第二七話 筆頭軍師・荀攸
建安五年四月。
袁紹軍に包囲されている白馬城を救うため、曹操軍三万五千は北上していた。
その途上、天幕に集まった部下たちを、曹操がおどろかせたのは、これから軍議をはじめようというときであった。
「江東の孫策が、死んだそうだ」
四月四日、刺客におそわれて負った矢傷が悪化して、孫策は二十六歳の若さでこの世を去った。
後継者に指名された弟の孫権は器量の大きな若者らしいが、まだ十九歳である。家中をまとめるために、しばらくは時をついやさねばならぬだろう。
「孫策は若く、いさましく、おそれを知らない強力な指導者であった。個人的な好悪はともかくとして。わが軍にとって、この知らせは、南からの追い風となろう」
きまじめな表情で曹操は告げた。
この訃報は、朗報であった。
北の袁紹と、南の孫策。
もし、同時に敵対することがあれば、どれほどの難事となっていたか。
この場にいる者で、それが理解できぬ者はいないだろう。
部下たちの顔を、天幕の隅でかしこまっている曹丕の顔をながめて、曹操は短くうなずいた。
「あらためていうまでもない。わが軍の目的は、白馬城の住民と守備兵二千の救出である。彼らを救ったうえで、袁紹の鼻っ柱をへし折ってやれれば申し分ない」
誰からともなく笑声があがり、嵐の前のような重苦しい空気がはれた。
曹操が視線で合図を送ると、荀攸が作戦の説明をはじめる。
「これよりわが軍がむかうのは、延津であります」
白馬にむかうのではなかったのか? と、いぶかった諸将がざわめいた。
延津は、白馬の西に位置する渡河点である。
河水は川幅が広すぎて、橋を架けることができない。
船で渡らなければならないため、渡河点をおさえるのが、戦略上、きわめて重要になる。
白馬津と延津、この2点が曹操領と袁紹領とをわかつ、渡河点であった。
白馬津をおさえているのは、袁紹である。
袁紹本隊はいまだ対岸の黎陽にとどまっており、先鋒部隊が白馬津に上陸して、白馬城を攻めている。先鋒は、郭図・淳于瓊・顔良を大将とする三万であった。
一方、延津は、まだ曹操の支配下にある。
于禁・楽進といった武将たちが一万の兵で先行して、延津を堅守していた。
「先行する一万とあわせれば、わが軍は四万五千だ。袁紹軍三万など、ひと息に蹴散らしてくれよう!」
熱をおびた部下の主張に、曹操は口元をほころばせる。
血気盛んな将が暴走しないように、腐らないように。
手綱を握るのは、将の将たる曹操の役割であった。
「白馬に急ぎたい気持ちは、余も同じだ。
だが、正面から三万の兵と戦えば、こちらの損害も無視はできん。
うしろには袁紹本隊が、無傷のまま牙を研いでいることを忘れてはならぬ」
白馬にいる敵は、先鋒にすぎない。
ここで勝ちさえすればよい、というものではなかった。
それに、白馬での戦が長引いたら、袁紹の援軍が白馬津から次々と上陸してくるだろう。そうなっては、勝利もおぼつかなくなる。
「……延津から渡河して、鄴との補給線を断つ。と見せかけます。
後背を断たれ、本拠地周辺を荒らされては、せっかくの大軍も瓦解しかねない。
袁紹はわが軍をおさえるべく、黎陽から河水北岸を西に移動すると思われます。
また、白馬を攻めている三万も、本隊に呼応した動きを見せるでしょう……」
荀攸の口調はしずかで、高揚からかけはなれていた。
では、消極的な策なのだろうかと、中身をみればとんでもない。
すこぶる大胆な陽動策である。
渡河中の軍はもろい。このうえない餌となろう。
袁紹軍の急所を突こうと乾坤一擲の賭けにでた曹操軍を、河水の南北から挟撃して壊滅に追いこむ。
袁紹の目には、さぞ魅力的にうつるにちがいなかった。
四海を掌握するにふさわしい、赫々たる勝利である、と。
「おお。陽動によって、白馬城を包囲している敵軍を割く、ということか」
「渡河すると見せかけ、白馬から延津にむかってきた敵を撃破するのですな」
諸将の反応に、荀攸は首を横に振った。
「いえ。われわれの目的は、あくまでも白馬の救援です。
白馬から延津にむかってくる敵を充分に引きつけて、軽騎兵五千をもって迂回し、白馬に残った袁紹軍を叩きます」
「五千!?」
「郭図・淳于瓊・顔良の三軍のうち、一軍が白馬に残ったとして一万、二軍が残れば二万だ。騎兵とはいえ、たった五千でそれを破ろうというのか」
「いや、わが軍の騎兵なら、一万が相手であろうと圧倒できるだろう。しかし、二万となると……」
「白馬に残るのは、顔良軍一万です」
戸惑う諸将に、荀攸は断言した。
「荀攸どの。なぜそう思われる?」
「顔良は勇猛な将だと聞いている。顔良こそ、まっさきに延津にむかってくるのではないか?」
もっともな疑問である。
私生活においては口数の少ない荀攸も、軍議では言葉を惜しんでいられない。
「袁紹軍が白馬城の包囲をつづけるには、一万も残せばたりるでしょう。
しかし、延津にむける兵が一万では、各個撃破の格好の標的となってしまう。
ゆえに、二万をむけてくるかと」
こうした軍議をまわすのは、たいてい論陣を張るのが得意な参謀なのだが、その代表例といってもいい郭嘉などは、いつになく発言をひかえている。
今回の戦は、大陸の覇者を決める戦といっていい。
筆頭軍師であり、作戦の立案者でもある荀攸の口から説明すべきだ、と参謀たちは敬意をはらっているのであった。
「いかに勇将とうたわれようと、顔良の為人は思慮を欠き、注意に欠ける。
そのような将に、一万の兵をあずけるにあたって、袁紹はどう考えたか。
敵地を行軍中に奇襲をうけるような、ぶざまな真似はさけねばならない。
できるかぎり動かぬよう、顔良は厳命されていることでしょう」
憶測に、荀攸は物証をつけくわえる。
「郭図・淳于瓊の両軍は、それぞれ騎兵を千騎ずつ有しているが、顔良軍は歩兵のみである。との報告をうけています。
敵地で動きまわる役割を顔良に期待していないから、このような編成になるのです」
口に疲労を感じたように、荀攸はうすくため息をついた。そして、おだやかにいってのける。
「陽動で稼げる時間は、そう長くはないでしょう。
短時間で敵を潰走せしめるには、指揮系統を迅速に破壊しなければなりません。
狙いはひとつ。顔良の首だけです」
軍議が終わると、ひとあしさきに天幕を出た郭嘉を、曹丕は追いかけた。
日は完全に暮れていた。月も隠れ、篝火が周囲を薄赤く染めている。
曹丕が声をかけようとしたちょうどそのとき、郭嘉が立ちどまって振り返った。
「どうしたんすか? 曹丕さま」
「……袁紹軍は、荀攸がいったとおりに動くのだろうか?」
「動くと思いますよ。袁紹の信任から見るに、先鋒三万の動きを決めるのは、公則さんでしょうから」
公則――郭図は、潁川郭氏の人である。
同じ一族の郭嘉も知らないではないだろうが、幼いころから肩を並べて学問に励んできた荀攸なら、郭図がどう考えてどう動くかは、手にとるようにわかるのだろう。一から十までいわれずとも、曹丕はそう理解した。
納得したようすの少年に、郭嘉は目を細めて問いかける。
「仮に、曹丕さまが袁紹軍の先鋒三万を指揮する立場にある、としましょうか。
袁紹から、渡河する曹操軍を攻撃しろ、と命令がきました。どうします?」
曹丕は腕組みをして、沈思黙考する。
白馬城を包囲して、すでに二か月近く経っている。
わずか二千の兵で守る城を落とせずにいるのだから、袁紹は苛立っているだろう。
ここで命令に従わなかったら……。
曹丕の眉間にしわが寄った。想像しただけなのに、気が滅入りそうだ。
功もないまま、失態は重ねられない。
これ以上、袁紹の不興を買うわけにはいかない。
命令違反なんて、できやしない!
「……オレだったら、白馬城の包囲に必要な数を残して、延津にむかう。そして、孫子にあるように、半数が川を渡るまで待ってから攻撃する。……そのころには、袁紹本隊も同じように、攻撃をはじめているだろうから……」
ためらいながらも、曹丕は兵法書に忠実に答えた。
歯切れが悪かったのは、それでは袁紹軍がとるであろう行動とまったく同じだと想像してしまったからで、……つまり、まちがっているのだろう。
「そう。兵法書とは、どう考えるべきかが書かれているのであって、答えが書かれているわけじゃないんすよ」
曹丕の心情を見透かしたように、郭嘉は苦笑した。
「じゃあ、郭嘉に白馬を攻めている三万の指揮権があったなら、どうする?」
「オレが指揮官だったら、命令はあとまわしにしておきますね。まずい戦をして負けるより、勝って降格するほうが幾分マシでしょう」
結果を出しても降格させられるような人には、仕えるつもりありませんけど。そうつけたしてから、郭嘉はあごに手をあてていう。
「まず、白馬城の包囲を、完全に解きます」
「えっ」
「白馬城は門をあけて、住民を退避させるなり、商人から兵糧や武器を仕入れるなりするでしょう。そこに間者を紛れこませて、『曹操軍が白馬城の救援にむかっている』と触れこみます」
籠城している人々からすれば、うれしい知らせだ。
その情報はあっという間に広まり、守備兵を勇気づけるだろう。
なにせ誤報ではなく、実際に曹操軍は動いているのだから、広まらない道理はない。
「さらに、曹操軍に擬態させた兵を数百ほど白馬城にむかわせて、三万全軍でそれを追わせます。援軍がこないのではないか、と不安に思っていた白馬城の守備兵は、救援にきてくれた決死隊を見捨てられず、城内にいれるはずです」
パチパチと、篝火がはぜた。
火の粉が顔のあたりに飛んできて、郭嘉は目をすがめた。
「門を閉じたとしても、将兵の意見は割れるでしょう。動揺しているところで、城内にもぐりこんだ間者に火を放たせる。そうして混乱した白馬城を、全軍で攻撃する。ってところですかねえ」
郭嘉の眸のなかで、篝火が揺れていた。
そこに、炎上する白馬城を見て、曹丕は思う。
綱渡りのような詭計だ。
けれど、郭嘉が口にすると、あっさり成功してしまいそうだった。
なぜ、自分は思いつかなかったのだろう。
憮然と、ため息がこぼれる。
「それが、正解か」
「戦は虚々実々の駆け引きです。オレの策が正しく見えるのなら、それは敵の心理を利用してるからっすよ」
型破りな思いつき、だけではなかった。
曹操軍の動きと、その救援を待ち焦がれる守備兵の心境。
そうした情報のうえに、郭嘉の策は成り立っている。
曹丕は思い返す。
荀攸もそうだった。
敵軍の編成から、表に出るはずのない命令を読みとっていた。
そうでもなければ、猪突の顔良が動かないことを計算にいれた策なんて、立てられるはずもない。
いいかげんに見える郭嘉も。
ぼんやりして見える荀攸も。
人が見逃してしまいそうな些細な情報に、黄金の価値を見出して、策を編んでいるのだ。
「で、ホントはもっと訊きたいことがあるんでしょう?」
郭嘉の指摘に、曹丕は一瞬口ごもって、
「……あ、いや。手柄を立てるにはどうしたらいいかな、って」
「今回は、やめといたほうがいいっすよ」
「どうして?」
「顔良を討ったあと、掃討戦にうつる時間がないからです。
逃げる敵を追いかけまわすより、白馬の住民を避難させないと。
民を守りながら退く、ってのは大変ですよ。欲をかく場面じゃありません」
「せっかく虎豹騎に選ばれたのに」
「袁紹との戦を生きのびれば、手柄のひとつやふたつは、おのずとついてくるでしょう。顔良の首なんか、狙っちゃダメですよ」
「やっぱり、ダメか」
「そういうのは、強そうな人に任せときゃいいんです。たとえば――」
郭嘉は、なにやらひらめいた顔をして、曹丕をあるところへつれていった。
「――というわけで、こたびの戦は顔良を討ちとれるかどうかが焦点になりそうだ。いや、誰が顔良を討ちとるか、だろうな」
と、隣を歩く大男に語るのは張遼、あざなは文遠。白馬にむかう騎兵五千のうち、千を率いる驍勇の将であった。
「曹公の恩には報いねばならん。胡先生の期待にもこたえねばならん。顔良の首は、私がもらいうけよう」
大男――関羽はそう宣言して、大切そうに、そっと胸に手をあてた。
「なんだ、その乙女のようなしぐさは!?
雲長、おぬしまさか。戦場にまで、胡昭先生の文をもってきたのか?」
張遼がぎょっと目を剥いた。関羽はしたり顔でかえす。
「うむ。紙でよかった。携行するのが楽でいい」
「なにを考えている! 紛失したらどうするのだッ!」
大声で怒鳴ったわけではなかったが、張遼の剣幕は、周囲の兵卒たちを震えあがらせた。
関羽ほどの長身ではないが、張遼とて風格あふれる、精悍な武人である。眼光は炯々とし、声は雷鳴のようにひびくのだった。
「なくしたら大変だから、懐にいれておるのだ」
いたって平然と、関羽は懐から絹の袋を取りだすと、口ひもをほどいて手紙を見せようとする。張遼があわてて制止した。
「いや、もういい。もういいだろうに!
許都でさんざん、見せびらかしていたではないか。
あのときの、おぬしのはしゃぎっぷりときたら!
思い出しただけで、うんざりするわ!」
声と顔と身振りの全身でもって、張遼は辟易を表現してみせた。
「ははは。妬くな、文遠。おぬしも、あぶみを使っているのだ。
折を見て、礼状のひとつも出してみればよかろう。
胡先生は、われらのような叩きあげの武官も、高く評価してくれる御仁だぞ」
関羽は髭を得意そうに揺らした。張遼は声を低めて、うなるように、
「……いっておくが、私も曹公に仕えて、まだ日が浅い。
輝かしい武勲をあげて、地位を確立したいところだ。
顔良の首をゆずるつもりはないぞ」
それは、まさしく挑戦状であった。
関羽の赤ら顔に浮かんでいた笑みが、いっそう深くなった。
「競争か、おもしろい。わが大刀でもって、顔良の首と胴とを断ち切ってくれる」
「なんのなんの。顔良を串刺しにするのは、わが槍よ」
五千の兵で一万の兵と戦おうというのに、関羽と張遼に悲壮の色は一切ない。
彼らは前線に立ちつづけてきた経験豊富な指揮官であり、騎兵という兵科の利点と欠点をしっかり心得ていた。
運用は、むずかしい。
維持するのに金も手間もかかるうえに、力を発揮する場もかぎられる。
だが、いくつかの条件がそろえば、倍はおろか、十倍の敵ですら崩しうるのが騎兵である。
白馬ではその条件がそろうだろう。顔良軍をおそれる必要はなかった。
敵将を、どのように討ちとるか。
なんとも威勢のいい会話であった。
兵たちの士気を鼓吹してまわる、これが彼らなりの流儀なのだろう。
豪傑ふたりが歩み去ると、天幕の陰にひそんでいた人影がこちらもふたり、ゆるりと動きだす。
「どうです? ちょうど顔良の首を話題にしてたんで、聞き耳を立ててみましたけど。自信満々でしょう」
「……ああ」
郭嘉の言葉に、曹丕はうなずいて、眉根を寄せる。
「ところで、なんで孔明先生の名が出てくるんだ?」
さて? と、郭嘉は首をかしげた。
「まあ、手柄がほしい人は、いっぱいいるってことです。彼らを出し抜いて、大将首をとれると思いますか?」
「…………」
「顔良だって、あんな感じっすよ。曹丕さまなんか、返り討ちにあっちゃうと思いますがね」
「…………」
無言のまま、曹丕は肩をすくめた。
いさぎよく降参したのであった。
なにも、一騎打ちをいどもう、などと無謀な考えをもっていたのではなかった。
武芸と、戦場での武勇が異なることぐらい、百も承知している。
ただ、曹丕にだって配下がいる。
自身とあわせて十一騎の精鋭騎兵が手駒だと思えば、まったくの無力ではない。
やりようによっては……、とほんの少し、期待しただけだったのだ。
しかしながら、張遼と関羽の意気ごみを見てしまうと、かすかな可能性すら残してくれそうもなかった。
「ああいった個人の武勇ってのも、怖いもんですよ。顔良だって、そう使ってやりゃあ、いいものを……」
「袁紹軍には、将がいないのか?」
曹丕の率直すぎる質問に、郭嘉は含み笑いを浮かべる。
「いないわけじゃないんですけどね。ただ……」
「ただ?」
「顔良の出身地を知ってます?」
「いや」
「徐州の琅邪なんです。冀州じゃないんですよ」
郭嘉の眸に、皮肉の光がおどる。あきれるというには、するどすぎる眼差しだった。
「袁紹が河北を平定できたのは、冀州閥のおかげでしょうに。
それなのに、彼らに功績を立てさせないようなやりかたで、天下を望もうだなんて。甘すぎるんですよ、袁紹は」
張遼と関羽を自信満々と評していたが、天下統一にもっとも近い男をこきおろす郭嘉の自信も、なかなかどうして生半可ではないようだった。
曹丕はそう見てとったが、口にはしなかった。
張遼、関羽、そして郭嘉。彼らの自信に、あてられたのかもしれない。
だが、それよりなにより。彼らに軽口を叩くのは、実績をともなってからにすべきであった。




