第一五九話 槍と誇りと
間合いの内側に入られた。槍では間にあわない。
危機にさらされた瞬間、馬超の乾いた心に生命の水が湧きだし、それが血流となって全身を駆けめぐる。
腰だめに突きだされてきた剣を、ななめ後方に足をさばいてかわし、剣をかまえて突進してきた人影に蹴りをいれる。
武芸のかけらもない、ほとんど反射に近い動作だったが、馬超の身体は指先と爪先の一本一本に至るまで、所有者の意志と期待に完璧にこたえてみせた。
「ッ……!?」
靴先が、刺客のみぞおちにめりこんだ。意外なほど小柄な刺客は、突進の勢いと蹴られた衝撃に踏みとどまれず、もんどり打って地面に倒れこんだ。
刺客の一撃は軽かった。だが、おそろしいほどするどい、気迫のこもったひと突きだった。
もし、この小柄な刺客に馬超並みの体躯があったなら、結果はちがっていたかもしれない。
背中に冷や汗が流れるのを感じながらも、馬超は冷静に周囲の状況を読み取った。
夜闇のなかから、第二の刺客が襲ってくる気配はない。
どうやら単独の凶行のようだ。
大地に倒れた刺客は、しかしその右手に剣を握ったままだった。
馬超は槍を回転させた。
ただ手首をひねっただけの無造作にも見える動作だが、今度は武芸の粋を極めた一撃だった。
足裏で地面をつかみ、大腿部から背中へと伝えた力に、体重を乗せる。すべての力を伝えた石突の一撃が、立ちあがろうとした刺客の右肩に叩きこまれた。
鎖骨が折れる感触と同時に、
「ぐっ……ぅ……」
年若い悲鳴がもれた。
剣を落とした刺客は、左手で右肩をおさえてうずくまった。
刺客は、十二、三歳の少年だった。
少年に槍の石突を突きつけ、馬超は冷然といいはなった。
「誰に命令された」
「…………」
少年は無言で馬超をにらみつける。
恐怖のためか、痛みのためか、その眼には涙がにじんでいた。
星月夜のような澄んだ色の眸でにらまれ、馬超は思わず自問する。
自分にも、あのような眼をしていたころがあっただろうか。
……たしかに、あった。
なにも疑わず、自分は涼州一の武人になるのだと信じきっていたころが。
異変に気づいて周囲が騒ぎだした。
「馬超さまッ!?」
「なにごとですかッ!?」
駆け寄ってきた兵士たちに、馬超は命じる。
「聞きたいことがある。取りおさえろ」
たちまち兵士たちが群がり、少年を地面に這いつくばらせた。
馬超は、先ほどよりも、すごみを利かせて問いかける。
「誰に命令された」
身体の自由を奪われた少年は、顔だけをあげた。
その頬は涙と土で汚れ、眼には怒りの火が灯っていた。
「誰にも命令などされていない! おまえは生きてちゃいけない男だ!」
「……ほう」
馬超は不快げに唇をゆがめた。
歴城の民に恨まれている自覚はあったが、それを突きつけられればいい気はしない。
それにしても、自分の意志で馬超の命を狙い、あわやというところまでせまったのだから、たいした少年である。勇敢というよりは無謀と見なすべきであろうが。
「僕の父は軍人だった! おまえが引き起こした戦乱に巻きこまれて命を落とした! おまえが呼びこんだ異民族と戦って死んだ!」
「戦とはそういうものだ」
馬超の冷ややかな声とは対照的に、少年の声はさらに灼熱した。
「戦を起こした張本人がなにをいうっ! 戦う力のない女、老人を殺害しておいてっ!」
痛いところを突かれた。まったく、正当性のかけらもないのだ。いまの馬超には。
「……やれやれ、よほど命が惜しくないようだ」
「いまさら命を惜しむものか! 知っているぞ! おまえがこの城に火を放とうとしていることは! それをふせげなかったことだけが無念だ!」
馬超はまたしても驚かされた。
この少年はひとりで城を守ろうとしたのだ。おそらく、周囲の大人が馬超たちをおそれて動こうとしないなか、たったひとりで。
「さっさと僕を殺せ! この小董卓がっ!」
この罵倒には、なじられた馬超よりも、兵士たちがいきり立った。
「このガキッ!」
兵士のひとりが腰の剣に手を伸ばすのを、
「やめろッ!」
馬超はするどく制止した。
「殺せ、馬超! 大婆さまを殺したように! ここで僕を殺さなければ、いつの日かかならずおまえの首を獲りに行くぞっ!」
少年は、本当に命が惜しくないようで、さらに馬超を痛罵した。
その声をとめようと、少年の背に、兵士たちがのしかかる。
「……っ」
少年の口から、苦しげな呼気がもれた。
この少年は殺される。馬超が命じずとも、兵士たちの手で殺される。
惜しい、と馬超は思った。あまりに惜しい。
生きてさえいれば、ひとかどの人物になれただろうに。
馬超は涼州の英雄になろうとして、その道から転がり落ちた。
この少年も、ここで死ななければ、同じような道を歩むのではないだろうか。
その結果、どのような失敗をするのか、あるいは、どのような実をつけるのか。
見てみたいと思った。可能性を奪いたくないと思った。
一瞬、考えこんだのちに、
「この槍をくれてやる」
馬超は少年の前に槍を放り捨てた。粗雑に見えて、じつは丁寧に槍を放った。
「戦場でものをいうのは剣ではなく槍だ。私の首が欲しければ、槍の腕を磨いておくんだな」
温情で見逃してやるのではない。
そう印象づけるために、ことさら凶悪な笑みを口元に浮かべて、
「私はかならず涼州にもどってくる。私がもどってきたとき、おまえが涼州一の武人になっていたら、あらためて相手をしてやろう」
「っ…………」
少年は、悔しそうに馬超をにらみあげることしかできない。
「この少年をしばりあげて、火がまわらない場所に転がしておけ。この槍もいっしょにな」
馬超は兵士たちに命じた。
これだけ具体的な指示を出しておけば、命令を無視して勝手に殺すことはあるまい。
「は、ははっ!」
「御意!」
兵士たちの返事を聞いて、馬超は少年に背をむけた。
刺客ひとりに、少年ひとりに、いつまでもかかずらっている暇はなかった。
夜明け前に火を放ち、その直後に城を発たねばならない。
馬超は涼州を去る。
なにも得られず、なにも守れず、敗北者として、この地を去る。
だがしかし、このとき、この槍とともに、涼州の誇りはたしかに受け継がれていた。
このとき少年の手に渡った槍は、その銘を緑沈といった。
そして、緑沈槍を手に、英雄への階段を駆けのぼる少年の名は――、
「姜維だ!」
兵士たちによる拘束がわずかにゆるんだ瞬間、少年は叫んだ。
うしろ手にしばられながら、涙に顔をゆがめながら、土をなめながら、
「馬超! おまえを殺すのは姜冏の子、姜維だ! 僕はおまえを絶対に許さない! 絶対に、殺してやるぅッッ!!」
少年の叫びに、馬超が振り返ることはなかった。
※
緑沈槍は中国古代十大名槍のひとつ。魏晋の名将、姜維の槍。かつては馬超の手にあったともいわれているが、史料によって確認することはできない。
一説によると、馬超から緑沈槍をあずかっていた胡昭は、姜維の武芸を目の当たりにして、その姿に若き日の馬超の英姿をかさねあわせた。そこで姜維にこの槍をさずけたともいわれているが、あくまで民間伝承である。
緑沈槍 wiikiより一部抜粋。
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