荀攸は頬をゆるめた。
「そうだな。官渡は落ちないだろう」
だからといって、素通りもできない。
素通りすれば、官渡城から出撃する部隊によって、袁紹軍は補給線を断たれてしまう。
袁紹軍は前に進めずにいた。
しかし、曹操軍にも、まっこうから袁紹軍を押し返すほどの力はない。
戦況は膠着したまま、冬をむかえようとしていた。
この状況を、郭嘉と荀攸は正確に認識している。
それはおのずから、五百里はなれた場所にいる孔明たちの認識と一致していた。
「袁紹本人は、長期戦も覚悟しているでしょうよ。けどね。将兵や領民がその覚悟についてくるかとなると、話は別ですからねぇ」
めんどくさそうな顔をして、郭嘉は肩をすくめた。
大軍をひきいて冬を越すのが、いかに困難なことか。
曹操軍とて必死だった。
許都にいる荀彧や夏侯淵らが、各地から兵糧をかき集め、なんとかやりくりして、ようやくめどが立ったところだ。
袁紹軍の担当者も、大変な思いをしているだろう。
冬を越すための兵糧を計算して、顔を青くしているにちがいなかった。
肥沃な冀州ならば、大軍をまかなうだけの兵糧も捻出はできよう。
だが、遠征に動員された袁紹軍十一万の、過半は農民だったのだ。
それだけの働き手をうばわれ、さらに気が遠くなるような量の兵糧を、南に運搬しなければならない。
遠征をつづける代償として、冀州の豪族や領民は、はかりしれない負担を強いられている。であるにもかかわらず、進軍はとまってしまった。もう、これ以上の成果は期待できないだろう。
もともと冀州の豪族たちのあいだでは、出兵に反対する意見が根強かったのだ。こうなってくると、一度はおさえられたその気運が、一気に盛り返してくる。
人が悪そうに、郭嘉は一笑した。
「そろそろ、期待してもいい頃合いですかね」
「うむ。そろそろであろうな……」
荀攸はすっと目を細めた。
長期戦につきあうつもりは、彼らにはなかった。
より調略に力を入れねばなるまい。
袁紹軍のほころびが表面化する日が、一日でも早く、確実に到来するように。
戦が一日延びるごとに費やされる物資の量を考えれば、手間を惜しんでなどいられなかった。
寒そうに手をこすりあわせて、荀攸はつぶやく。
「冬は、不和を露呈させる……」
とらえどころのない彼の視線は、変わらず窓の外をむいている。
朝から降りつづいていた雨は、いつしかみぞれに変わっていた。




