第二三話 許都に忍び寄る謀略
建安四年九月 冀州 鄴。
いかにも頑固そうな男がふたり、屋根つきの回廊で仏頂面をつきあわせていた。
袁紹に会ってきたばかりの田豊と、袁紹に会いにいく途中の郭図である。
「郭図どの、貴殿が提唱する次席不要論は正しいのだろう」
田豊は苦々しい口調で認めた。
「臣下が力をもちすぎると、ろくな結果にならん。たしかに、沮授どのがもつ権限は巨大にすぎた」
「おお、おわかりいただけましたか」
郭図が強行した軍制改革に対して、冀州の豪族たちは一様に反発している。そうした状況であろうと、田豊は郭図の主張に理解をしめしてみせた。が、
「だが、これまで上手くいっていたことを、あえて乱す必要はない。正しさにこだわるあまり、身を滅ぼすこともあろう。貴殿のやりかた、私は気に食わんな。いや、私だけではなかろう」
結局のところ、それも批判の言葉で締めくくられた。
田豊は肩をいからせて去っていく。
そのうしろ姿を、郭図は一瞥して、
「……面とむかって、それがしに直言をぶつけてくるとは。ふふふ、田豊どのらしい」
愛想のかけらもない言葉であったが、それは批判であると同時に、郭図への反感が高まっているという、忠告でもあった。
侍臣たちのぶしつけな視線を鉄面皮ではねかえしながら、郭図は傲然と、奥の間に足を進めた。
「郭図。参上いたしました」
窓際に立っていた袁紹が振りむいた。
「うむ。さきほど、田豊がきたぞ」
「田豊どのは、なんと?」
「劉備の離反はまたとない好機。退却する曹操軍の後背をおそって、その勢いをもって許都を一気に攻め落とすべし、と」
「おおっ。冀州一の知者である田豊どのが、積極的な姿勢に転じてくれたとは。よろこばしいことですな」
祝福する郭図に、袁紹は首を横に振ってみせた。
「ところが、そうでもないのだ」
「と、おっしゃいますと?」
「私が曹操の追撃に本腰を入れないと知るや、自分は短期決戦に反対する、と田豊はいいだしてな」
「はぁ。田豊どのはなぜ、そのようなことを……」
「この機を逸したら、しばらく曹操を討つ機会はない。力を蓄えて、次の機を待つべきだ、とな」
袁紹は鼻にしわを寄せて、うんざりしたようにいった。
「曹操は詭計が得意な男です。中途半端な兵力で追撃したところで、伏兵に翻弄されるだけでございましょう」
「うむ。私もそう思う」
袁紹は大きくうなずいた。
「なに、気に病むことはありますまい。千載一遇の好機は、すぐにでも訪れましょうぞ」
郭図がそう励ますと、袁紹はくり返しうなずき、
「そう、そのとおりだ。劉備の独立を活かせぬのは残念だが、曹操の敵は、私と劉備だけではない」
南陽の張繡、
関中の韓遂と馬騰、
荊州の劉表、
そして、江東の孫策。
曹操は、周囲の勢力に頭を悩ませているだろう。
袁紹としては、その悩みの根を容易にとりのぞけぬよう、より深く張りめぐらせていけばよいのだ。ただそれだけで、かならずや好機は訪れる。
「はっ。……その件につきまして、お耳に入れたき儀がございます」
郭図の声が緊張をはらんだ。
「ほう、なんだ?」
「曹操包囲網に参加するよう、各勢力にはたらきかけておりますが。……関中軍閥の反応が、どうにもかんばしくないようでして」
「韓遂と馬騰か……」
「それが、韓遂と馬騰の力関係に変化があったらしく、馬騰が関中の代表者となっているようでございます」
馬超が一騎打ちで勝利して以降、関中では馬騰の発言力が増していた。
韓遂がその流れに逆らおうとせず、一歩身をひいたことによって、人々は、馬騰を関中の代表者とみなすようになっていたのである。
「もともと双頭体制とはいびつなものだ。長くはつづかぬと思っていたが……。ふむ、これからは馬騰との交渉に力を入れるべきであろうな」
袁紹は首をかしげたが、あまり興味をそそられなかったのか、それ以上、関中については言及しなかった。
「まあよい。本命は漢王朝の朝臣たちよ」
「はっ」
袁紹は、逆賊になるつもりはなかった。
郭図も、主君に天下を盗ませるつもりはなかった。
袁家の旗は、虜囚の天子に、歓呼とともに迎え入れられるべきなのだ。
そのためには、禁中にくすぶる曹操への不満に火をつけて、朝廷と曹操との対立を表面化させねばならない。
立ちはだかる壁は、尚書令と侍中を兼務する荀彧である。
尚書令とは、皇帝への上奏文や宮中の文書発布を管理する尚書台の長官であり、侍中とは、天子のそばにひかえる相談役である。
つまり、天子の目となり、耳となり、口となる立場に荀彧はいる。
天子の住まう禁中においてすら、彼は目を光らせていよう。
「荀彧の監視をくぐり抜けて、朝臣たちに決起をうながす。それができるのは、調略に長け、許都に多くの伝手をもつ郭図、おぬしだけだ」
ちかごろ、袁紹が郭図と密談をかさねているのは、この朝廷工作のためであった。
「御意に。かならずや許都にて、変事を起こしてごらんにいれましょう」
郭図が低頭する。袁紹は不敵に笑った。
「ふふふ。成功せずともよいのだ。失敗しても、朝廷と曹操とのあいだに横たわる亀裂が、鮮明になりさえすればな……」
*****
私と司馬懿が荀彧の屋敷に逗留して数日後、黎陽の曹操から撤退をはじめるとの連絡がとどいた。
「やれやれ。これで気苦労の種がひとつ消えたよ」
荀彧が安堵の色を浮かべて、酒杯に口をつけた。
じつは、曹操みずから出陣することに、荀彧は反対していたらしい。
なぜ、反対だったのか。
なぜ、曹操はそれでも黎陽に赴いたのか。
司馬懿が質問したのだが、
「司馬懿、君が考えているよりも。あるいは、私がそうであってほしいと願うよりも。曹操さまは、ずっと腰が軽いのだよ。それはもう、信じられないぐらいにね。……不思議と、それがいい結果につながるから、諌めるわけにもいかないのだが」
と、荀彧は直接答えようとはしなかった。
ヒントはあげるけど、あとは自分で考えるように、ということだろう。
……あれっ? なんだか私より、教育者っぽくね?
まあ、荀彧の立場になってみれば、曹操には許都にいてもらいたいだろう。
曹操が出陣してしまえば、許都で兵糧の差配などをおこなうのは、荀彧の仕事になる。けれど、仕事が増えたからといって、朝廷をコントロールする役を人に任せるわけにはいかない。
人材には格というものがあって、格的にも能力的にも、朝廷をおさえられるのは荀彧しかいないのだ。
「袁紹が攻めてくるという噂は、宮中にも伝わっていよう。朝廷にも動揺が広がっているのではないか?」
荀彧の目の下にくまを発見した私は、朝廷の様子を訊いてみた。
お疲れのようだし、必要とあらば、宮中で曹操暗殺計画が進んでいることをほのめかしてもいい。余計に忙しくなるかもしれないけど、後手にまわるよりは楽なんじゃないかな、と思う。
「ああ。動揺だけならいいのだが……」
「ふむ、……よからぬ考えをもつ者もいそうか?」
眉を曇らせる荀彧に、私はかさねて問いかけた。
「いるだろうな。……というか、董承なんだが」
おお、すでに曹操暗殺計画の主犯を割りだしている。さすが荀彧。さす荀。
助言の必要なんて、まったくありませんでした。
「車騎将軍の董承ですか……。大物ですね」
司馬懿が深刻そうにいうと、荀彧は苦笑して、
「車騎将軍となり、将軍府をひらいたことによって、自由に動かせる手駒ができた。だからこそ、悪さをくわだててしまうのであろうよ」
車騎将軍は、大将軍、驃騎将軍に次ぐ、ナンバー3の将軍位だ。
現在、驃騎将軍は空位だったはずだから、大将軍袁紹の次にえらい将軍が董承ということになる。
けれど、漢王朝には実権がないから、しょせん名前だけの将軍位だ。せっかく将軍府をひらいたところで、雇える部下なんてたかがしれている。大勢の兵士を動かせるわけではない。
……名前だけであろうと、そこまでえらくなってしまうと、実体を近づけたくなるのが人情なのかもしれない。
ちなみに、曹操は司空なので、将軍ではない。
「漢王朝に昔日の威光をとりもどす、という忠義のあらわれなら、同情の余地もあるのだがね。董承は、自分の権力欲を満たすために動いているだけだ。そんなやつの好きにはさせんよ」
荀彧は自信たっぷりにいった。
「なかなか尻尾をつかませてくれないが、裏で手を引いているであろう人物にも、きっちりやり返すさ」
顔には疲労の色が残っていても、その声は芯からの力強さを感じさせた。
このタイミングで朝廷に工作をしかけて、反曹操の動きを焚きつける。
裏で手をまわしているのが袁紹であろうことは、説明されるまでもなかった。
翌朝、私と司馬懿は、荀彧の屋敷を発った。
「もっとゆっくりしていけばいい」と引き留められはしたが、そもそも荀彧だって、宮中と官庁、官舎を行き来する日々で、あまり自宅に帰ってないようだ。長居をしては悪いだろう。
それに、曹操が帰ってくる前に、さっさと退散したほうがいい。
あの人材コレクターに遭遇してしまうと、逃げだすのも一苦労だ。
というわけで、
胡孔明はクールに去るぜ!
朝日を背に、馬の手綱を引いて、埃っぽい街路を歩く。
旧暦の九月だから、けっこう肌寒い季節なのだが、いたるところにできた人だかりの熱気が、それを感じさせなかった。
道ゆく人々のバリエーションも豊富だ。
動物の毛皮を着ているのは、匈奴だろう。
茶髪で彫りの深い顔立ちの男は大秦国、青い瞳の男は貴霜国といった、遠方からの旅人だろうか。
ありとあらゆる場所から、人が集まっているかのようだ。
都になる、とはこういうことなのだろう。
往時の洛陽のように絢爛豪華、とまではお世辞にもいえないが、活気が街全体に満ちあふれている。
「なにか土産を買っていかねばなぁ」
購買意欲を刺激されて、私はつぶやいた。
「西の市に寄っていきましょう」
司馬懿の声も、そこはかとなく楽しげに聞こえる。
のんびり会話をかわしながら歩いていると、うしろからやってきた馬車が、私たちを追い越したところで急にとまった。
なにかと思ったら、
「じゃむの人じゃねえか」
「ごぶさたしております、孔明どの」
馬車の上で、生意気そうな少年と、まじめを絵に描いたような男――曹丕と陳羣が、こちらを見て目を丸くしていた。
かくて私の許都滞在は、ほんのちょっとだけ、のびるのであった。




