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第二五話 劉備討伐


 年が明けて、建安五年は、いつにもまして波乱の幕開けとなった。


 一月九日、司空曹操の暗殺をくわだてたとして、董承たちが処刑されたのだ。

 うん、知ってた。


「この計画への参画が発覚した劉備を討伐するため、曹操みずから出陣するもようです」


 と、例によって例のごとく、耳の早い司馬懿が知らせてくれる。


 九月に徐州で独立した劉備は、曹操が差しむけた討伐隊を次々と撃破して、いまだ健在である。


 いつもの曹操なら部下に任せず、とっくに自分で討伐にのりだしていただろう。

 そうしなかったのは、官渡へおもむき、城塞建築の音頭をとっていたからだった。


 だが、暗殺計画に関与していたとなると、もう劉備を野放しにはできない。

 これ以上は、曹操の沽券こけんにかかわる。


「袁紹の関与は、取りざたされておらぬか」


「はい。証拠をつかめなかったのでしょう」


 むむむ。袁紹側にも智謀の士は多いだけに、尻尾はつかませなかったか。


 暗殺を未然にふせいだ時点で及第点ではあるのだろうけど、荀彧は悔しく思っているにちがいない。


「……それと、曹丕からふみがとどきまして」


「ほう?」


 ほほう。司馬懿と曹丕に手紙のやりとりがあるとは、よい傾向。


 なにせ、曹丕は魏の皇帝になる人物だ。

 なかよくしてれば、司馬懿のスピード出世は約束されたようなものでしょう。


「曹丕は、『劉備討伐に参加できそうもない。虎豹騎は許都で留守番みたいだ』と、ぼやいておりました」


「となると、虎豹騎の初陣は、やはり袁紹との戦になるな……」


 曹操は官渡までさがって籠城戦を主体に戦うつもりだが、袁紹軍の侵攻に対して、無抵抗でさがるわけにはいかない。


 領地を守ろうとするそぶりを見せなければ、その地にゆかりのある部下の忠誠はがた落ちだ。部下の寝返りが連鎖でもしたら、目も当てられない。


 戦おうとせずにさがってばかりでは、兵の士気だってもたないだろう。


 有利なポイントで局地的な勝利を積み重ねつつ、戦線をさげていく。それが理想的な退きかたといえる。


 とくに重要なのは、戦の流れに大きな影響を与えるであろう、緒戦だ。


 史実では、官渡の戦いの緒戦である白馬の戦いにおいて、曹操の客将となっていた関羽が、袁紹軍の猛将顔良を討ちとっている。この戦果は、曹操軍を大いに盛りあげたはずだ。


 虎の子の虎豹騎を実戦投入するなら、白馬の地だろう。


 兵法にけた曹操は、機を逃さないはずだ。


 そうそう(おやじギャグ)、兵法といえば、司馬懿に見せとかなきゃいけないものがあった。


「仲達、私の書斎に『孫子』と『呉子』がある。それに目を通しておきなさい」


「孫呉の兵法書ですか?」


 司馬懿が首をかしげた。


 孫子と呉子は孫呉の兵法書と呼ばれ、もっとも代表的な兵法書とされている。

 私だって何度も読んだことはあるし、司馬懿だったら丸々暗記しているだろう。


 いまさら、と思うのも当然だが、


「張繍の軍師だった賈詡カクを知っているな?」


「はい。あの曹操を、さんざん翻弄した人物ですから」


「その賈詡が注釈した孫呉の兵法書を、写したものだ」


 賈詡は三国志を代表する名軍師のひとりだ。

 きっと、司馬懿にも得るものがあるだろう。


「……っ!? ありがとう存じます」


 司馬懿はかしこまって、謝意をあらわした。


 司馬懿に兵法を教えるなんてこと、私にはとてもできない。

 だったら、人を頼ればいいのです。


 賈詡先生、お願いしやす!!


 私にその写本を送ってくれたのは、荀彧である。


 昨年の十一月、張繍は賈詡の進言にしたがって、曹操に降伏していた。

 その後、荀彧が賈詡と親交をもち、彼の注釈した兵法書を手にいれて、写本を送ってくれたのだった。


 戦は矛をまじえる前からはじまっている。

 袁紹と同様に。いや、それ以上に、曹操だっていろいろ動いているのだ。


 袁紹が朝廷で反曹操の動きを煽っているあいだに、官渡に城を築き、張繍を帰順せしめ、今度は劉備の討伐にのりだす。


 一ターン三回行動してくるラスボスもかくや。

 曹操の行動力はすさまじい。


 荀彧が舌を巻くのも、わかる気がする。

 チートに片足を突っこんでますわ。




 *****




 曹操親征に反対する声は少なくなかった。


「われわれの主敵は北の袁紹である。劉備討伐に動いた隙に、袁紹軍が南下してきたらどうするのだ」


 こうした諸将の声を、曹操は一笑に付した。


「部下に任せて失敗したのだ。余がいくしかあるまい」


 主君の気勢に賛同したのは、郭嘉や荀攸であった。


「なに、袁紹軍は大軍であるがゆえに、行軍速度が遅いんですよ。袁紹が河水を渡る前に、ささっと劉備を片づけちゃいましょう」


「……劉備の軍勢は、いまや二万に達しているとも聞きます。袁紹と対峙しながら、これを片手間に相手取るのはむずかしい。まず、劉備こそ討つべきかと」


 頼もしい幕僚たちの見解は、曹操の思惑と一致していた。

 こうして、曹操は三万を超える軍勢を率いて、徐州にむかったのである。


 この戦は劉備だけでなく、時間との戦いでもあるのだった。




 劉備の居城・小沛ショウハイを目前としたとき、曹操のもとに先陣から報告がとどいた。


「劉備軍が城から打って出ました」


 曹操がもっともおそれていたのは、劉備が城にこもり、時間ばかりが経過していくことであったから、この報告は朗報であった。


「劉備め。野戦で余に敵うとでも思っているのか」


 しかし、曹操の声はほろ苦い。状況はよくなったものの、劉備にあなどられたと感じて、矜持きょうじを少しばかり傷つけられたようであった。


「……小沛は守りにくい城です」


「うむ」


 なぐさめるかのような荀攸の言に、曹操はうなずいた。


 気をとりなおした曹操は、一刻も早く先陣の救援にむかうべきだと進言する部下に、ゆっくり首を振る。


「先陣を率いるのは曹仁ソウジンだ。郭嘉もつけてある。あわてる必要はない」


 一族の曹仁は、曹操軍屈指の名将である。

 郭嘉がいれば、詭計に惑わされる心配もない。


 劉備軍は二万に達したというが、それは徐州各地に散らばっている兵を合わせた総数である。


 小沛にいるのは、おおよそ一万二千といったところだ。その大半は新兵弱卒であって、おそれるほどのものではなかった。


 劉備軍にも、中核となる戦歴の長い将兵はいる。しかし、その数、千から二千とみられる彼らもまた、徐州各地に分散している。


 その代表例が、関羽である。


 劉備につきしたがう豪傑、関羽と張飛の武名は広く知られているが、このうち小沛にいるのは張飛だけであり、関羽は下邳カヒの守りについていた。


「前線は崩れぬ! 予定通り行軍せよ!」


 と曹操は号を発した。さらに、


「隊列を乱すな! 劉備のことだ、兵を伏せているかもしれんぞ!」


 曹操の予言は当たった。


 本陣めがけて、張飛が奇襲をかけてきたのである。

 これあるを予期していた曹操軍の反撃は、苛烈をきわめた。


 とりわけすさまじかったのが、かつて呂布の旗下にいた張遼チョウリョウという武将である。

 張遼が指揮する騎兵隊は、張飛隊の横っ腹に突撃して、穿うがちぬかんばかりの勢いでこれを食い破った。


 いかに張飛が万夫不当の豪傑であろうと、曹操にたどり着けねば大勢は変えられない。


 劉備の片腕を撃破した曹操が前線に到着したころ、すでに戦は終わろうとしていた。曹仁の攻勢のまえに、劉備本隊もあっけなく潰走をはじめていたのであった。




「劉備は、現状を正確に認識していた」


 小沛の城壁に立ち、夕暮れの空をながめながら、曹操はいましがた破った敵をそう評した。


 投降した小沛の兵の話によると、曹操が派遣した将を撃破したとき、「おまえらごときに、この劉備の首が取れるものか! 私を倒したければ、曹操みずから来るがいい!」と、劉備は得意満面で豪語していたそうだ。


 その言葉には、そこらの将には負けぬという強気と、曹操には抗しきれぬという弱気が混在していた。


「やつは……負けたあとのことを考えて、打って出たのだ」


「……逃げるため、ですか」


 無表情に、淡々と、荀攸はあいづちを打った。


「うむ。籠城して包囲されてしまえば、脱出するのは容易ではないからな」


 野戦であれば、総大将の劉備は後方で指揮を執ることになる。戦場の全容を見ながら、敗色が濃くなったとみれば、すぐさま逃走すればよい。


「道理でもろかったはずだ。もとより、やつには必勝の覚悟などなかったのだ」


 脱兎のごとく逃げた劉備を、曹操軍は捕捉できなかった。


 部下を見捨て、小沛に妻子を残しての逃亡である。その不甲斐なさを嘲笑する者もいよう。


 だが、曹操の声にあるのは侮蔑ではなく、感嘆のひびきであった。


「笑いたい者には、笑わせておけばいい。戦い、生きのびることが、どれほど困難な世か。劉備は身をもって知っているのだろう」


 そこへ郭嘉がやってきて、おどけた調子で、


「おや、下邳を落とす算段っすか?」


「いや……」


 曹操は、しばし逡巡してから、


「関羽には降伏をうながすつもりだ」


「たしかに。それが一番早くて、被害が少ないっすね」


 と郭嘉はうなずいた。


「郭嘉、おまえは劉備を警戒していたな。……関羽はかまわんのか?」


「どうせ、反対したところで、気持ちは変わらないんでしょ?」


「まあな」


 曹操は小さく笑った。


「そうっすねえ。……劉備は人の下につく男ではない、って判断しただけなんで」


「そうか。……では、孫策はどう思う?」


 江東で雄飛する若者の名を、曹操はあげた。

 郭嘉は肩をすくめて、


「さて、会ったこともありませんし」


「……孫策が気になりますか?」


 荀攸が問いかけると、曹操は、


「うむ。現状はゆるやかではあるが、同盟関係にあるといってもいい。だが……」


 曹操は、息子に孫家の娘をめとらせ、一族の娘を孫家に嫁がせていた。

 孫策との関係は、良好といえる。


 盤面は悪くなかった。


 関中の馬騰とは、鍾繇を介して交渉している。袁紹との戦がはじまれば馬を供してもらう、と約を交わしてあった。どちらかといえば、曹操側とみてよい。


 南陽の張繍は、曹操に帰順した。


 荊州の劉表は、袁紹と同盟関係にある。しかし、荊州南部の長沙チョウサ太守が反乱を起こしており、外征をする余裕はない。劉表軍は豪族の力が強く、地元の乱を無視して曹操と戦うことなどできないのだ。もちろん、この反乱には、曹操も裏から協力している。


 そして、劉備勢力は消えようとしている。


 これで、袁紹との戦に専念できるはずだ。


 だがそれも、孫策の気質に左右される。

 もし、劉備と同じく、誰の下風かふうにも立たない気概の持ち主だとしたら……。


 婚姻関係など無視して、曹操に牙をむくかもしれない。

 そうなれば、劉備の反乱どころの騒ぎではなかった。


 荀攸が口をひらく。


「……孫策は江東の地を手にいれたばかりです。急拡大した領地を治めるのに、苦心しているようですが……」


「だが、楽観はできぬ。強引に軍を動かす力強さが、孫策にはある。いざとなれば、領内の混沌など無視するであろう」


 曹操の懸念は晴れなかった。


 脳裏に浮かぶのは面識のない孫策の姿ではなく、彼の父、孫堅の雄姿だった。


 董卓軍を倒した唯一の男。

 江東の虎は、まさに英雄と呼ぶにふさわしい男だった。


広陵コウリョウ太守の陳登チントウを支援する、ってのはどうですかね?」


 郭嘉は、星が見えはじめた東南の空を、すっと指さした。

 東南の空の下には、関羽の守る下邳があり、さらに先に広陵がある。


「むっ、陳登か……」


 郭嘉の提言をうけて、曹操は考えこむ。


 陳登は、徐州ではめずらしい親曹操派である。彼の故郷・淮浦ワイホは、曹操軍による虐殺をまぬがれており、広陵太守に任じたのが曹操であるためだった。


 また、劉備とも親しくしており、徐州の動乱においても抜け目なく力をたくわえていた。


 陳登はいま、江水コウスイ(長江)の南の地を、虎視眈々と狙っている。

 一方、そこを治める孫策も、江水の北に位置する広陵を狙っており、両者は敵対関係にあった。


「だが、陳登に兵を貸せば、それこそ孫策を敵にまわすのではないか?」


「いえ、一兵も用いません。金銭による支援で充分っす」


「なんだと?」


「孫策に領地を奪われた者、主君を殺された者。彼らは、陳登のもとに集まって、復讐の機をうかがっています。

 彼らの活動を、こっそり支援してやるんですよ。孫策は己の武勇を頼むあまり、警戒心がうすく、単独行動を好むと聞きます。いずれは、彼らの手によって……」


 口調は軽いが、郭嘉のひとみにはしる光は、刃物のようにするどかった。


「……なるほど。漢朝の司空まで、暗殺されかかる世の中だ。孫策の身になにが起きても、不思議ではあるまい」


 曹操の口元に、毒にみちた笑みが浮かんだ。




 数日後、曹操軍は大挙して下邳に押しよせた。


 幾重いくえもの包囲のなか、関羽説得の使者となったのは、かねてより関羽と親交のある張遼である。


 下邳を守る将兵と、捕らわれた劉備の妻子の安全を約束して、張遼は真摯しんしに降伏をすすめた。


 それでも渋る関羽に、劉備が北に逃走したことを告げて、


「ここで死んだところで、主君に殉じたことにはならないだろう。ただの無駄死にではないか」


「……やむをえまい。……わかった、世話をかける」


 忠義にあつい関羽も、ついに首を縦に振った。




 こうして、劉備の乱は鎮圧された。

 曹操に反旗をひるがえしてから、わずか四か月後の出来事であった。




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― 新着の感想 ―
[気になる点] 2週間が待ち遠しいよぉ [一言] カクさんがチラっと名前でましたねーどう絡んでくるか楽しみです。
[一言] 流石 劉備は劉邦の風ありと言われた群雄ですね とにかく死なないのとしぶとさは素晴らしい
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