第一五五話 陸遜
曹操が濡須口にいようと、荊州の曹操軍が動かないわけではない。
むしろ、濡須口の本軍と連携した動きをする、と予想すべきであろう。
だが、孫呉水軍の再建が果たされたいま、陸議は西の守りを悲観的に見ていなかった。
曹操軍の脅威をはかるうえで、なにより重要なのは、曹操がどこにいるかである。
隴右では、ついに馬超の命運が尽きようとしている。
夏侯淵率いる曹操軍の物量に、じわじわと追いつめられているようだが、もし、曹操が指揮をとっていたら、馬超はとうに滅ぼされていたはずだった。
夏侯淵、曹仁、張遼……。名将ぞろいとうたわれる曹操軍だが、曹操とそれ以外のただの名将とのあいだには歴然とした差がある。
そこに差を見いだしている自分の特異な才能を自覚せずに、陸議は信頼を寄せる将の名をあげた。
「荊州の水軍がどう動こうと、魯粛どのや、呂蒙どのであれば、まあ、なんとかしてくれるでしょう」
陸口・柴桑方面の守りについている彼らであれば、荊州の水軍に後れを取りはしまい。
「おまえは楽観的に見ているのだな」
孫権は頬をゆるめた。
「曹操がふたりいるわけではありませんから」
ふたりいたら、お手上げである。
まあ、それならそれで、曹操同士で争いはじめるような気もするのだが。
「なるほど、最も手ごわい曹操は、こちらが引き受けるのだ。それに、荊州に攻めこんで勝ってこいと要求しているわけではない。防備をかためて守り抜けばいいだけのことだ。魯粛たちなら、それくらいはやってのけるだろう」
もし、孫権軍が得意とする水戦で、曹操がいない曹操軍の侵攻をふせげないのであれば、それは戦う前から勝敗は決していたということである。いまさらじたばたしたところで、どうしようもない。
諦観も覚悟もそれなりにあるのだが、それが悲壮の色につながらないのが陸議という男である。
鈍感なのか泰然としているのか、判別しかねるといった表情で、孫権は訊いた。
「陸遜、例の策はどうなっている?」
「はっ、万事つつがなく」
陸議は、曹操軍を自壊させるための策を出していた。
例によって、曹操軍中に疫病を蔓延させようとしているのだが、濡須口は烏林のような劣悪な湿地帯ではない。より人為的な手段を用いなければ、ただの神頼みとなってしまう。
そこで、陸議は商人を利用するよう提案した。
遠征先で慣れないものを食べて、腹をくだす兵士はめずらしくない。食べ慣れないものは、毒にもなりうる。北から呉郡に移住してきた人々に訊いたところ、とくに魚や貝にあたって苦しんだ者が多いようだった。
そうした食材が、商人の手によって曹操軍に持ちこまれたなら、戦わずして、北の兵士たちの腹に打撃をあたえられる。体調を崩し、衛生状態も悪化すれば、当然のように、病が蔓延する可能性も高くなる、といった寸法である。
現地の住民が日常的に食べているものだから、商人が怪しまれるおそれもなかった。
「うむ。曹操軍を内部から崩壊させる策も、順調のようだな」
孫権は不敵な笑みを浮かべた。
周囲の耳目を集めているため、堂々としていなければならないのである。
そんな大仰な策でもないので、陸議は少々気恥ずかしくなった。
「陸遜。この戦に勝利したら……。私の姪を嫁にもらってくれぬか?」
孫権の話は唐突、ではなかった。
以前から、陸議と孫策の娘との婚姻は検討されていた。
ここでその話を持ちだしたのはなぜか?
孫権の心中と苦労を、陸議は察した。
忠誠を尽くす家臣と、それに報いんとする英邁な主君。
いかにも美しい、あるべき光景を、将兵たちの前で示そうとしているのだろう。
陸議が率いる兵は、孫権からあずかったものではない。
陸議自身の部曲(私兵)である。
彼のように、自身の部曲を率いて戦に参加する豪族は少なくなかった。
孫権と江東の豪族たちとは、共存共栄関係にある。
豪族たちは、孫権によって部曲の所有を認められている。その兵力によって私領を守り、山林を開拓し、あるいは山越族との戦いにそなえる。
こうすることで、山越族が侵略してきても、豪族たちは各々の部曲によって、迅速に私領を守ることが可能となる。
孫権としても、いざというときに豪族たちの部曲を動員することで、自分が維持できる限界を超えた大軍勢を動かせるようになる。
ただし、自分の兵ではないゆえに、思うがままに動かせるというわけではなかった。
豪族たちとの協力体制は、孫権により大きな力をもたらす一方で、彼の君主権力の独立性をそこなうものでもあった。
豪族の機嫌を取りながら、江東に君臨する。
豪族を立てなければならない。しかし、主君は自分なのだと示さなければならない。
孫権は、巧妙な舵取りが要求される、なかなか複雑な立場にいるのだった。
陸議のことを、親しげに陸遜と呼ぼうとするのも、そのあらわれであろう。
陸遜という名が広まれば、孫権こそが上位者なのだという認識も強まるであろうし、その程度であれば、陸議の気分を害したとしても冗談の範疇で済ませられる。
陸議も、豪族の代表者のひとりとして、どうふるまうべきかを考えなければならなかった。
曹操という巨大な外敵を打ち払うために、江東は一丸とならねばならない。
孫権が、姪を嫁がせると表明して、歩み寄る姿勢を見せているのだ。
それに応えてみせなければならなかった。
「ありがたきお話でございます。ならば、その婚姻を機に、私は陸遜と名を改めることにいたしましょう」
「そうか!」
陸議の決心を聞いて、孫権は相好を崩した。
だが、陸議は顔をしかめた。我慢の限界が急速に近づいていた。
「……孫権さま」
「うむ?」
陸議はなにかをこらえるような表情で、うやうやしく一礼した。
「ちょっと厠に行ってきます」
異音を立ててうなる腹をおさえながら、陸議は孫権の前を辞すのであった。
※
陸議が陸遜に改名したのは、建安十九年(二一四年)のことである。
陸議は広陵を偵察していた際に、胡昭の弟子である鄧艾と石苞に出会った。この機会を活かして、胡昭と知己になろうと考えたが、身分を隠している最中だったため、陸遜と名乗った。この偽名には、孫権に仕える陸家の者という意味があったといわれている。
このことを知った孫権は、陸遜という名をたいそう気に入って、陸議のことをたびたび陸遜と呼ぶようになった。
呉郡の大姓である陸議が陸遜と名乗るようになれば、孫権による江東の支配は安定すると考えた陸議は、孫策の娘を娶るのとほぼ同時期に、陸遜と改名したという。
陸遜 wiikiより一部抜粋




