第一五七話 諸葛亮の不安
呂岱も劉備も、自分たちの要望を劉璋が拒絶するであろうことは、百も承知していた。
それでも彼らが使者を送ったのは、要望をのませるためではなく、劉璋に拒絶させ、それを開戦の理由とするためである。
呂岱としては、一日でも早く、劉備に行動を起こしてもらいたい。劉備が益州で躍進すれば、曹操の関心と警戒も、少なからず劉備へとむけられるであろう。孫権にかかる軍事的圧力も、いくぶん緩和されるはずであった。
劉備としても、単独で曹操軍に対抗する力がない以上、同盟相手の孫権を失うわけにはいかなかった。曹操がいよいよ南へ軍をさしむけてきたのである。いつまでも張魯とにらみあっているわけにはいかなかった。
「我々は、盟友たる孫権どのの窮地を救うため、江東へむかわねばならない。だが、あろうことか劉璋どのはその道をはばんだのだ! 我々が益州にやってきたのは、劉璋どのを救うためだというのに、なんたる不義理、なんたる恩知らずか!」
というわけである。
たとえいいがかりであろうと、名分は必要であった。
名分がなければ、味方になりうる者を味方に引きこむこともできなくなる。
同時に、劉璋と敵対することを前提として、劉備は先手を打った。
白水関を守備する劉璋軍に、次のような親書を送りとどけたのである。
劉備軍は、窮地に立たされている孫権を救わねばならない。交州経由では時間がかかりすぎるゆえ、江水を船で下って荊州にむかうつもりである。江陵近郊に劉備軍があらわれれば、曹操も孫権ばかりを攻めるわけにはいかなくなるであろう。ひいては今後の葭萌関の守りについて協議する必要がある。白水関の守将である楊懐・高沛の両人は、葭萌関まで足をはこばれたし――。
もちろん、劉備の狙いは別にあった。
白水関は、葭萌関の北にある。劉備軍が成都めざして南進すれば、がら空きになった葭萌関に、白水関の劉璋軍が攻め寄せてくるのは必定であった。
劉備軍にとって、潤沢な物資がたくわえられている葭萌関は、まさしく生命線である。ここを失えば、軍事活動どころではなくなってしまう。
南進する前に、白水関を占拠しておかなければならない。
敵対関係が明白になる前に、楊懐と高沛をだまし討ちにしようとくわだてたのであった。
なにも知らない楊懐と高沛は、わずかな手勢を率いて、葭萌関にやってきた。
劉備が設けた酒宴の席で、彼らは上機嫌にこういった。
「西へ、東へ。劉備どのも大変よのう」
「葭萌関の守りは、我々がなんとかしよう」
劉備軍が去るのを、楊懐と高沛は歓迎しているようであった。
劉備に対して好意的な感情を抱いていないのなら、なおのこと彼らは用心すべきであった。
楊懐と高沛は酒宴の席で斬り捨てられ、彼らがつれてきた手勢は、衆寡敵せずと判断して、あっさり劉備の軍門に下った。
これで白水関は守将を失った。
「いまこそ白水関を攻め落とす好機である! 出陣の準備を急げ!」
劉備は命じた。
すべてが順調かと思われた。ここまでは。
そこに冷や水を浴びせたのが、張松が劉備と内通していたかどで処刑されたという、成都からの急報であった。
「張松どのは……焦ってしまったのだろうな」
諸葛亮はうめいた。
劉備を益州の主として迎え入れようと画策した龐統・張松・法正・孟達の四人のうち、張松を除く三人は、劉備軍とともに葭萌関にいる。
ただひとり、張松だけが成都に残り、調略活動をつづけていたのである。その心労は、はかりしれない。
せっかく味方に引き入れた同志も、なかなか動こうとしない劉備軍に業を煮やして、「劉備軍はいつになったら成都にやってくるのだ?」と、張松をせっついていたにちがいなかった。
そこへ、劉備軍が江東にむかうといいだした。
余裕を失っていた張松はそれを信じこみ、あわてて劉備と連絡を取ろうとして、わきが甘くなってしまったのであろう。
張松にかかっていた負担を計算に入れていれば、彼を救う手立てもあったのではないか。
奥歯を噛みしめる諸葛亮をよそに、龐統が進言する。
「劉備さま。張松どののことは残念ですが、すでに戦端はひらかれたのです。悲しんでいる暇はありますまい」
間髪入れずに法正が、
「まずは速やかに白水関を攻略する。これが最優先でございます」
張松の死に衝撃を受けていないはずがないのだが、彼らはすでに頭を切り替えているようであった。
劉備は沈痛な表情でため息をつくと、
「うむ。そのとおりだ。予定通り、我々は白水関の攻略にうつる」
もたもたしていたら、楊懐・高沛の後任が送りこまれてくる。
その前に、白水関を攻略しなければならない。
劉備軍は準備よりも速度を優先させて、あわただしく出陣した。
葭萌関にきた当初、劉備軍の総兵力は、呂岱の兵を含めても、二万三千にすぎなかった。
だが、法正・孟達が率いる四千の兵を吸収し、張魯と戦うふりをしながら募兵をかさね、いまでは三万二千にまで増えている。
二千の兵と諸葛亮・趙雲らを葭萌関に残して、劉備軍三万は白水関を急襲した。
対張魯の最前線だけあって、白水関の守備兵も精卒ぞろいである。
その数四千。常時であれば、劉備軍とて攻略には手間取ったにちがいなかった。
だが、白水関の将兵たちは、守将の楊懐と高沛を失い、混乱していた。
彼らは八倍近い劉備軍におそれをなし、門を閉ざして、息をひそめることしかできなかった。
劉備は陣頭に馬を立て、語りかけた。
「白水関の将兵たちよ! 私は益州の主となる!」
劉備はついに野心をあらわにした。
「劉璋より強い国をつくると約束しよう! 益州の民草にもっとよい暮らしをさせると約束しよう! 益州の軍兵にもっとよい待遇をあたえると約束しよう!」
戦場を渡り歩いてきた劉備である。さすがに声はよく通る。
「我が軍と生死をかけて戦うというのなら、弓矢でもってこたえよ! そうでないのなら門をあけよ! 劉璋のために命を捨てるのか、私のもとに来るのか、選ぶがよい!」
この一年、周辺の人心収攬につとめてきた成果であろう、やがて門はひらかれた。
白水関の占拠に成功すると、劉備は龐統に問いかけた。
「残る後方の敵は、張魯のみとなった。だが、どうやら甘い相手ではなさそうだ。停戦要求にも応じてくれそうにない。張魯軍の襲来にそなえねばならないが、白水関と葭萌関の守りはどうすればよい?」
「兵糧庫である葭萌関は絶対に維持しなければなりません。比べれば、白水関はさほど重要な地ではありません」
「だが、白水関を無防備にはできぬ」
白水関を張魯にあけわたすようなまねをすれば、投降した白水関の将兵たちは、劉備に不信をつのらせよう。
「白水関には一千ほどの兵を残しておけばよろしいかと」
「それで足りるだろうか」
「野戦に打って出るわけではないのです。良将が指揮をとれば、堅城とはそう簡単には落ちないものです。だからこそ、楊懐と高沛を、先に始末しておかねばならなかったのですが」
「ふうむ、良将か……。誰がよいと思う?」
「葭萌関には、ひきつづき孔明と趙雲どのを。白水関には霍峻どのがよろしいかと」
霍峻は元劉表の臣である。
劉表の死後、後継者の劉琮が曹操に降伏したことに納得がいかず、劉備に仕えるようになった。
龐統はつづけて、
「物資をたくわえているのが葭萌関であることは、張魯も知っているはず。まずは葭萌関に攻め寄せてくるでしょう。そこで、劉備軍手強し、と印象づけておけば、張魯が様子見にまわる可能性も高くなるかと存じます」
「うむ、よかろう」
劉備はうなずくと、白水関に霍峻と一千の兵を残して、葭萌関に引き返した。
帰還するなり、龐統は諸葛亮に、
「悪いな、孔明。また留守番をさせてしまう」
と、いたずらっぽく笑いかけた。
「それはかまわない」
諸葛亮は苦笑を返しながら、
「士元と法正どのがいれば、軍略に不足はないだろう」
益州の地理にくわしい龐統と法正のほうが、各地の城を攻め落とすには適任であろう。
それに、後方支援も重要な役割である。
「だが、白水関を簡単に落とせたのは、指揮系統が失われていたからだ。これからはそうもいくまい」
諸葛亮の危惧に、龐統は余裕の笑みを浮かべて答えた。
「わかっている。気をつけるさ」
かすかな違和感が、さざ波となって諸葛亮の胸に広がった。
龐統が見せる余裕が、どこか軽はずみであるように感じられたのである。
ただの思い過ごしだ。
諸葛亮は芽生えた不安を打ち消した。
華々しい活躍の場を得た龐統に、嫉妬してしまっただけにちがいない。
利己的な感情を排して、陣容を見直す。
戦歴豊かな劉備と張飛を、切れ者の龐統と法正が補佐する。
諸葛亮が心配するようなことは、どこにもないはずであった。
余計な心配をするより、自分の職務に注意を払うべきであろう。
わずか二千の兵で、葭萌関を堅持しなければならないのである。
諸葛亮の意識は、張魯軍が牙を研いでいるであろう、漢中郡にむけられた。




