第一五六話 決裂
曹操がより大きな権力を欲すれば、より大きな反発が生じ、孫権が豪族に歩み寄ってみせれば、豪族がそれに応えようとする。
君主の姿勢は、とかく領内に映しだされるものである。
とくに力の論理が支配する乱世において、その傾向は顕著となる。
劉璋が統治する成都は、不安に揺れていた。
益州の豪族たちは口々に噂する。
「おい、聞いたか。また葭萌関から使者が来たそうだ」
「また呂岱どのだろう。気持ちはわかるが、あんな要求を受け入れられるはずがあるまい」
曹操が、孫権征討を号して濡須口に軍を進めた。
これを知った孫権の家臣・呂岱は、主君のもとへ帰参するために軍船を貸してほしい、と劉璋に申し出てきたのである。
「ああ、とんでもない話だ。ここで軍船を貸してみろ。我々まで曹操軍と敵対することになってしまう」
「軍船を貸しだせば明確な敵対行為になる。いくら劉璋さまでも、そのくらいはわかっていよう」
「いくら、とはひどい言い草ではないか?」
「思い出してみろ。劉備どのに加えて孫権どのまで味方してくれる、と浮かれていた我らが主君の姿を」
「うむ……。そもそも、よそ者をあてにすべきではなかったのだ。劉備軍を招き入れた時点で、曹操軍と敵対する可能性が高くなるのは当然ではないか」
不満をつのらせる劉璋の家臣たちであったが、それならば劉備軍を招き入れると劉璋が決断したときに、より強硬に反対していればよかったのである。
傍観者を気取っていた彼らは、それが事態を悪化させたにもかかわらず、いまでは評論家を気取っていた。当事者意識を欠いているのは、曹操軍が攻めているのが、益州から遠い揚州の地であったからかもしれない。
彼らとちがい、劉璋は当事者意識だけは持っていた。持たざるをえなかったともいえる。
口さがない家臣たちの想像を上まわる、より深刻な事態に、劉璋は直面していたのであった。
「父上、どうなさいましたか?」
劉循が問うと、劉璋は眉を曇らせながら、二通の書簡を差しだした。
葭萌関からやってきた使者が、たずさえていた書簡である。
一通は呂岱からのもので、あらためて軍船を貸してほしいとのことであった。
とうてい受け入れられる要望ではない。
だが、劉璋は不快に思わなかった。
呂岱は、主家の危機に馳せ参じようと手を尽くしているだけである。
むしろ、見あげた心意気であろう。
温厚な劉璋を苛立たせている原因は、もう一通の、劉備からの書簡にあった。
そこには呂岱への口添えにとどまらず、窮地の孫権を救うために劉備軍も江東へむかいたい、としたためられていたのである。
そればかりか、曹操と戦うために、兵や武器をさらに供出してほしい、とまであった。言語道断というしかなかった。
「劉備どのはなにを考えているのだ!?」
劉璋は声を荒らげた。
「同族の私を見捨てて、孫権どのを救いに行こうというのかッ!?」
動揺を隠しきれずに劉璋は取り乱した。
劉循はいささかわざとらしく首を振って、
「劉備の正室は、孫権の妹だそうです。我々と孫権、どちらが劉備と関係が深いかといえば……」
「だが、私は劉備どのに兵を貸している。武器も供与したし、兵糧だって負担しているのだぞ」
「そうおっしゃられても、判断するのは劉備です。我々を助けて張魯と戦うより、孫権を助けて曹操と戦う。それが劉備の選択なのでしょう」
「むむ……」
劉璋は頭を抱えたくなった。
張魯の城をひとつも落とせないまま、劉備軍は去ろうとしている。
このままでは、わざわざ交州から招き入れたことも、多くの物資を提供してきたことも、なにもかも無駄に終わってしまう。
「父上。これだけ支援しているにもかかわらず、劉備たちはいっさい成果をあげておりませぬ」
「うむ」
まったく同じ思いであったから、劉璋はうなずいた。
「思えば、劉備を客将として迎え入れた陶謙、袁紹、劉表はことごとく滅んでいます」
「……たしかに」
「劉備は人の形をした厄なのかもしれませぬ。少なくとも、争乱の要因となっているように思えます。劉備とともに滅びの道を歩むわけにはいきませぬ」
「だが、劉備どのを招き入れたのは私だ……」
劉璋はささやかな抵抗を試みた。
ここで劉備との関係を清算すれば、劉璋の決断がまちがいだったと認めることになる。
「父上が失敗したからといって、いまさらどうだというのです。あの曹操ですら何度も失敗しています。劉備だって失敗をくり返しているではありませんか。劉備の書簡は、誰の目にも礼を欠いています。むこうから我々との関係を断とうとしているのです。ここで劉備の袖にすがりつくようなまねをすれば、家臣たちに示しがつきませぬ」
息子の言葉は、劉璋の胸にひびいた。
だが、劉備との関係を断てば、それを口実にして、劉備軍が成都に攻め寄せてくるかもしれない。
百戦錬磨の劉備軍は、張魯軍よりもおそろしい敵となろう。
もし、劉備と張魯が手を組んだら……。
さらにおそろしい想像が脳裏をよぎり、劉璋はふるえあがった。
劉備軍を招き入れたことによって、とんでもない状況を生んでしまったのである。
後悔に苛まれながら、それでもやはり、劉璋は決断できずにいた。
その二日後のことである。
劉璋の私室に、家臣の張粛がやってきた。
張粛は室内に足を踏み入れるや、だしぬけに平伏した。
「おお、どうしたのだ、張粛?」
顔をあげずに、張粛は答える。
「この張粛、心の底から劉璋さまに忠誠を誓っております。二心を抱いたことなど、断じてございませぬ」
「うむ? けっこうなことである」
「ですが、世のなかには、不届きな輩もいるものでございます」
「……」
劉璋は沈黙した。
どうも、きなくさい口ぶりであった。
張粛は、不届きな輩がいると告げようとしているのだろうか。
「弟の家で、このような書簡を発見いたしました」
張粛は、懐から一通の書簡を取りだした。
彼の弟といえば張松である。
「どうか、お心をおしずめくださいますよう」
劉璋は書簡を受けとった。
張松が書いたとおぼしき書簡は、劉備宛のものであり、益州にとどまるよう、懇願するものであった。
ここで揚州に行けば、いままでの努力が水の泡となってしまう。
益州の主となる絶好の機会を、みすみす手放してはならない。
劉備の大望のために、益州は必要不可欠な地ではないか。
読みすすめるうちに、劉璋の顔色は、青に赤にと目まぐるしく移り変わった。
「こ、これはどうしたことだッ!? 張松は、私を裏切っていたのかッ!?」
疑惑は真実だったのである。
「あれは心根の卑しい男でございます」
苦々しげな張粛の声は、劉璋の激情をいくぶんやわらげる効果があった。
激高はおさえきれぬにせよ、怒りをぶつけるべき相手は張粛ではなかった。
「……おお、張粛。よく知らせてくれた」
張粛はおそれいって、
「私としても弟を告発するのは心苦しいのです。ですが不忠の家となるのは、それ以上に耐えがたいことでございます」
「うむ。おぬしの忠心はよくわかった」
「どうか……どうか一族に累がおよばぬよう」
「わかっておる」
劉璋はうなずいた。
張粛は忠臣である。処刑するのは惜しい。
連座させるのは、張松の家族のみで十分であろう。
劉璋は烈火のごとく眉を逆立て、近侍の者たちに命じた。
「張松を引っ捕らえよ!」
劉備との関係をどうすべきか。
決断する必要は、すでになくなっていた。
劉璋が決断するまでもなく、敵対するよりほかに道は残されていなかったのである。




