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第二一話 悪役・郭図


 天下に最も近い男となった袁紹にとって、目下もっかの悩みは曹操ではなく、不平不満をつのらせる冀州の豪族たちであった。


 袁紹と彼らとの関係は、韓馥カンフクから冀州を騙しとったときにはじまる。


 豪族たちは袁紹を歓迎した。あらたな統治者に進んで協力を申し出た。

 士大夫層を目の敵にする公孫瓚から身を守るために、彼らは強力な指導者を必要としていたのである。


 袁紹もまた豪族たちを厚遇した。精強な軍を擁する公孫瓚と戦うには、彼らの私兵が不可欠であった。


 共通の脅威に対抗するため、たがいに欠けたものを補いあう。


 八年ものあいだつづいたこの関係は、変わりつつある。


 公孫瓚を地上から葬り去ったからには、変わらざるをえないのだと、袁紹は痛感していた。


「なにかお悩みのようですな、袁紹さま」


 とうに深く腰かけていた袁紹に、参謀の郭図が声をかけた。


「……豪族たちのことで、少しな」


「はっ、困ったものです。彼らの厭戦気分が、将兵の士気に影を落としております」


「うむ。むりもなかろう。全軍の指揮をとる沮授が、短期決戦はすべきでない、と主張しているのだからな」


「沮授どのなら積極策を支持してくれる、と、それがしは考えていたのですが……」


「私もだ。沮授はかつて、陛下を迎えにいくべきだと強く主張していた。今になって、なぜ消極策をとりたがるのか。解せぬ」


 天子を擁立する曹操と戦えば、朝敵になってしまう。この戦には大義がない。沮授はそう主張しているが、袁紹の敵が曹操であることは、諸人もろびとの目に明白である。


 漢室に弓を引いたなどとは誰も思わないだろう。沮授らしからぬ、説得力のない言葉だった。


「……当時と今とでは、状況が異なるから、かもしれませぬな」


 と、郭図は苦い顔でいった。


「なにがちがうのだ?」


「曹操を破ったあと、袁紹さまは、どこに都をおかれるおつもりでしょうか?」


「考えるまでもない。洛陽にきまっている」


 洛陽は交通と商工業の中心であり、由緒正しい王都である。

 天下に号令をかけるのに、これほどふさわしい場所はない。


「許都など、曹操が都と称しているまがいものにすぎん」


「さようでございます」


 郭図はうなずいた。


「もし、沮授どのの献策どおりに、陛下を推戴していれば。今ごろは、このギョウが都となっていたのでしょう」


 袁紹が本拠地としている鄴は、河北を代表する大都市である。


 もとより栄えている地ではあるが、帝を迎え入れて、漢王朝の首都となっていれば、さらなる繁栄がもたらされていたはずだ。


 経済的な利益だけではない。


 冀州の士大夫たちの前には、地方の豪族にすぎぬ身から、中央の名家へと栄達をとげる道が、大きくひらけていたにちがいなかった。


 袁紹は舌打ちした。


「ふん、そういうことか」


 沮授は袁紹の臣であるが、同時に冀州の士でもある。


 曹操を倒せば、帝とともに中原の地が手に入る。天下を統べようとするなら、手放してはならない地だ。


 冀州の豪族たちがどう思おうと、袁紹は本拠地を中原の洛陽にうつすことになろう。旧曹操領の禍乱をしずめるには、強大な軍事力が必要になる。袁紹軍本隊を常駐させねばならない。


 また、南方の諸将ににらみをきかせるためにも、そのほうが都合がよい。

 河北の鄴では遠すぎる。やはり、この国の首都は洛陽なのだ。


 沮授はそれを見越したうえで、曹操を倒したところで冀州にもたらされる益は少ない、と判断したのではないか。彼は袁紹の臣であるが、それ以上に冀州の士であったのだ。


「豪族どもが増長するわけだ。わが軍の総司令官が、味方についているのだからな」


 今の今になって、袁紹は悔やんだ。

 沮授に権限をあたえすぎたのだ。


「沮授どのの力は、一家臣がもつには巨大すぎます。兵権をがねばなりますまい」


「だが、どうやってだ? 沮授にとがはない。麹義とはちがう」


 袁紹は、公孫瓚との戦で活躍した麹義を、処刑していた。

 かの勇将は大功におごり、軍規違反や略奪をくりかえしたのである。


 その処断の正しさを証明するように、麹義を擁護する声はほとんどあがらなかった。


 しかし――、


「麹義は涼州出身のよそ者だった。沮授はちがう。わが軍における最大派閥、冀州閥の中心人物なのだ。落ち度のない沮授から兵権を奪えば、反発の声は大きなものとなろう」


「それでも、やらねばなりませぬ。袁紹さまにかわりうる次席の存在は危険にございます」


 郭図は叱咤するような口調で、主君に決断をうながした。


「むむむ」


 袁紹はうなった。


 沮授は切れ者だ。もし袁紹が不慮の死をとげたとしても、軍をまとめあげて、河北の混迷をふせいでみせるだろう。


 それは、冀州の豪族たちにとって、袁紹が唯一無二の主君ではなくなったことを意味していた。


 彼らは袁紹を用済みとみなして、沮授をかつぎだすかもしれない。


 八年前、この地の豪族たちは韓馥に見切りをつけて、袁紹に鞍替えしている。


 同じことが起こらないと、どうして断言できよう。


 袁紹は眉間にしわを寄せて、


「韓馥がこの地の出身者であれば、豪族たちはああもたやすく、私を受け入れはしなかっただろうな……」


 韓馥は袁紹と同じ豫州の出身だった。よそからやってきた支配者だった。


 あわれな韓馥。掌をかえす豪族たち。


 記憶にある韓馥の顔が、自分のものと入れかわり……、袁紹は悪夢を打ち消すように、ゆっくりと頭をふった。


「この際、沮授どのに逆心がなくとも、それは関係がないのです」


「わかっておる」


 袁紹に対抗できる者、かわりになりうる者が存在していては、不幸のもととなろう。


「沮授さえいれば河北はおさめられる」と、豪族たちが声をあげはじめてからでは遅いのだ。


 袁紹は逡巡した。やがて、その乾いてひびわれた唇から、うめくように、


「できるのか? この地の豪族たちを、敵にまわすわけにはいかぬのだぞ……」


「お任せくだされ。敵意や恨みは、それがしがひきうけましょう」


「いいのか?」


「組織が大きくなれば、なたをふるう憎まれ役も必要にございます。負の感情が主君にむけられることだけは、さけねばなりませぬ」




「沮授! 本日をもって、おぬしの監軍かんぐんの任を解く!」


 翌日、袁紹の声が大広間にひびきわたった。

 なんの前触れもない、突然の出来事であった。


 袁紹軍の柱石である沮授に、いったいなにが起こったのか。

 いならぶ文武官がざわついた。


「全軍をあずかる監軍の地位と権限を、これより三人の都督にわける。ひきつづき沮授を、あらたに郭図と淳于瓊ジュンウケイをその都督に任ずる!」


「……ははっ」


 沮授は肩をふるわせた。平静をよそおうが、屈辱は隠しようもない。

 つづいて、郭図と淳于瓊が拝命するも、群臣たちの動揺がおさまる気配はいっこうになかった。


「ふむ。この人事に、納得がいかない者もいるようだな……」


 と、袁紹は郭図に目配せした。郭図が前に進みでる。


「こたびの軍制改革の要旨は、発案者である、この郭図が説明させていただきます」


 これは沮授どのの降格人事ではありませぬ、と前置きして、


「規模が変われば組織の形も変わるもの。河北を平定して、袁家の軍勢もふくれあがりました。今までのように、沮授どのひとりに全軍を任せておくわけにはいきますまい」


「郭図どの。貴殿はたしか、兵を指揮した経験が少なかったはず」


「そのとおりだ。都督という大役、はたして郭図どのにつとまるのであろうか?」


 群臣たちから疑問の声があがる。

 その声には、たんなるやっかみにとどまらない、毒がふくまれていた。


 郭図は主君の代弁者であるかのようにふるまっているが、唯々諾々(いいだくだく)とそれを認めるいわれも、かしこまるいわれも、彼らにはなかった。


「なるほど、もっともな意見ですな。されば、それがしより都督にふさわしい人材が見当たらぬことを、嘆くべきかと存じます」


 郭図は冷然といいはなって、ふてぶてしく鼻を鳴らした。


 袁紹軍に人がいない、と吐き捨てたようなものである。


 色をうしなう者、激発しそうな者もいるなか、袁紹は気分を害した様子もなく、声を立てずに笑った。


「郭図と淳于瓊を抜擢ばってきしたのは、私だ」


 袁紹は一同を見まわすと、


「われらの敵は曹操だ。戦場として想定される、豫州や兗州の地理に明るくなければ、話にならぬ。そうは思わぬか?」


 郭図と淳于瓊の出身は豫州である。いわれのない抜擢ではなかった。


 なお不満をくすぶらせる部下たちに、袁紹は告げた。


「朝廷を壟断ろうだんしている曹操を、排除せねばならんのだ。天下を憂えて、忠義の心に燃える者は、のちほど申し出るがよい。しかるべき役をあたえよう」


 換言すれば、南征に積極的な者から出世の機会を得る、ということであった。


 実例が目の前にある。

 郭図と淳于瓊が先だって短期決戦を主張していたことを、この場にいる群臣たちは知っていた。


 彼らは押し黙ったまま、顔を見あわせた。

 まるで、困惑をわかちあうかのように。

 あるいは、競争相手の反応を、探りあうかのように。




 *****




 袁紹陣営にいる辛毗シンピから、手紙がとどいた。


 毎度のごとく、「うちの娘が天才すぎて困る!」という親バカ全開な内容だったのだが、申し訳程度につけたされた最後の一文に、気になることが書いてあった。


 郭図と冀州の豪族たちとの仲が険悪になっている、というのだ。


 もうちょっとくわしくッ! そこ重要だからッ!


 私がむずかしい顔をしていたら、司馬懿が補足してくれた。


「袁紹軍では、郭図どのが主導して、大規模な軍制改革がおこなわれたそうです。それで割をくったのが、沮授どのや冀州の豪族だった、と聞いております」


 基本的に、司馬懿の情報収集力は、私より上をいく。


 名門、司馬家が代々つくりあげてきた情報網は伊達じゃない。

 司馬という姓自体が軍務の官職に由来してるだけあって、とくに軍事関係には強いようにも感じる。


 まあ、情報網のことはいいや。

 問題は郭図である。


 郭図がいつ、どこで、どのように死ぬのか。

 正確なところを、私は知らない。


 曹操との戦で戦死したのか。それとも、袁家内紛のさなかに謀殺されたのか。


 ただ、官渡の戦いでは死なない、ということはわかっている。


 官渡の戦いで負けたあと、袁紹は失意のうちに病没し、後継者を定めていなかったことから、袁家の分裂がはじまる。


 その内紛を誘発した人物のひとりが、郭図とされていた。

 つまり、袁紹が亡くなってからも、郭図は元気に暗躍していたのだ。


 ここで気をつけなければいけないのは、官渡の戦いは史実どおりに進めなければならない、ということである。


 この天下分け目の決戦において、曹操は薄氷を踏むような思いをして、勝利を手に入れる。


 なにかひとつでも歯車が狂えば、負けてしまいかねない。


 私がなにをするにしても、官渡の戦いが終わるまで待ったほうがいいだろう。

 とりあえず、手出しは無用だ。とりあえずだけど。


 ちなみに辛毗は、司馬懿と諸葛亮が対峙する五丈原で出番があったはずだから、長生きする予定である。出世する可能性も高い。


 後世、けちょんけちょんにいわれることになる郭図とは、えらいちがいだ。


 ……評価が低い軍師はほかにもいるだろうけど、郭図はそんじょそこらの軍師とは格がちがう。


「出ると負け軍師」に「迷軍師」、不名誉なダブルタイトルホルダーとして、不動の地位にあった。


 ただ失敗しただけでは、こうもひどくはいわれないと思う。

 この時代で広まった悪評が、後世にも伝わったんだろうけど……。


 あっ。


 ふと思いついたことがあったので、司馬懿に尋ねる。


「仲達。郭公則カクコウソクと冀州の豪族たちは、以前から対立していたのだろうか?」


「いえ。郭図どのが表だった動きを見せはじめたのは、つい最近のことです。それまでは、特段、問題は生じていなかったかと」


「ふむ、……なるほど」


 急に行動が変わったということは、なにかしらの要因なり、動機なりがあるのだろう。


 となると、……自分が泥をかぶることを承知のうえで、豪族たちの力をおさえようとしている?


 考えすぎかな? 過大評価かもしれない。


 でも、私の知るかぎり、郭図は意外にけっこう優秀だった。

 袁紹に心酔もしていたし、そのくらいやりかねないんだよなぁ。




 八月、ついに状況が動きだした。

 先制攻撃をしかけたのは曹操だった。

 曹操本隊が渡河して、黎陽レイヨウに布陣しているらしい。


 えっ、マジでっ!?


 官渡の戦いは、袁紹が曹操領内に深く攻めこんで、勝利まであと一歩というところまでせまる。追いつめられた曹操が、烏巣ウソウの兵糧庫を襲撃して大逆転勝利! という筋書きだったはずだ。


 河水の北、黎陽が戦場では、兵力の劣る曹操に勝ち目はない。


 ちょっと曹操さん!? なに考えてんですかッ!!


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― 新着の感想 ―
[一言] 毎回面白く何回も読んでますW でも三国志はソコソコしか知らないので歴史の流れや新しい人物が出ても・・・? という感じに首を捻ってます。 申し訳ない。 でも面白いんだけどねW
[良い点] 農業改革でかなり曹操の地力が上がっているし名声も地味に上がってるだろうしな。 問題はそれで勝てるのかだが。 [一言] さてこれで歴史知識無双は出来なくなったわけだが。 どう出る?
[良い点] 沮授への袁紹のセリフがちょっと恋愛ジャンルの婚約破棄ぽくてメインヒロイン沮授、王子様袁紹、郭図はライバル役に見えてきました
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