第一五八話 槍は折れども……
隴右における動乱は依然としてつづいているものの、その渦中で最大の猛威を振るった男の戦いは終わりを迎えようとしていた。
最後の砦である冀城を失った馬超は、漢中の張魯のもとに身を寄せる決意をかためていた。
「情けない……。敗者とは、なんとみじめで情けないものか」
潼関の戦いで敗れてから、馬超は西方に逃れた。
潔く敗北を受け入れるべきなのか。わずかばかりの迷いはあった。
だが、もっと西で戦うべきだったという思いが、このまま負けてなるものかという思いがまさった。
羌族や氐族にまで呼びかけて再起をはかったが、抵抗をつづけた代償は大きかった。
父の馬騰をはじめ、馬休、馬鉄ら、鄴で暮らしていた馬一族が処刑されたのである。
夜風にあたりながら、馬超はひとりごちる。
「思えば、潼関の戦いで負けた直後が、降伏する最後の機会だったのだろうな。あのとき、敗北を認めて降伏していれば……」
馬超自身はともかくとして、馬騰たちの命は助かったかもしれない。
父を死に追いやってから降伏などしたら、恥の上塗りである。
馬超は戦いつづけるしかなかった。
民衆は残酷だった。
官軍と戦ってくれ、曹操の支配をはねのけてくれ。
そう請願してきたはずの民衆は、馬超が敗者となるや手のひらを返して、糾弾の声をあげるようになった。
「なぜ曹操さまに逆らった!」
「なんてことをしてくれたんだ! 迷惑きわまりない!」
「とっとと去ね! この奸賊がッ!」
とっくに引き際を失っていた馬超は、それでも戦うことしかできなかった。
隴右の諸県を味方につけ、あるいは占領すると、涼州刺史の韋康が立てこもる冀城の攻略に取りかかった。
馬超軍の猛攻に、冀城は持ちこたえた。
しかし、籠城がつづき、城内の人々は飢えに苦しみだすと、韋康はついに馬超の降伏勧告を受け入れた。
あれだけ頑強に抵抗した韋康である。
生かしておけば災いとなる。
馬超は韋康を殺害した。
ここでも馬超は判断を誤った。
馬超が失った民衆の心を、韋康はつかんでいた。
彼を殺したことで、冀城の人々の恨みを買ってしまったのである。
馬超が冀城の救援にきた夏侯淵軍を撃破し、隴右の支配をかためようとしていたころ、韋康の旧臣たちは馬超排除の秘計密謀をめぐらせていた。
嚆矢となったのは、歴城の姜叙である。
歴城は冀城の南に位置している。そこからより冀城に近い鹵城に移動して、姜叙は馬超打倒の兵を挙げた。
至近に敵が出現したのだ。放置はできない。
姜叙を叩くべく馬超は鹵城に急行した。
振り返れば、軽率で短絡的な行動だったのかもしれない。
馬超がいなくなると、冀城の人々は、城に残されていた馬超の妻子一族をことごとく殺害して、冀城の奪還に成功した。
すべてを失ったと思い込んでいた馬超は、妻子一族を失ったことで、自分にもまだ守るべきものが残されていたのだと、遅まきながら思い知らされたのであった。
この報がもたらされたのは、馬超が鹵城を攻略している最中であった。
冀城を失ったからには、代わりの拠点を手に入れねばならない。
だが、思いのほか姜叙はしぶとかった。
鹵城がすぐには陥落しないと判断すると、馬超は攻略を断念し、さらに南へ移動。姜叙が留守にしている歴城をまたたく間に陥落せしめた。
だが、歴城の人々の心も、馬超からはなれていた。
捕らえられた姜叙の母は、面とむかって馬超を罵った。
「父親を死に追いやった親不孝者めッ! 主君に逆らった不忠者めッ! いつまで生き恥をさらして罪をかさねるかッ!!」
この老婆を、馬超は処刑した。
姜氏は力ある豪族である。
明確に敵意をあらわしている以上、力を削がねばならない。
しかも、この老婆は息子に決起をうながした張本人だという。
処刑しない理由はなかった。
姜叙の一族、そして馬超排除に関与した韋康の旧臣の一族は処刑された。
当然だと、馬超は思った。
馬超の妻子一族は皆殺しにされたのだ。負ければそうなる。
むしろ皆殺しにしなかっただけありがたいではないか。
自分の所業が悪行に分類されるであろうことは理解できたが、だからどうだというのだ。
乾ききってひび割れた馬超の心は、うわべをとりつくろう必要性を感じなかった。
近づいてくる足音に、馬超はかつて愛用していた深緑の槍を握りしめた。
虎頭湛金槍は、曹操軍との激戦のさなかにへし折れた。
関中一の勇士の証を、馬超はすでに失っていた。
「大将、本当に火を放つのですか?」
足音の主は、龐徳であった。
槍を握る手から力を抜いて、馬超は告げる。
「もはや、我が軍に戦いつづける力はない。歴城の維持はできん。漢中の張魯を頼るしかあるまい。私が謀反人だというのなら、部下を寄越して私に協力していた張魯も同罪だ。我々を受け入れてくれるだろう」
「ですが、歴城に火を放つ必要はないのでは?」
龐徳は諫めるような声で、あらためて疑念を呈した。
「火を放てば、歴城の人々は鎮火を優先させる。逃げる我が軍を追いかけてくることはあるまい」
「歴城に我々を追撃するだけの兵力があるとは思いませぬが」
再三の念押しも、馬超の心にはひびかなかった。
「甘いな、龐徳。歴城の人々は私を憎悪している。多少の無理をしてでも、追撃してくるかもしれん。私を討ち取る力はなくとも、足止めくらいなら不可能ではあるまい」
その時間が生死を分かつかもしれない。
火を放って追撃の手を封じこめるのは、合理的な判断のはずであった。
それとも、自分は歴城の人々が憎いから、火を放とうとしているのだろうか。馬超はみずからに問うた。
そうではあるまい。憎んでいないといえば嘘になるが、自分を突き動かすような強い衝動は、馬超の胸には存在しなかった。
「龐徳、おまえはここまでよく戦い抜いてくれた。私の負け戦に最後までつきあう必要はない。ここで別れてもよいのだぞ」
「…………」
ねぎらいが三割の、突き放すような馬超の言葉に、龐徳は答えようとしなかった。
「漢中に行ってしまえば、二度と涼州の地を踏むことはないかもしれんのだ」
「大将はどうするつもりで?」
「負け戦のまま終わりたくはない。曹操と戦って勝つしかあるまい。勝利で身の証を立て、道義をねじ伏せる」
龐徳の手前、馬超はせめてもと胸を張った。
昂然と答えたものの、実現する可能性を考えればあまりにも空虚な言葉だと、馬超も自覚している。
張魯のもとに逃げこめば、雌伏と忍耐の日々が待っていよう。
悔悟と無力感に苛まれ、胸をかきむしる夜を過ごすことになろう。
それでも生きてさえいれば、戦う意志を放棄さえしなければ、まったくの無力とはならないはずであった。
龐徳はゆっくりとまばたきをしてから、苦笑をたたえた。
「窮地にある主君を見捨てるようなまねは、しとうありませぬな」
「……そうか。律儀な男だ」
その言葉には、いささかの呆れと十分以上の感謝が込められていた。
やがて龐徳が歩み去ると、馬超はつぶやいた。
「そうか、龐徳はついてきてくれるか。ありがたい」
これほど頼もしいことはなかった。
安堵したからだろうか、急に尿意をもよおしてきたので、馬超は槍を手にしたまま厠にむかった。
以前、厠の床下にひそんでいた刺客に襲われたことがある。
それ以来、彼は厠のなかでも槍を手放さないようにしていた。
小用を済ませて、厠を出てから五歩歩いた瞬間だった。
馬超の全身が総毛立った。
その殺気に反応できたのは、彼の精神が摩耗していても、獅子の本能だけは失われていなかったからであろう。
とっさに振り返った馬超めがけて、白刃が突きだされた。




