第二四話 陳羣の教え
どこの店の品ぞろえがいいだとか、私が洛陽に出した店の調子はどうだとか。世間話をしながら西の市で買い物をすませたあと、私たちは陳羣の屋敷にむかった。
屋敷に着くや、それまでの平和な雑談は当たり前のように、殺伐とした話題に切り替わる。
きっかけは、曹丕がはなったひとことだった。
「オレ、虎豹騎に選ばれたよ」
曹丕がいうと同時に、陳羣がしずかに席を立った。
そちらをちらりと見てから、かまわずに曹丕はつづける。
「什長だってさ」
「ふむ……、什長か」
私は反応に迷った。
什長、すなわち部下が十人つくということだ。
少年の身でありながら部下がつくことを、称賛すべきなのか。
それとも、曹操の息子であるにもかかわらず、わずか十人しか部下をつけてもらえなかった、と見るべきなのか。
「そんな心配そうな顔をしないでくれよ」
私のあいまいな反応を見て、曹丕は不満そうに口を尖らせた。
「虎豹騎は、孔明先生のあぶみを配備した最精鋭部隊だ。選抜された兵も、場数を踏んだ精兵ぞろいなんだぜ。
しかも、父上が直々に指揮を執るんだ。ここが壊滅するようなら、どこの部隊にいようが関係ない。もうおしまいだろ」
なるほど、曹操は自分の目がとどく範囲に、曹丕を配属させたのか。
与える兵士の人数を増やすよりも、そのほうが安全だと判断したのだ。
これが、曹操の親心の形なのだろう。
私が納得していると、そこへ、竹簡を手にした陳羣がもどってきた。
「孔明どの、これをごらんください」
差し出された竹簡をうけとって、ひらく。
どうやら、虎豹騎を運営するうえでの取り決めというか、マニュアルのようだった。
太鼓や銅鑼の合図に応じて、前進や後退、武器や戦列の変更をおこなうよう、つぶさに決められている。
……うわっ、逃げだした味方の処刑方法まで書かれていますわ。
このマニュアル、一般には流出しちゃいけないやつなんじゃないかな。
現代に残る「孫子の兵法書」は曹操が注釈をつけたものだというし、おそらく、これも曹操自身が作成したものだろう。
だがあいにくなことに、これがどれほどすごいものなのか。ほかの部隊と比較できるわけでもない私には、にわかに判別がつかなかった。
こういうときに、私がやることは決まっていた。
軍師の助言をあおぐのである。
司馬懿に丸投げ、ポイッ! である。
「仲達」
「はっ」
打てば響くような返事をして、司馬懿は竹簡をうけとると、ささっと目を通した。
「……なるほど。精鋭と自負するのもうなずけます」
だ、そうです。
ふっふっふ。これが、師弟の阿吽の呼吸ってやつよッ!
「だろ? 父上の目の前で、手柄を立ててみせるぜ」
曹丕は自信ありげに、口の端に笑みを浮かべた。
「……将たらんとする者は、個人の武功を追いもとめるべきではない、と思うが」
と、司馬懿が少年のやる気に水を差した。
「今のオレは将じゃない。与えられた立場で全力を尽くすのは当然だろ? おまえに批判されるいわれなんてねえよ」
曹丕が半眼で司馬懿をにらみつけた。
「…………」
司馬懿はなにもいわずに、困惑顔だ。
忠告はした。理解できないならご自由に、といったふうに見える。
ふと気がつくと、若者たちのやりとりを眺める陳羣の目に、興味深そうな色が浮かんでいた。
「与えられた任に全力で取り組む。曹丕さまの心意気は壮でありましょう。ですが、功を焦って手柄に執着するより、あなたにはやらねばならないことがあります」
陳羣はおごそかに言葉を紡いだ。
「それは、本質を見極めることです」
「……本質?」
つぶやいた曹丕に、陳羣は噛んでふくめるようにいう。
「司馬懿の言葉は、批判ではなく忠言でした。美辞麗句でもって曹丕さまの武勇をたたえて追従する者もいましょうが、そうした者の発する言葉よりも、ずっと価値のある言葉だったのです」
「…………」
曹丕は渋面で、なにごとかを考えこんだ。思い当たる人物がいるのかもしれない。
「ひとつお聞きしましょう。孔明どのが、曹操さまの帰還を待たずに帰ろうとすることについて、曹丕さまはどうお考えですか?」
陳羣が訊くと、曹丕はわけがわからないといった表情で、
「そりゃあ……、なにもそんなに急いで帰らなくてもいいだろうに。
父上が帰ってくれば、献策に対する報奨金くらいはもらえるだろう。
もらえるもんは、もらっとけばいいんだ」
「では、司馬懿はどう考えているのかな?」
陳羣は、質問の矛先を司馬懿にむけた。
「先生はすでに、許都にきた目的をはたしておりますゆえ」
しずかな口調で答える司馬懿に、陳羣はうなずいた。
「そう。袁紹との戦は官渡でおこなうべし。
孔明どのは、伝えるべきことは伝えた。
曹操さまと文若どの、伝えるべき人に伝えた。
やるべきことをやり終えた。だから、帰るのです」
いえ、曹操と会いたくないからです。
「論語に、『君子は本を務む』とあります。平たくいうなら、物事の本質を見極めて、やるべきことをやりなさい、という教えです」
陳羣の言葉を聞いて、私は奇妙な不安におそわれた。
……なんだか、風向きがおかしくなってきたぞ。
私の不安を知るよしもなく、陳羣は滔々とつづける。
「金や名声、そういったものは、およそ枝葉末節にすぎません。
やるべきことをやって功を誇らず、人を助けて恩に着せることもない。
これが、君子のおこないなのです。
孔明どののおこないを見ていれば、仁者とはいかなるものか、おのずと理解できましょう」
曹丕と司馬懿は、真剣そのものの顔で深々とうなずいた。
ぐああああああああっ!
恥ずかしい! いたたまれないっ!
やめて陳羣! 顔から火が出そう!
私は表情を隠すように酒杯を口元にあてて、濁った中身を一気に飲み干した。
「君子のよい手本として、孔明どのを例にあげました。
悪い例としては、……そうですね。
いいたくはないのですが、私の事例に言及するといたしましょう」
私の心の声が聞こえたはずもないが、陳羣はさらりと話を進めた。
むむっ、うまいな。安堵と同時に感心する。
他人の成功談や自慢話なんか聞いたところで、おもしろくもなんともない。
そんなものより、失敗談や恥ずかしい話に興味をひかれるのが、人間の性というものだろう。
そこに自分の話をもってくるのが、なんだか陳羣らしいなと思う。
「郭奉孝の素行について、私がたびたび非難の声をあげていることを、曹丕さまはご存じでしょうか?」
「ああ。この前、朝廷で紛糾していたからな」
「まさしく、そこに問題があるのです。
朝廷に起訴して、公の場で糾弾する。
恥ずかしながら、私のこの行為は、仁にもとるおこないといえましょう。
奉孝の素行を注意したければ、本人にいえばよい。
罰すべきと判断したなら、曹操さまに上申すればよい。
そこまでで充分なのです。
私の行為はやりすぎであり、まちがっているのです」
「……?」
曹丕が不審そうに目をすがめた。
そらそうよ。
まちがっているとわかっていて、なぜ、朝廷に起訴したのか。
私だって疑問に思う。
「ですが、そのまちがった行動も、一見すると職務に励んでいるように見えるのでしょう。私の行動を支持して、近づいてくる者もいます。
物事の表面だけを見て、本質を見極めようとしないそのような人物を、私は信用しておりません」
ふむ。
陳羣の主張に同調して郭嘉を批判していたら、いつのまにかその陳羣に信用できない人物あつかいされていた、とな。
陳長文の役職は司空西曹掾属という人事担当官であるからして、その人たちの人事考課にも影響はあるだろう。
なんという長文の罠。
「武功のいかんにかかわらず、これから曹丕さまのそばには、多くの人が近づいてくるでしょう。
彼らの本質を、曹丕さまは心眼をひらいて、見極めていかなければならないのです。それがどれほど重要なことか。おわかりですね?」
そういいながら、陳羣はじっと曹丕の顔を見つめた。
しばらくして、曹丕はうなずいた。
「心眼をひらいて、本質を見るか。なんとなくだけど、わかったよ。
……でも、まちがっていると知っていながら、どうして朝廷に起訴なんてしたんだ?」
そんな彼の疑問をうけて、陳羣は嘆息した。
「奉孝の生活態度に問題があるのは事実です。
衆臣のなかには、彼に白い目をむける者も多いのです」
私もため息をつきそうになった。
儒教にこりかたまった人たちの目には、郭嘉は不道徳の塊に見えるだろう。批判されるのもしかたない面はある。
儒教を重んじているというのなら、荀彧や陳羣もそうなのだが、このふたりのように柔軟な思考ができる人物はあまり多くないのだ。
……そもそも、郭嘉に模範的な人物であるよう求めること自体が、無理難題というものなんですがね。
「そういった不満をほうっておけば、彼らはいずれ、奉孝を陥れようと策動するようになるでしょう。
ですが、私が先鋒に立てば、奉孝に不満をもつ者は、まず私のもとに集まってきます。
あとは、彼らの不満が悪い形で噴出せぬよう、私がとりはからっていけばよいのです」
説明する陳羣の頬には、困ったものだといわんばかりに、微苦笑が浮かんでいた。
「長文、おぬしはそうした事情を、奉孝本人には伝えていないのであろう?」
なかば確信しながら、私は訊いた。
「ええ。いうつもりはありませんよ。こんなことを知ったら、あいつはぜったい調子に乗りますから」
と、陳羣はあきれたように首を振った。
……うむ。つまり、こういうことであるな。
べ、別に郭嘉を護るためじゃないんだからね! 不品行を批判してるだけなんだからッ!
私のなかで、陳羣ツンデレ説が誕生した瞬間であった。
ツンデレ乙。




