第二十話 袁紹軍の影
さらば公孫瓚! 易京に死す!
建安四年三月、易京城にたてこもっていた公孫瓚軍を、袁紹軍が攻め滅ぼした。
袁紹は五年もの歳月をかけて、ようやく易京城を落としたことになる。
公孫瓚という男は、私の周辺ですこぶる評判が悪かった。
人望が厚い皇族の劉虞に対して、「こいつは帝位を狙っている」と、難癖をつけて処刑してしまっただとか。
優秀な人材をおとしめ、凡庸な者を重用しては、「出世して当然と考えているような者を取り立ててやったところで、私に恩義を感じるわけではないだろう」と公言していただとか。
こりゃあかんわ。
ただし、私のおもな情報源は名士ネットワークだ。
名士層と公孫瓚は折りあいが悪かったから、彼の悪評は差し引いて考えたほうがいいかもしれない。
「五年も籠城できたことを踏まえれば、有能な将ではあったのでしょう」
司馬懿がそう評価したので、私はもっともらしくうなずいた。
「うむ、有能な将か。名将ではあったが、君主の器ではなかったのであろう」
公孫瓚は異民族との戦いで頭角をあらわした人物である。
彼は白馬義従という強力な騎兵隊を率いて、北の大地を縦横無尽に駆けまわった。将兵の意気は雷の轟くがごとく、騎兵の突進は稲妻の走るがごとき、とまでいわれていた。
その武威は幽州、冀州どころか、青州や兗州にまでおよび、袁紹をも圧倒するほどだった。
しかし、界橋の戦いで流れが一変する。
公孫瓚優勢と思われた界橋の戦いにおいて、勝敗を決定づけたのは、袁紹配下の麹義という武将である。
この麹義、涼州出身なのだ。騎兵戦法を熟知した麹義の活躍によって、白馬義従は壊滅した。
公孫瓚は、その後も袁紹と戦をくりかえしたものの、次第に追いつめられていった。
白馬義従をうしない、軍事力で圧倒できなくなった公孫瓚には、袁紹に勝る点がなにひとつ残されていなかったのだ。
六月になると、またひとり、群雄が覇権レースから脱落した。
さらば袁術! 江亭に死す!
曹操に負けて逃亡していた袁術が、江亭の地で病没した。
もっとも袁術の場合、覇権レースから脱落したというより、ひとりだけ別の山の頂上に登っていったと思ったら、勝手に崖から転落していったような感じもある。
司馬懿も、袁術に対しては容赦がない。
いわく、戦をしては負けつづける。謀略を好みながら、場当たり的である。
「民を餓えさせながら、自身は贅のかぎりを尽くすなど、もってのほかでしょう。言語道断というしかありません」
「うむ。民を餓えさせる者に、王たる資格はないな」
高祖劉邦の臣、酈食其も、「王は民をもって天となし、民は食をもって天となす」といっている。真理だと思う。
最近、私は「食」について考えることが多い。
どうしてかというと、じつは洛陽に食事処を出店したばかりでして。
レストランのオーナーですよ、オーナー!
事の発端は三月にさかのぼる。
長安から帰ってきてすぐのことだ。
洛陽に店を出してみないか、と鍾繇からお誘いがかかった。
どうやら、旅の途中、麦粥の味がものたりなくて私がつくった、「焦がしにんにくのごま油」を気に入っていたらしい。くせになるのよね、ああいうの。
庖人(料理人)も用意するとのこと。それならば、と私は了承した。
腕のよい庖人と提携できるのは心強い。
私には、ある料理を打倒するという、ささやかな夢があるのだ。
私の宿敵、その料理の名を「膾」という。
なますというと、現代日本では酢の物を思い浮かべるかもしれないが、この時代のなますは生肉、生魚を細切りにした料理をいう。ユッケや刺身に近い。
「おまえをなますのようにしてやろうか!」とは、お酢に漬けこんでやるという意味ではない。
細切りにしてやるぜ! という脅し文句である。
三国志には、このなますに関する、けっこう有名なエピソードがある。
劉備にも曹操にも高く評価された陳登という武将がいるのだが、彼は魚のなますを食して、寄生虫によって死んでしまうのだ……。
あわわ。脅し文句より、ずっとこわい!
二十歳のころ、前世の記憶がよみがえると同時に、私はなますを食べられなくなった。
とくに魚のなますが無理になった。だって、生の川魚だもの。
私が料理にこだわるようになったのは、それからだ。
家族や友人にも、生肉、生魚はさけて火を通すように忠告はした。
寄生虫の存在はこの時代でも知られているので、理解してくれる人はいた。
理解してくれない人もいた。
理解は示したけれども、パクパク食べる奴もいた。郭嘉とか。
おまえだよ、おまえ! おまえが一番危ないんだよォォ!
いや、郭嘉の死因は寄生虫や食中毒ではないから、大丈夫だとは思うけども。
結局、言葉だけで変わるほど、文化や風習はかるくないってことだろう。
あらたな食習慣をつくりだして、少しずつ変えていくしかないのだ。
しばらくたつと、店の評判が陸渾に伝わってくるようになった。
さいわいなことに、人気は上々のようだ。
ここから寄生虫対策、食中毒対策、衛生意識などを広めていければいいと思う。
「そういえば、父から手紙がとどきました」
司馬懿が思い出したようにいった。
「ほう、司馬防どのから」
「はい。洛陽の店に行ってみたようです」
「ほほう?」
「ぜひ、温県にも店を出してほしい、協力は惜しまない。とありました」
ふっふっふ。庶民的な店を心がけたつもりですが、味は妥協しちゃいませんぜ。
温県か……。
温泉が湧いていることに由来して、温県と命名された地だ。
まさかの温泉旅館フラグ? おほほ、夢が膨らむざます。
「ただ……、私が思いますに、今は時期が悪いかと」
苦々しげにいう、司馬懿の顔は曇っていた。
「うむ……」
司馬懿がなにを懸念しているかは、はっきりしていた。
河北四州を平定した袁紹が、次の標的にすえるのはまちがいなく曹操である。袁紹と曹操が争えば、司馬懿の故郷、温県は巻きこまれる可能性が高かった。
巷では、「後背の敵をかたづけた袁紹は、すぐにでも曹操領に攻めこむだろう」と予想する声が多い。
後世、田豊や沮授が主張する持久戦をとらずに、郭図らが主張する短期決戦を採用したことが、袁紹の敗因であるともいわれている。だが、郭図の進言は奇抜なものではないのだ。
そう考えている人が多いから正しいとはかぎらない。けれど、司馬懿も袁紹は動くと見ているようだし、短期決戦が下策というわけではないと思う。うん、聞いてみよう。
「仲達、袁紹は持久戦をとらないだろうか?」
「袁紹はみずから動かなければ、ほしいものが手に入りません」
「ほしいものか……」
「民人殷盛、兵糧優足、冀州は天下の重資といわれております」
「うむ、肥沃な地だな。人口も多い」
「しかし、袁紹がほしいものは、冀州にはありません。天子があらせられるのも、汝南郡があるのも豫州なのです」
帝は豫州潁川郡の許都にいる。曹操の傀儡なのはあきらかだった。
袁紹は歯噛みをしているだろう。
この状況を変えなければ、袁紹は曹操に命令される立場のままだ。
汝南郡は潁川郡とならぶ文の中心地であり、袁紹の出身は汝南袁氏である。
そう、袁家の本貫地があるのは豫州であって、冀州ではない。
袁紹自身には、地縁がなくとも冀州の豪族たちをまとめあげて、河北を制する能力があった。……しかし、後継者はどうだろうか。
後ろ盾がないのだ。冀州の豪族たちのいいなりになってしまうのではないか。袁紹は、冀州を安寧の地とは考えていないのだろう。
「ふむ。天子も汝南も、待っているだけでは手に入らぬな」
「ええ。ですから、袁紹には動かない理由がありません。それでも、袁紹が持久戦を選ぶとしたら……」
「したら?」
「袁紹の意思を、冀州の豪族たちの主張が上まわった場合。豪族をしたがえるだけの指導力を、袁紹が発揮できなかった場合かと」
「冀州の豪族たちは、持久戦をのぞむか」
たしかに、田豊も沮授も冀州の人だが。
「はい。彼らからしてみれば、公孫瓚を倒したことによって、ようやく冀州の安定が見えてきたのです。力を入れるべきは治安であり、内政であり、河水を渡っての遠征ではありません」
冀州の豪族たちは、冀州の安定を重視する。当たり前だ。
あくまで南をむく袁紹とは、冀州の重みがちがう。
「袁紹軍の中核をなしているのは、冀州の豪族たちです。彼らは、このように上申をするでしょう。『二、三年は内政に専念して、足元をかためるべきである。その間に、四方の群雄と手をむすんで、曹操を包囲し、疲弊させていけばよい』」
それ、三国志で見たセリフだ! 田豊だったっけ?
「持久戦で得られるものは、第一に河北の安定です。河北の雄として生きるつもりならば、それでよいのです。しかし……」
「袁紹にそのつもりはない、か。彼の目は南をむいている」
「はい。自領よりも、曹操領内のほうが混乱していることを、袁紹は知っています。みすみす曹操に時間をあたえる手はありません。
袁紹からしてみれば、持久戦は悪手でしょう。自身の大望よりも、袁家の繁栄よりも、豪族たちの利益を優先させろ、といわれているようなものです。袁紹はそうした要望をおさえつけて、軍を南に進めなければならない。
……持久戦を主張する人物は、その発言力が高ければ高いほど、袁紹にうとまれることになるでしょう」
……そこまで読めるのか。
三国志における袁紹軍のイメージといえば、武の二枚看板が顔良と文醜、知の二枚看板が田豊と沮授である。立場は文人のほうが上だから、トップにいるのは田豊と沮授といっていい。
このふたりは持久戦を主張したあと、袁紹に冷遇されている。
おそらくは、反発する冀州の豪族たちに対する、みせしめの意味合いもあったのだろう。
こうしてみると、袁紹は最初から、短期決戦の腹づもりだったのだ。
田豊と沮授は冀州に基盤があった。
豪族たちの意見を代弁する立場にいたからだろうか。
彼らは持久戦を主張して、その結果、袁紹の不興を買うことになった。
一方、袁紹と同じ豫州出身の郭図は、主君と価値観を共有していた。
だから、短期決戦を主張した。まるで、袁紹の意を汲んだかのように。
……郭図、郭図か。
このまま史実どおりに歴史が推移すれば、郭図は一〇〇%の確率でフォーエバーしてしまう。
さらば郭図! と、いうつもりはない。
なんとかしないとな……。




