第三話 人材登用
大陸の勢力図はめまぐるしく塗りかえられていた。
初平三年(一九二年)、権勢をほしいままにした董卓は、養子としていた天下無双の豪傑・呂布の手によって殺害された。
十万の大軍勢でもって、その呂布を破り、長安のあらたな支配者となったのは李傕と郭汜であった。
李傕と郭汜は、董卓の真似をするように暴政を敷いた。やがて、彼らはいがみあうようになり、洛陽から長安につれさられていた後漢第十四代皇帝・劉協を巻きこんで、醜い権力闘争がはじまった。そのさなか、長安の宮殿は、まるで洛陽のごとく焼き払われてしまう。
帝はわずかな供に守られ、混乱する長安を脱出した。落ちのびた先は、廃墟と化した洛陽。身を隠すのは、秋風も防げぬ、朽ちたあばら家であった。樹皮を煮てすりつぶしたものを食らい、草の根を煮た汁をすすって、飢えをしのぐありさまだった。
そこを保護したのが、風雲に乗じて力をつけていた曹操である。
帝を擁立したことによって、曹操の勢威はいよいよ盛んとなった。
その本拠地、潁川郡の許は天子を迎え入れたことで許都となり、曹操自身も最高位である三公のひとつ、司空となっていた。
建安二年(一九七年)。許都。
曹操の部下となって五年あまり。幾多の功績を積みかさねてきた荀彧が主君の部屋に入ると、そこではあやしげな会話がなされていた。
「曹操さま、妓院(娼館)の予約をとりましたよ! 変装の準備は万全っすか?」
「おお、でかした! ふふふ、こよいの余は、いや、私は徐州の客商(旅商人)であるぞッ!」
昼間から女遊びをくわだてているのは郭嘉である。
彼は曹操の配下にくわわってまだ日は浅いものの、持ち前の才覚を発揮して、めきめきと頭角をあらわしていた。
そして榻(長椅子)に腰かけ、満足げに笑う男が曹操、あざなは孟徳。この年、四十三歳である。
「……でかした、じゃありませんよ」
嘆息しつつも、荀彧はまず仕事をすませる。曹操との二、三のやりとりのみでそれをあっさり片づけてしまい、あらためて冷ややかな視線をむけると、曹操と郭嘉は、母親にいたずらが見つかったような悪ガキづらを並べた。
こんなとき、荀彧の口からでる言葉はいつも決まっていた。
「ほかにすることはないのですか?」
「……だがなぁ、荀彧よ。英雄、色を好むというではないか」
「はぁ……。しかし、陣中で未亡人にうつつを抜かしているところを襲撃されて、あやうく死にかけたばかりではありませんか……」
「それがどうした。余は乱世の奸雄と評された男だぞ」
「……何をいいだすのか、嫌な予感しかしませんな……」
「郭嘉、おまえなら余のいわんとするところ、わかるであろう」
「はっ。『奸』という字は、『女』の字の横に『千』と書く。これはあまたの女を愛することの象徴である。って感じですかね」
「そう、そういうことだ。……山は高きを厭わず、海は深きを厭わず。山はどこまでも高くあろうとし、海はどこまでも深くあろうとする。ふふっ、奸雄もそれと同じ。国と愛をどこまでも求めつづけるものよ」
天地の理にいどむかのごとく、曹操は遠くを見る。
荀彧はあきれたように感想を述べた。
「山と海に謝ったほうがよろしいかと」
「こやつめ、ハハハ!」
曹操は軽く笑って、几案の上に手を伸ばした。
器に盛られた小さな白い菓子を、ひとつつまんで口に入れる。
一瞬、荀彧と郭嘉がその菓子に目を凝らした。
それに気づいて、曹操は得意げに片眉をあげる。
「うむ、これか? これは最近、民衆の間でひそかに流行っている菓子だそうだ。腹はふくれないが、それがかえっておもしろいものよ」
ゆっくりまばたきをしてから、荀彧がいう。
「……『めれんげ』、ですな」
「むむ、知っておったか」
食に造詣が深い曹操ですら、つい最近まで知らなかった菓子である。
が、荀彧と郭嘉は『めれんげ』なる菓子を、流行りだす前から知っていた。
それを考案した人物の名も。
「……この荀彧、曹操さまに推挙すべき大賢人に心当たりがございます」
「奇遇ですね。オレにも思い当たる人物がいますよ……」
やや唐突な感のある荀彧と郭嘉の進言に、
「ほう」
曹操はあごに手をあててしばし考えこんでから、にやりと笑った。
「……おもしろい。ならばおまえたちの胸中にある人物が、同じなのか、ちがうのか。それぞれ手のひらにその人物の名を書いて、同時に見せ合うというのはどうだ?」
曹操の提案にしたがい、荀彧と郭嘉は筆をとった。
自分の手のひらにさらさらと文字を書きつけ、筆をおいたところで曹操が命じる。
「よし、見せてみよ」
名軍師たちは、ひらいた手を前に突きだした。
そこには、同じ人物の名が書かれていた。
「ハッハッハッ!」
曹操は高笑して、勢いよく立ちあがった。
「胡孔明か、噂は耳にしたことがある! おまえたちがそろって推すほどの逸材とはな。おもしろいッ!」
曹操の部屋を出ると、郭嘉が荀彧に訊ねた。
「……これで、よかったんですよね?」
「うむ。ここで推挙せずとも、曹操さまが孔明に興味を示されるのは、もはや時間の問題であろう」
気に入った料理があれば、料理人を呼んで調理法を聞きとり、書物にして残そうとするのが曹操である。『めれんげ』の考案者の名は、遠からず曹操の知るところとなるだろう。
「もともと、孔明先輩は書法家としてけっこう名が通ってますしねぇ。その才が多岐にわたるとわかれば……。そりゃ、部下にほしがりますよ、曹操さまは。女の尻より、士の才を愛する人ですもん」
「どうせ呼び出されるのなら、私たちの目がとどくほうがいい。そう思うだろう?」
「ごもっともで」
郭嘉は同意すると、気づかわしげに眉根を寄せた。
「……ちょっと目立ちすぎたみたいっすよ、孔明先輩」
そのころ、あくまで隠士であろうとする孔明は、潁川から西にある陸渾という地を訪れていた。
*****
「ぶぇっくしょいッ!!」
私のくしゃみにおどろいたのか、地面でさえずっていたヒバリが飛びたった。
陽射しこそ春めいてきたものの、今日の風は少しばかり肌寒い。
もっとも、私の家を建ててくれる大工たちはそんなこと気にせず、上半身裸で仕事をしている。この程度の寒さなんて、筋肉で跳ね返しちゃいそうだ。
「どうです、孔明先生! なかなかいい出来栄えでしょう?」
屋根の上から威勢のいい声がかかる。どうやら瑠璃瓦を葺き終えたようだ。
「なかなかどころか、私にはもったいないくらい立派な屋敷だ!」
「へへへ。孔明先生にそういってもらえると、うれしいってなもんよッ!」
私が大声で言い返すと、大工たちがうれしそうに笑う。
お世辞ではない。正直な気持ちだった。
前回訪れたときに、私はこの地を気に入り、家を注文しておいた。
今回はその家の出来上がりを見にきたのだが、なぜか予定より立派な屋敷が建っているのである。
おそるおそる訊いてみたところ、なんと! お値段は据え置きでいいとのこと。
望外のサービスに内心ガッツポーズしつつ、しばらく大工たちと話しこんでいたら、あぜ道の向こうから村人の一団がやってきた。
「……おや?」
なんだろう? 村人たちの先頭を、十歳くらいの少女が駆けてくる。
「先生ぇ~、先生に教えてもらった『めれんげ』、上手に焼けましたぁ!」
そういって、少女は器を差しだしてきた。
器の中には、薄茶色に焼き色のついたメレンゲクッキーが転がっていた。
うながされるまま、それをひとついただく。
うん、しっかり焼けてる。サクサク。
「うむっ、素晴らしい。よくできておるではないか」
卵白を泡立てて焼くだけと思いきや、これが意外と難しい。
私も何回失敗したことか。できるとわかってたから、成功するまでつづけられたけど。
えへへ、と少女は誇らしげにえくぼを浮かべた。
すると、こんどはその母親らしき女性が、
「孔明先生、あたためた蜜水をおもちしました」
「いやいや、そのような高価なもの、もったいない……」
「なにをおっしゃいますか。わたしどもの暮らしに余裕ができたのは、孔明先生のおかげなんですよ」
そこまでいわれては。と、私はご厚意をいただく。
ところで、三国志で蜂蜜といえば、袁術を抜きには語れない。
皇帝を僭称しながらも落ちぶれて、ついには蜜水も手に入らぬと知り、絶望のあまり死んだという偽帝、袁術。
一方、私は無官の身であるにもかかわらず、村人に蜜水でもてなされている。
この世界では、袁術はまだ存命なのだが……、あえて言おう。
袁術と私、どうして差がついたのか……慢心、環境のちがいッ!
実際、慢心なんてしていられる環境ではなかったのだ。
案の定というか、董卓軍に侵略された潁川は、荒廃してひどいありさまだった。
けれど曹操が力をつければ、その本拠地になる潁川だって安定するはず。
それまでの辛抱と思い、私は歯を食いしばった。
晴れの日には畑仕事をし、雨の日には文字の読み書きを教え、わずかな時間を見つけては、以前からちょくちょく手を出していた料理や農具の研究開発にいそしんだ。
そう、前世の記憶があるからには、やらねばなるまいッ!
現代知識チートッ! ふっふっふ。私の現代知識が火を吹くぜッ!
……ええ、薄々わかってましたとも。自分にそんな知識なんてないことは。
それでも、チートとまではいかないけど、それなりに成果はあった。
一番上手くいったのは、一輪車、手押し車の開発だろうか。
そうです。諸葛孔明がつくったという木牛流馬を、先取りインスパイアさせていただきました。すみません、本物の孔明さん。インスパイアといっても、一輪の手押し車をつくろうという発想だけであって、参考にしたのは未来のものですが。
完成形をなんとなく知っているだけで、ずいぶんちがう。この時代にしては素晴らしいものができあがったかと。
この一輪車、私の名から胡昭車、胡輪車などと呼ばれて普及しはじめているらしい。もと日本人としてはコショウシャは不吉だから、コリンシャの名で流通してもらいたいところです。
そうして少しずつ、私たちの生活は楽になっていったのだが、どうしても解決できない問題があった。賊の出没がとまらないのだ。どこからともなく盗賊があらわれ、ヒャッハーして去ってゆく。これは想定外だった。ううむ。存外、曹操が頼りない。
そこで私が目をつけたのが、この陸渾である。
北には復興に動きだした大都市、洛陽。
周囲は山に囲まれ、伊水が洋々と流れている。
魚が豊富にとれるうえに、桃や梨、この時代ではめずらしいブドウの木まで植わっており、集落への入口がかぎられた防衛しやすい土地ゆえか、最近は賊の姿もめっきり見かけなくなったとのこと。
いざ訪れてみると、山あいの陸渾では、悪路に強い一輪車が活躍しているようで、開発者の私は手厚い歓迎をうけたのだった。
話を聞くに、この蜂蜜も商人から買ったのではなく、農作業の手間が減って空いた時間で採取したものだという。
水に困らず、食材は豊富、治安も良好。
立派な家もできたし、ご近所づきあいだって問題なさそう。
うむ。よきかな、よきかな。
引っ越し先の環境に満足して、ほくほく顔で潁川に帰ってきたところ、妻から手紙をわたされた。留守にしてるあいだにとどいたそうだ。
誰からかな。
荀彧かな? 郭嘉かな? それとも郭図だったりして。
送り主を確認した私は、驚愕のあまり、つい叫んでしまった。
「げえっ! 曹操!?」




