第十六話 涼州の若獅子
洛陽復興の人手を確保するために、関中から人を移住させたい。
その見返りとして、関中諸将にはあぶみを提供する。
私が手伝うことになった鍾繇の仕事は、要約するとこういうことだった。
最新兵器をそんな簡単に譲渡していいのか、と思わないでもない。
が、そもそも、あぶみの肝は今までの常識にとらわれない発想にある。
模造するのはむずかしくないのだ。
いずれ陳腐化するなら、価値が高いうちに外交に使ってしまおう。
合理的な曹操らしいといえば、らしい判断だと思う。
そうなると、関中軍閥はうってつけの相手だった。
関中軍閥の主力は、精強な騎兵軍団として知られる涼州兵である。
彼らは馬を愛し、馬とともに生きる、この国きってのウマ男なのだ。
あぶみが驚異的な馬具であることを、ちゃんと理解してくれるはずだ。
また、地理的な要因もある。
四方を敵に囲まれる曹操軍は、関中方面で戦をする余力などない。
もし、関中軍閥が敵対した場合、曹操はおそらく長安を放棄して、潼関なり函谷関なりの守りを固めるだろう。
どうせ野戦にはならないので、あぶみによって強化された敵騎兵と戦う可能性も低いのである。
私と司馬懿は、いったん洛陽にむかった。
一足先に洛陽にもどっていた鍾繇と合流し、五百の兵とともに長安に出発する。
韓遂と馬騰がやってきたのは、私たちが長安に入った翌日のことであった。
「鍾繇どの、こちらは?」
と問いかけてきたのは、一癖も二癖もありそうな男だった。年齢は六十近くに見える。
「おぬしらも名は聞いていよう。彼は、わしの弟弟子、胡昭だ」
「おおっ、あなたが胡昭どのか! ようこそ、関中へ。私は韓遂、字を文約と申す」
つづいて、韓遂より年下だろう、堂々とした男が名乗る。
「お初にお目にかかる。馬騰、字を寿成と申します」
「胡昭、字を孔明と申す。よしなに」
私は羽扇を揺らして、微笑をたたえる。
意識するのはモナ・リザ、うふふ。
どうして、私が余裕をかましていられるのか?
この場に顔を出した時点で、私の仕事は終わったも同然だからである。
私が長安まで来たのは、関中の代表者と交渉するためではない。
あぶみに箔をつけるためなのだ。
現代でも、ミ○ュランの星を獲得したら、そのレストランはがぜん注目を浴びるようになるだろう。それと同じで、『最新の馬具』よりも、『胡昭が発明した最新の馬具』のほうが、はるかに訴求力が高いのである。
くわえて、『胡昭が発明した最新の馬具』という名にはもうひとつ、交渉を有利に進める効果があった。
あぶみの有用性は、歴史が証明している。
この交渉の結果にかかわらず、韓遂たちはあぶみの類似品をつくろうとするだろう。
だからこそ、彼らは交渉を決裂させるわけにはいかない。
決裂してしまうと、「名士の発明品を受けとらなかったくせに、偽物をつくっている」という悪評が立って、彼らの信望に傷がついてしまう。
するとどうなるか。
韓遂や馬騰とて、関中での立場は盤石ではない。
中央の名士たちとの関係が悪いとみれば、とって代わろうとする者はいくらでもあらわれるのだ。
ということで、私の仕事はおしまい。
気楽な立場になると、交渉相手の韓遂と馬騰よりも、その背後に立つ護衛のほうが気になってくる。
韓遂の護衛は壮年の偉丈夫だ。こちらはまあ、おいとこう。
注目すべきは、馬騰の護衛のほう。
フランスあたりの映画俳優を彷彿させる白皙の美貌と、瑞々しいたくましさを兼ね備えた若武者である。
白銀の鎧に、獣面模様の帯、兜には獅子の金具がついていて、これでもかってくらい派手なのに、着られている感じはない。
……これ、馬超じゃね?
馬超といえば、蜀漢の五虎大将のひとりにして、三国志の中盤で大活躍する猛将である。トレードマークは獅子に噛みつかれているような兜だ。
兜は微妙に一致しないけど、いちおう獅子の文様はあるし、なによりただのモブキャラが出していい存在感じゃなかった。
武勇に秀でた馬超が、父の馬騰を護衛している、という可能性はけっこう高いと思う。
そんなふうに私が推定馬超をこっそり観察しているあいだにも、鍾繇は話を進めていた。
韓遂は、司馬懿がもっているあぶみ付きの鞍を、じろじろ見ながら、
「……なるほど。関中の民を洛陽に連行する。見返りとして、そちらはこの馬具を供出する。ということですな」
「さよう、さよう」
うなずく鍾繇を見て、韓遂は渋い顔をする。
「しかしですな。長年の争いによって荒廃しているのは、関中とて同じこと。
洛陽の復興は順調に進んでいる、と聞いているが、それでもこの地の民をつれていこうというのか?」
「いやいや、順調といっても、形になってきたのは市街のみよ。洛陽周辺には、いまだに耕作を放棄した土地がありあまっておる」
「ふうむ。……市街のつぎは、農地の復興に力を入れるつもりとな。しかし、洛陽盆地は広い。必要な民の数は、百や二百ではすまぬであろう」
韓遂は難色を示した。
盆地に位置する洛陽は、天然の山と人工の関によって守られており、その盆地全体を巨大な都市圏としている。
盆地全体となれば、農地の面積は広大だ。
その広さに応じて、必要な農民の人数も多くなる。
あまり大勢つれていかれては、関中側だって困るだろう。
「うむ。だから、関中の代表者たるおぬしらと話しあっているのだ」
鍾繇が肯定すると、韓遂は口の端をつりあげる。
「鍾繇どの。確認しておくが、まだ、洛陽の宮城を再建するめどは立っておらぬのだな?」
「いかにも」
「漢室の臣として提言する。陛下のためとあらば、宮城の再建を優先すべきであろう」
「民の生活を優先せよ、と陛下は仰せである」
鍾繇の言葉に、韓遂の目がぎろりと光った。
「はたしてそうかな?
宮城の再建を後まわしにしているのは、曹操の要望ではないのか?
宮城を廃虚のままにしておけば、陛下が洛陽にもどられることはない。
天子をみずからの本拠地である許都にとどめおこう、という腹積もりが透けて見えるわ」
正解。
さすが韓遂、何度も反乱を繰り返してきて、これからも反乱する予定の男である。
生粋の反逆者から見れば、洛陽復興を誰が差配しているかなど明白にちがいない。
だが、鍾繇も一筋縄でいくような人物ではない。
「いやいや。宮城の再建には、人も金も、時間もかかる。
民の暮らしもおぼつかない現状でおこなえば、怨嗟の声はいや増すであろう。
まずは、豊かな洛陽を取りもどすのが先決よ」
と、まったく動揺を見せずに、それどころか人の悪い笑顔を浮かべて、
「……それにだな。わしの見たところ、あぶみを提供することに、曹司空はあまり気乗りしていなかったようだぞ」
「む?」
韓遂は、相手の真意を探るような目つきをした。曹操が望んでいなければ、この交渉自体がおこなわれていないだろう、という顔だった。
鍾繇は肩をすくめるようにして、
「なにせ、曹司空はあぶみをたいそう気に入ったようでな。みずからの親衛騎兵隊に、あぶみをそろえて、天下に並ぶものなき最強の騎兵隊をつくると意気ごんでいるのだ」
しかし、曹操は関中軍閥との友好を優先させた。
最強なんてものは幻想だと、知っているからだろう。
呂布は敗れた。かの覇王、項羽ですら負けたのだ。
まして、あぶみによる軍事的優位なんて早ければ一、二年でうしなわれる。
長く見積もっても、五年といったところか。
「ほう、最強の騎兵隊か。涼州の兵をあずかる身として、その言葉は看過できんな」
「われら涼州兵、馬のあつかいにおいて、おくれをとるつもりはない」
韓遂と馬騰が、不快げに眉根を寄せた。
最強の騎兵という言葉が彼らの矜持を刺激するのを、もちろん、鍾繇はわかっていて発言している。
私の兄弟子は、世評では人格者とされているが、私はその意見にくみさない。
うつくしい文字を書くから、心根までうつくしいと思ったら大まちがいである。
それを私に教えてくれやがった張本人が、ほかでもない鍾繇なのだ。
「いかにも、いかにも。おぬしらの言はもっともよ。
涼州の地は、異民族の侵略を防ぐ最前線の地である。
その兵は屈強にして、馬のあつかいにも習熟している。
涼州兵こそ、最強の騎兵集団であると、誰もが知っていよう。……だがな」
鍾繇は声を低めてつづける。
「曹操軍の親衛騎兵隊に選ばれる条件が、おどろくべきことにな。『馬を走らせながら、左右のどちらにも矢を放つことができる』というものなのだ。その水準の腕前となると、騎射に長けた涼州兵とてそうはいまい」
鍾繇の声には、嘲笑一歩手前の、愉悦の響きがあった。
墨汁でも飲んだのか、と疑わずにはいられない腹黒さが、どこか懐かしい。
……この人、えらくなっても全然変わってねえ。
「なにをいうかと思えば、馬鹿げたことを。
それほどの技量があれば、一兵卒などやっておらんわ」
韓遂は、話にならないというように、あきれ顔をした。
鍾繇はニヤニヤを隠そうともせず、
「ところが、あぶみを使えば、それが可能となるのだ。
その精鋭部隊は、人員の選抜も武具の配備も、ほぼ完了しておる。
虎豹騎という部隊名も決まった。
最強の騎兵隊、虎豹騎のお披露目も近いであろうよ」
おっ、虎豹騎だ。
曹一族の曹純が率いる親衛騎兵隊、だったかな。
まだ、組織されていなかったようだ。
「……ううむ」
馬騰がうなった。
涼州を凌駕する騎兵集団が、現実のものとなりつつある。そう聞けば、心おだやかではいられまい。
韓遂は、突っかかるような調子で、
「なにが、ううむだ! 馬騰、しっかりせい!
そこまでいうのなら、馬術にすぐれた涼州兵にとって、あぶみがどれほど役に立つのか。試させてもらおうではないか。よろしいかな、胡昭どの?」
「よしなに」
う~ん。よしなに、の使い方って意外とむずかしいかも。
よろしく、よりも、よきにはからえ、に近い高慢な印象をもたれそう。気をつけないと。
「おお、感謝いたす。
われらとて、陛下のご意向に逆らうつもりはないのだ。
まずは、新たな馬具がいかほどのものか、たしかめようではないか。
そのうえで、こちらが受けとるあぶみの数と、そちらが洛陽につれていく民の数、つりあいがとれるように決めればよかろう」
「うむ。それでよかろう」
韓遂と鍾繇が合意したところで、馬騰の護衛が小声でいった。
「父上。そのあぶみ、私にも試乗させていただきとうござる」
「ああ、私もそう考えていたところだ。
胡昭どの、これは私のせがれでな。
親の欲目を抜きにしても、武芸については光るものがある」
「ほう」
馬超かな? 馬超だろ!
護衛は黒目がちの眸を輝かせて、名乗った。
「姓は馬、名は超、字を孟起と申します! 高名な胡昭どのにお会いでき、光栄に存じまするっ!」
馬超キターーッ!! なんて叫ぶわけにもいかないので、
「うむ、よしなに」
私はとりあえず、名士ムーブをするのだった。




