第二二話 そうだ、許都、行こう
曹操が黎陽に布陣しているらしい。
その情報をもってきた司馬懿の顔に、困惑がありありと浮かんでいる。
めずらしい。軍事にかかわる話で、司馬懿がこんな表情を見せるのはめったにないことだった。
「曹操は河水の北で戦うつもりなのでしょうか?」
「……わからぬ。仲達はどう思う?」
「先生にわからぬものが、私にわかるはずもありません」
そんなことないから。絶対ないから!
「さもあらず。よく考えてみなさい。なにかしら見えてくるであろう」
私は先生っぽい顔をして、それっぽいことをいった。ついでに腕組みもしてみせる。
自分で考えるつもりはなかった。だって、まったくの無駄だもの。
それこそ、司馬懿にわからないものが、私にわかるわけないでしょうがッ!
司馬懿は眉間にしわを寄せ、あごをなでながら考えこんだ。
「曹操に、河北を切りとって維持する力はありません」
うん、兵力に差があるから無理だろう。
「目的は、敵地を侵略して荒廃させる。もしくは、民を連れ去る、といったところでしょうか。このようないやがらせは、乱世において常道といえます」
「うむ。よくあることだな」
「……ですが、そのような活動は、部下に任せればよいはずなのです」
そう、曹操みずから動く理由にはならない。
小部隊でもって電撃的におこなえば、袁紹が軍を出してきても、すみやかに逃げられる。もし捕捉されても、被害は軽微ですむ。
けれど曹操本隊だと、軍の規模が大きくなるぶん、動きが鈍くなる。最悪の場合、大河を背に撤退戦をやるはめになるだろう。
「となると、狙いはほかにあるのかもしれませんが……」
司馬懿はお手上げというふうに、首をふった。ほかに思いつかないでもないが、どれも曹操本人が動くほどの理由とは考えられない、といったところか。
「ふぅむ。まぁ、そう落ちこむことはない。曹操と袁紹の戦は、天下の覇権を決める一大決戦となるであろう。すべてを把握して理解することなど、誰にもできぬのかもしれぬぞ」
「はぁ」
「たとえばだ。当事者の曹操とて、領内の不安要素を甘く見ている節がある」
「甘く見ている……ですか」
「うむ。下邳の劉備など、いつ曹操に叛旗をひるがえしてもおかしくはないであろう。許都では、漢室の忠臣たちが、曹操を排除しようと画策しているやもしれぬ。そういった不安要素を甘く見ているから、許都をはなれていられるのだ」
「…………っ」
司馬懿はかすかに息をのんで、数瞬後、顔をしかめた。現実に起こりうる、と判断したのだろう。
このあと、徐州で劉備が反乱したり、許都で曹操暗殺計画が発覚したりする予定である。
もし、それらが起こらなかったら、どうしようか。
曹操にとっては有利な変化かもしれないが、歴史が変わったという証拠でもある。
袁紹に確実に勝とうとするなら、歴史の流れが変わるのはあまり歓迎できないような気もする。……ううむ、わからん。
しばしの沈黙のあと、司馬懿は神妙な顔で、つぶやいた。
「曹操は……勝てるのでしょうか?」
私が曹操派なのは、今さらいうにおよばないが、じつは司馬懿も曹操派だ。
いや、反袁紹派といったほうがいいか。
というのも、董卓軍と反董卓連合軍が争っていたとき、袁紹軍は司馬懿の故郷で略奪をはたらいているのだ。
反董卓連合軍は、連合軍といってもひとつの場所に集まっていたのではなく、おおまかに三方向から洛陽をめざしていた。
東の酸棗方面には、曹操がいた。
諸将が董卓軍におそれをなして動こうとしないなか、曹操は果敢に戦いをいどんだ。衆寡敵せず敗北したが、この行動によって、曹操の義心は一躍天下に知れわたった。
南の南陽方面には、孫堅がいた。
孫堅は、反董卓連合軍にとって唯一といっていい勝利をあげた。あの呂布をも打ち破っている。義挙に集った諸侯のなかで、一番活躍したのは、まちがいなく孫堅だった。
そして、北の河内方面にいた袁紹は、董卓軍に怖じ気づいて河水を渡ろうとせず、洛陽の対岸にとどまりつづけた。
そこに、司馬懿の故郷はあった。
連合軍と呼べば格好はつくが、実態は寄せ集めの烏合の衆だ。練度がひくい、統制もとれない軍隊がひとつところに長くとどまれば、やることは決まっている。
司馬懿の故郷温県は略奪、虐殺の犠牲となり、連合軍が解散したとき、民は半数になっていたという。
「いずれにせよ、黎陽で本格的な戦になっては、曹操に勝ち目はないであろう」
「はい……」
私の言葉に、司馬懿はうなずいた。
やはり、ほかの要素がどうなるかはともかく、戦場は官渡であるべきだ。
私は心に決めた。
そうだ、許都へ行こう。
尚書令と侍中という官職についている荀彧は、朝廷をとりしきるのが仕事だから、従軍せず許都に残っている。
「黎陽ではなく、官渡で戦ったほうがいいんじゃないかな~」と荀彧に伝えれば、戦場を官渡にうつせるかもしれない。
*****
郭嘉は、夜闇に包まれた陣中を、あくびしながら歩いていた。
真夜中だというのに、本営に呼び出されたのである。
「おっ」
前方に見知った人影を発見して、足を早める。
「公達先輩」
呼びかけられたその人影、荀攸は立ちどまって、振りむいた。
「……奉孝か」
「先輩も呼び出されたんすか?」
「…………」
荀攸はぼんやりとうなずいた。
ふたりはつれだって本営にむかった。
先輩という呼びかたからわかるように――といっても郭嘉が先輩と呼ぶのは孔明、荀彧、荀攸の三人だけなのだが――荀攸も出身地は潁川であった。
字は公達といい、荀彧にとっては年上の甥にあたる。
あえて世代でわけるならば、鍾繇、郭図と同世代で、とりわけ鍾繇とは親しくしていた。
容貌はごく凡庸で、ひかえめな性格ゆえにあまり目立たず、そのおとなしさから臆病者とあなどられることもある。が、勘違いもはなはだしい。
荀攸は董卓暗殺をはかった気骨の士であり、計画が露見して投獄され、死刑を宣告されようとも、獄中で平然と食事をたいらげていた胆力の持ち主である。
他愛のない話を、郭嘉が一方的にしつつ、彼らは本営の天幕に入る。
「おお、きたか」
と、天幕のなかで待ちかまえていた曹操が、胡床から立ちあがって、
「許都の荀彧から、急使がきたぞ」
「へえ。どんな知らせっすか?」
郭嘉が問いかけると、曹操は眉間にしわを寄せる。
「いい知らせと悪い知らせ、両方ある。まずは、悪い知らせからだ。
……劉備が叛旗をひるがえした」
「……だからいったじゃないっすか。劉備は危険だって」
「…………」
郭嘉が口をとがらせ、それに同意するように荀攸が短くうなずいた。
「むっ、すまん」
曹操は頭をかいて謝った。そして、残念そうにため息をつく。
「城をあずけて、漢王朝の左将軍位もくれてやった。余は、劉備を引き立てたつもりだったのだがな……」
「曹操さまが許都をはなれて北へ軍を進めたのを、好機と見たんでしょうねぇ。袁紹と戦になれば、劉備をかまっている余裕なんてありませんから。機を見るに敏な男っすよ、劉備は」
「ふん。だが、あやつは機を見誤った。われわれは戦をするために、この黎陽まできたわけではない」
「まあ、本隊が渡河しちゃってますし、戦になると判断するのも、当然っちゃ当然なんすけどね」
曹操は、戦ではなく、ある目的をもって黎陽に布陣していた。
本来なら、部下に任せるような仕事だったが、より高い効果を見こんで、みずから動くことを選んだのだ。
結果として、後方をがら空きにして劉備の反乱をまねいてしまったのだから、軽挙のそしりはまぬがれない。
しかし、それも考えようである。袁紹と戦をしている真っ只中に裏切られるよりは、いくぶんましであった。
「どうだ、荀攸? 当初の目的は達した、と余は思うのだが」
「……はっ、もう充分でございます」
「よし、ずらかるか。袁紹の追撃には、どう対処する?」
「……おそれる必要はありませぬ」
荀攸が断言した。郭嘉も肩をすくめて、
「どーせ、われわれはこの地から撤退するんです。大軍を動かす必要はない、と袁紹は思うでしょうよ。
曹家の軍勢を追い払ったという成果が同じなら、少ない兵力でおこなったほうが見栄えがいいっしょ?」
「くっくっく。見栄えがいい、か」
曹操は、思い出にひたるように笑った。
名家出身で裕福な育ちの袁紹は、派手な服装を好んだ。
しかし、許子将と会うときは、つつましい服装に着替えていた。
高名な人物批評家に酷評されるのをおそれたのである。
「そうだな、袁紹はそういう男だった。
それに、余の首がほしければ、全軍を動員して、南下しなければならぬことぐらいわかっていよう。まだ準備不足だ、と判断するであろうよ」
袁紹軍の兵力は十万をゆうに超える。
これだけの規模の軍勢を動かすとなると、準備も大がかりになる。
武器を修繕し、河水を渡るための船舶を増産して、なにより兵糧を集めなければならない。
全軍が、今すぐ動けるわけではないのだ。
準備が不十分なまま、劉備と連携するか。
万全の態勢を整えてから、河水を渡るか。
後者を選ぶのが、袁紹の為人であった。
「準備を入念にするのはよい。いかに強大な軍勢を誇ろうと、物資がなければ動かせんからな。……もっとも、余であれば全力で追撃して、劉備と連携をとるが」
曹操と袁紹の決定的なちがいは、この行動力の差にあった。
袁紹が易京の城をひとつ落とすのに五年かけているあいだ、曹操は四方を敵に囲まれ、常に戦場を飛びまわっていた。
準備をする時間も、戦力を分散させる余力もなかった。
曹操は前線に立って、目の前の敵に全力でぶつかりつづけた。
もちろん、なにもかもが上手くいったわけではない。
留守にした本拠地を、呂布に乗っ取られたことすらあった。
それでも、曹操は動きつづけて、戦いつづけた。
失地は回復すればよい。次に勝てばとりもどせるのだ、と。
もともと曹操は即断即決の人であるが、その気質は、苛烈な戦の日々によって、余人の追随を許さぬほどに研ぎ澄まされていた。
司馬懿が、曹操の真意を読みきれなかった原因も、ここにある。
建安四年、四十五歳の曹操は心身ともに充実して、最盛期をむかえていた。
彼の行動力は、若き司馬懿の計算を上まわり、人間の限界にかぎりなく肉薄していたのである。
「それで、『いい知らせ』ってのは?」
気楽な調子で郭嘉が訊くと、曹操はにやりと笑った。
「許都を訪れた胡昭が、『袁紹とは官渡で戦うべきだ』といったそうだ」
「あ~。完全に見透かされてるっすね……」
「……孔明の見立ても、われわれと同じでしたか」
思いもよらない知らせに、郭嘉と荀攸はそれぞれ感嘆の息をはいた。
曹操と幕僚たちは、もっとも勝算が高い場所を割りだすために、さまざまな要素を重層的に検討した。
できるかぎり、袁紹軍の補給線をのばさなければならない。
だが、あまりに引きすぎては、そのまま敵の勢いにのみこまれてしまう。
大小さまざまな要素を考慮して、定めた決戦の地が、官渡であった。
官渡には、河水の支流が流れている。
これを利用して、濠をはりめぐらせた堅牢な城塞を築けば、有利に戦えるだろう。
とはいえ、曹操にも必勝の自信はなかった。
なにしろ袁紹軍は大軍である。不安要素はいくらでもあった。
それに、曹操軍内部の者だけで考えると、どうしても希望や楽観がまざってしまう。
しかし、公平無私な観察者たる孔明の言葉によって、そうした不安は一掃されたのであった。
「胡昭が外から見て、官渡でならば勝てる、と判断しているのだ。われわれは正しかった」
曹操は嬉々として口をひらき、
「この戦、勝てるぞ」
勝利を確信して、会心の笑みをひらめかせた。
――この確信が、官渡の戦いにおける奇跡の勝利を、必然の勝利へと変える要因となってゆく。




