第二六話 関羽の礼状
鄴において、董承一派処刑の報をもっとも早く知ったのは、おそらく郭図であったろう。彼は間者の報告を聞いて、策が完全な成功にいたらなかったことを知った。
さりとて、失敗というわけでもない。成功が曹操の死であったなら、失敗は袁紹の関与が明るみに出ることである。
郭図にとって満足とはいえぬ結果であったが、包み隠さずすべてを報告すると、袁紹は手放しの讃辞でむかえた。
「すばらしい。すばらしい成果だ。郭図よ、おぬしの策は見事であったぞ」
「曹操の命は奪えませなんだ」
「よい。董承も、私の敵であることに変わりはない」
「しかし、最大の敵は曹操でありましょう」
「だが、私にとっては、これが最善の結果だ」
命を落としたのが董承たちではなく曹操であったなら、袁紹は労せずして天下を取れただろう。
だがそのあとには、董承たち朝臣との権力争いが待っている。彼らを排除するとなれば、少なからず汚名はかぶらねばならない。
「逆賊の汚名は、曹操が引きうけてくれた。よくやった」
袁紹は、満足げに郭図の労をねぎらった。
董承たちが処刑されて、帝は頼みとする忠臣を失った。
これで、曹操を倒したあかつきには、抵抗する力を失った丸腰の帝が手に入る。
天子ですら歯向かうことのできない、絶対的な権力を手に入れる好機が、ついにおとずれたのであった。
「機は熟した」
河北の覇者は重い腰をあげると、出陣の準備を急ぐよう、すぐさま全軍に命じた。
「南下せよ! 逆賊曹操を、君側の奸を討つ!!」
使い古された大義名分は、陳腐であるがゆえにわかりやすい。
袁紹の言葉は、またたくまに将兵ひとりひとりの心に広がっていった。
これに頑として反対した者がいる。田豊であった。
「大義を得たところで、戦局が変わったわけではありませぬ!」
この諌言に、袁紹はみるみるうちに不機嫌になり、士気を乱したとして、田豊は投獄されてしまった。
冀州一の知者は、己の不遇を嘆くよりも、怒りを発散させることを選んだ。
牢の床を主君に見立てて、憎々しげに踏みつけたのであった。
「……反対すればこうなると、おぬしなら予想できただろうに」
牢の外から、あきれたような声がかかった。
面会にきたのは袁紹軍の支柱、沮授である。
田豊は彼をじろりとねめつけて、
「ふん。そうはいっても、おぬしとて本心では、出兵に反対なのだろう?」
「そうだな。だが私は、曹操相手の戦は大義がない、として反対してきた。大義を得てしまったからには反対できん。……前言をひるがえして反対したところで、誰もついてはこないだろうよ」
沮授は自嘲するように唇をゆがめた。
「大義か。都合がよすぎるな……」
といって、田豊は思慮ありげに髭をなでると、結論を出す。
「郭図か」
「おそらくはな。上手くやったものだ」
沮授が舌打ちをして、同意した。
袁紹が郭図と密談をかさねていたのは、これが目的だったのだ。
許都を揺るがした郭図の手腕は、田豊と沮授をうならせた。
彼らが同じようにやろうとしても、こう上手くはいかない。許都に地縁がない彼らでは、お粗末な連絡網しか構築できず、曹操の監視に引っかかっていたにちがいなかった。
「だが、大義を得たのなら、それこそ劉表が長沙の反乱を鎮めるまで待つべきなのだ。さすれば、かならずや劉表は動いたであろう」
田豊の主張は正論であった。
せっかく手にした大義を、なぜ活用しないのか。
大義をもとめたであろう袁紹に、郭図が応えてみせた。
そこで策が終わってしまったのが、田豊と沮授にはもどかしくてならない。
冀州きっての切れ者であるこのふたりには、郭図の策が天下を確約する一手になりえたことと、仕上がりを欠いていることが見えてしまったのである。
沮授は苦々しげに毒づいた。
「郭図め。主君の勘気に触れるのをおそれたか。待ちの手を打てば、より効果があることぐらい、あの男ならわかっていように」
田豊はさらに辛辣だった。
「ふん、郭図どのは忠臣であらせられる。主君の意に反した手など、はなから打つつもりはなかったであろうよ。……あの狗めが!」
こみあげてくる口惜しさのあまり、彼らは歯を食いしばらずにはいられなかった。
袁紹が大義を掲げ、各地の群雄がそれに呼応して、曹操を包囲する。
千里の外からなる壮大な包囲網が、ようやく絵空事ではなくなろうとしていただけに、性急な開戦が残念でならなかった。
沮授はため息をついて、頭をふった。
「いまさらいっても詮ないことだ。正面から曹操に勝つ。もはやそれ以外に道はあるまい」
建安五年の二月、満をじして、袁紹軍は南下をはじめた。
河北四州から動員された、総計十一万にも達する大軍勢である。
その行進はどこまでもつづき、まるで河水の流れのように、あらゆるものを呑みこむかと思われた。
*****
とうとう袁紹軍が動きだしたらしい。
いまごろ許都は、その対応で、てんやわんやになっているだろう。
天下分け目の一大決戦がはじまろうとしているのだが、洛陽の南に位置する陸渾に戦火がおよぶ予定はないので、心配はご無用である。
私はのんびりと、さとうきびから砂糖を作ろうとして……断念していた。
いちおう黒糖みたいなものはできたのだが、とにかく労力が尋常ではない。燃料だってかかるし、苦みや雑味があって、味もイマイチ。となったところで、やる気がキレイさっぱりなくなってしまった。
やはり、さとうきび畑を作って大量の人員をあてるといった、大規模な形でなければ現実的な話ではないのだろう。
いつか曹操軍に頼むとしよう。けど、南方じゃないと、さとうきびはとれないしなあ。
そんなある日、忙しいであろう許都から手紙がとどいた。
「たしかに、おとどけしましたよ。それでは!」
と、郵人が元気に走り去っていく。
手紙は二通あった。私あてと、司馬懿あてである。
ちょうど私の家にいたので、司馬懿もここで手紙を受けとったのだ。
差出人は、司馬懿の手紙が曹丕からで、私の手紙は……関羽からだった。
えっ、なんで関羽?
驚きはしたが、司馬懿がいる手前「げえっ、関羽!?」というのはやめておく。誰もいなかったら、いってたと思う。
「先生は、関羽と面識がおありなのですか?」
「いや……」
私が首をかしげると、司馬懿のまなじりが瞬時につりあがった。
これは、あれです。
関羽のことを「面識も紹介もないのに手紙を送りつけてくるとは、無礼なやつめ!」と思ってる顔です。
この時代はけっこうな階級社会、差別社会でありまして、そうした風潮のひとつに、文人が武人を見くだすという悪習があります。
民衆に対しては思いやりのある司馬懿でも、そうした悪弊から、完全に自由ではいられないのでしょう。
司馬懿は、私の手にある手紙を、眉をひそめてにらんでいる。
「ふむ」
私も司馬懿のもつ手紙を見る。しばし思案して、提案する。
「……書斎にいくか?」
「はい」
なんとなく、いっしょに見てみよう、という雰囲気だったのだ。
曹丕の手紙にどんなことが書かれているのか、ちょっと気になったし。
司馬懿は司馬懿で、関羽の手紙が気になるようですし。
なんとなくだけど、そんな空気だったのだ。
書斎に入り、肘掛け付きの椅子にすわって、机に関羽と曹丕の書簡を並べる。
こうした椅子文化は異民族から伝わったもので、まだこの国ではそれほど広まっていない。ただ、私が愛用しているのを見て、司馬懿や荀彧も椅子を使うようになっている。荀彧の真似をする人は多いから、そのうち広まっていくだろう。
「さて。……では、関羽の書簡から見てみるか」
「はい」
横に立つ司馬懿に語りかけ、私は手紙の封を切った。
え~と、なになに、
『私は司隸河東郡解県出身の関羽、字を雲長と申します。
若き日より義兵に身を投じて、世にはびこる賊を平定せんがため、戦って参りました。
武運つたなく戦に敗れ、いまは曹司空の客将として、許都に滞在しております。
曹司空には厚く遇していただき、過分にも数多くの賜り物をさずかりました。
ですが、私はいずれ主君・劉備のもとにもどる身です。受けとるわけにはいかないと思い、それらの賜り物には封をしております。
そのなかで、たったひとつの例外が、胡先生の発明されたあぶみであります。
このあぶみがあれば、主君が千里先にいようとも、たちまち駆けつけることができるでしょう。
曹司空から、真紅のあぶみを頂戴したときの、私の感激はひとしおでした。
ぜひとも胡先生にお礼状をしたためねば、と思い、こうして筆をとることに――――』
「ふむ……」
以下つづいているが、まあ、それはともかく。
どこかで聞いたような話である。
人材コレクター曹操は関羽を気に入って、配下にしようとあれこれ贈り物をするのだが、劉備への忠義をつらぬく関羽は、それに封をして受けとろうとしない。
そんな関羽でも、名馬・赤兎だけはよろこんで受けとった。これは、と曹操は一瞬期待するが、関羽が名馬を受けとったのは、劉備のもとに行くためであった。という、関羽の忠義をあらわすエピソードだ。
……赤兎馬はどこいった?
いや、関羽が赤兎馬に乗るのは、三国志演義での創作か。
「なるほど、お礼状でしたか。律儀な人物です」
と、司馬懿の様子から険がなくなった。
「ときに訊ねるが、関羽とはどのような人物であろう?」
ふと思いついて、私は訊いた。
前世の知識がたしかならば、関羽は士大夫にきびしく部下に寛容な人物、対して、張飛は士大夫に媚びて部下にきびしい人物であったはずだ。
手紙からはそんな印象は受けないが、実際どうなんだろう。
「関羽ですか……。義理を重んじる人柄で、その武勇は一万の兵に匹敵するとか。風貌は長身で、髭が長い、と聞いております」
「ふむ……」
私の耳に入ってくる噂とたいして変わらない。
司馬懿なら私の知らない情報を知っているかもしれない、と思ったのだが、とくに名士を嫌悪している、という話はないようだ。
「では、次は曹丕の書簡を見てみるとしよう」
「……はい」
私は曹丕の手紙を開封する。
『仲達どの、いかがおすごしですか。
あなたのことだから、天下の争乱にもわれ関せずと、学問に勤しんでいるのではないでしょうか。
山紫水明な陸渾の風景は、じゃむをひとさじ舐めるたびに、昨日のことのようにくっきりと思い出されます。
春になって、緑はいきいきと色づいていることでしょう。
風があたたかくなってきました。
しかし白馬城を思うと、私の心には寒風が吹きすさびます。
ああ、袁紹軍に包囲されている白馬の人々は、どのような気持ちですごしているのでしょうか。
彼らの身は震え、心は凍えているにちがいありません。
弹棋(おはじき)をしていても、気はそぞろで楽しむことはできません。
一刻も早く出陣せねばと、心ばかりが北へと飛んでいきます――――』
!!?!
た、ただの手紙なのに、そこはかとなく詩才がにじみ出ておられる。
父・曹操、弟・曹植と並んで、詩の名手となる片鱗がこんなところで!?
「…………ふぅ」
最後まで読んで、思わずため息がもれた。
……まだ、中学生ぐらいなのに。
やっぱりこういうのは、もって生まれた才能なのだろうか。
司馬懿も無言だったのだが、やがて、うめくように、
「先生は……曹丕を弟子にしたいとお思いですか?」
なんでやねんッ!
曹丕を弟子にするなんて、厄介ごと以外のなにものでもないでしょうがッ!
「……天才はいます。悔しいですが」
と、司馬懿は声をしぼりだした。見ていて気の毒になるほどの意気消沈ぶりである。
「……うむ」
「残念ですが、私に詩文の才能はありません。それはわかっているのです」
「……うむ」
それは私もわかっていた。司馬懿の詩はなんというか……報告書っぽい。
「仲達、たしかに、おぬしに詩才はない」
「はい……」
「だがそれは、おぬしが感性の人ではなく、理性の人であるからだ」
「…………」
「鳥を見あげて空に思いをはせるのを感性とするなら、鳥が地上を見おろすように全体を把握するのが理性といえる。
常に理性的な判断を優先しようとする、おぬしの資質は得がたいものだ。
常人が得ようとしても、身につくものではない」
「……はい」
「司馬仲達のその資質は、いずれ多くの民を救うであろう。私はそう期待している。そう、大いに期待しているのだ。……それと、私が権力と距離をおいているのは、おぬしも知っていよう。曹丕を弟子にするなど、ありえんよ」
私が断言すると、司馬懿は安堵したのか、ほっと息をついて表情をやわらげた。
いや、まさか。
曹丕の才能を、司馬懿が羨んでる?
いやいや、逆でしょう。
私が曹丕だったら、「ふざけんな! おまえの頭をよこせ!」といいたいところですよ。
その日の夜、私は関羽に返事を書くため、筆をとった。
現時点で名士を嫌っているわけではなさそうだが、気をつけるにこしたことはない。
こういうときは、褒めるにかぎる。
いつも褒めてるような気がする。
いいんです、これが私の処世術なんです。
関羽よ。見せてやろう! ベテラン媚びへつらーの力をな!
「ええ~と。関将軍の武名は天下にひびき、と……」
髭自慢だから、外見も褒めときましょう。
「火徳の漢王朝の色である赤いあぶみに足をかけ、長い髭をなびかせて戦場をかける姿に、人々は赤龍の化身を見るでしょう。と」
こんな感じで、よいのではないでしょうか。
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で、どうやら、よろしかったようで。
この件以来、私と関羽は、手紙のやりとりをするようになるのだった。
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建安5年(200年)、小沛の劉備が曹操に敗れて袁紹のもとに逃走すると、下邳に孤立した関羽はやむなく曹操に降伏した。
曹操は関羽の義勇を高く評価して、偏将軍に任命するなど厚遇したという。
さらに曹操は様々な贈り物をして、関羽の心を得ようとしたが、関羽は劉備への忠節をまげず、それらに封印をして手をつけなかった。
唯一、赤い鐙を与えられたときだけは、「この赤鐙があれば、離れ離れになっている主君の元にも、容易く駆けつけることができるでしょう」として、これを受けとり、喜んだという。
関羽 wiikiより一部抜粋
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