第一五四話 建業
苦難の連続だな、と陸議は思った。
自分自身についてではない。孫権のことである。
赤壁の敗戦によって、孫呉水軍は大打撃を受け、周瑜をも失った。
もはや、ひざを折る以外に、滅亡をまぬがれるすべはない。
そう判断した孫権は、曹操に臣下の礼を取った。
屈辱をのみこんでむすんだ和睦は、水軍を再建するための時間稼ぎであったが、それは曹操も見透かしていたのだろう。
和睦は破られ、楽進を総大将、李典を副将とする曹操軍が、江水以北の孫権領を侵犯した。これら廬江郡・九江郡の旧孫権領は、いまや曹操領となっている。
内憂外患というように、外に曹操という巨大な患があれば、内に憂えるべき諸問題は、枚挙にいとまがなかった。
部下の離反に、領内の反乱、異民族との抗争。そうした予想されてしかるべき問題はともかくとして、程普、張紘といった重鎮が立てつづけに逝去したのである。
程普は、孫権軍の柱礎ともいうべき人物だった。
出陣の準備に追われていると、兵士たちのつぶやきが聞こえてくる。
「周瑜さまはもういない。黄蓋さまも、程普さまも……」
「こんなんで曹操軍と戦えるのかよ……」
兵士たちの不安の声に、陸議も同感だった。
赤壁の戦い以降、陸議は戦におもむく機会が多くなった。それなりに実戦経験は積んできたのだが、敵が曹操軍だと考えると、精神的負荷は圧倒的なものがあった。
……そういえば、腹に違和感というか、わずかに鈍痛がある。朝餉をたらふく食べたからだろうか。出陣の日だからという理由で、食事の量がいつもの倍くらいあったのだ。
いまひとりの張紘は、若い孫権の補佐に尽力した北来の名士であり、張昭にも比肩する声望があった。
楽進らに領土を侵犯されたとき、張紘はこう建議した。
「治所を秣陵に移すべきかと存じます」
孫権が本拠地としていたのは、揚州呉郡の呉県であった。
だが、孫権は呉県にとどまってはいられなかった。
曹操軍の動きに即応するために、江水に面した豫章郡の柴桑、呉郡の京口を転々としなければならなかったのである。秣陵も江水沿いにある。
張紘の提案を、孫権は受け入れた。
「張紘の提案は理にかなっている。首府を北に移転したほうが、なにかと都合がよい」
本拠地を長く留守にしているのはよくない。
孫権が南へ帰れないのなら、本拠地のほうを北に移転してしまえばよい。
建安十六年(二一一年)、孫権は秣陵に本拠地を移した。
そして、翌十七年、張紘は逝った。六十歳だった。
彼は孫権に遺書を残した。次のようなものだったという。
『古来より、国家が往々にして治まらないのは、忠臣や良将がいないからではありません。君主が好き嫌いで家臣の意見を採用してしまうからなのです。忠臣の耳障りな助言を聞き入れず、その間隙に、巧言を弄する悪人が入りこんでしまうからなのでございます。巧言令色鮮なし仁、といいます。君主たる者、忠臣の忠言を辛抱強く受け入れ、感情を抑制し、仁義によって大業をなしとげなければなりません』
孫権は涙した。
「秣陵という名は、この地にふさわしくない。これより、ここを建業とあらためる」
かつて秣陵は、金陵という名だった。
水利に恵まれ、険しい丘陵地形が防衛に適した、王者の気が立ちのぼる地とされていたそうだ。
それを忌み嫌ったのが、秦の始皇帝である。
楚国に王者の地があるとは許すまじ!
始皇帝は、丘陵の一部を切り崩して、金陵を秣陵に改名した。
この地で暮らす人々からすれば、始皇帝こそ忌み嫌うべき存在である。
たしかに、秣陵という名に、こだわるほどの価値はない。
建業、悪くない名だ、と陸議は思う。志と誇りが感じられる名だ。
出陣のあいさつをするために、彼は主君のもとへ急いだ。
孫権の姿はすぐに見つかった。身をのけぞらせ、大笑いしている。出陣間近の将兵と、冗談でも交わしているのだろう。
近づいていくと、陸議の存在に気づいた孫権は、みずから歩み寄ってきた。
「おお、陸遜、おまえもいよいよ出陣か」
「また、その名ですか」
陸議は苦笑した。
近ごろ、孫権は陸議のことを陸遜と呼ぼうとする。
原因は孔明の手紙にあった。
陸議が、広陵郡南部の偵察に出たときのことである。
陳登の肝いりだという藷蔗畑の邑を訪れた陸議は、そこで孔明の弟子たちと遭遇した。
つきがある、と思った。
ここで彼らと知己になっておけば、孔明との縁も生まれるであろう。
だが、敵地を偵察中の身だ。身分を明かすのはいかにも軽率だった。
彼はとっさに、陸遜という偽名を名乗った。
遜のひと文字は、上に孫という文字をいただいている。
孫家に仕える陸家の者、という意味を込めたつもりだった。
かの孔明先生であれば、その意図を見抜いて、手紙を送ってくるかもしれない。
期待どおりに、孔明は手紙を送ってきた。そこまでは問題なかった。
孫権がその手紙を検閲したことも、まあ、想定の範囲内ではあった。
そのあとが問題だった。
「陸議、どうして陸遜と名乗ったのだ?」
陸議に手紙を手渡しながら、孫権は問うた。
事情を説明すると、孫権は呵呵大笑した。
「あっはっは! なるほど、それで陸遜か。よい名ではないか」
それ以来、孫権はことあるごとに、陸議を陸遜と呼ぶのだった。
「陸遜。曹操軍は寿春を通過し、南をめざしている。おまえが見立てた三方の道のなかで、一番消極的な道を選んだ。ありがたいことにな」
周囲の者に聞こえるように、孫権はいいはなった。
将兵たちを鼓舞しようとしているのだろう。
となると、陸議も堂々と応じてみせるしかない。
「曹操軍は濡須口に本陣を置くつもりでしょう。ならば、我がほうの勝利は揺るぎませぬ」
陸議が見立てた三方の道とは、西の荊州方面、北西の濡須口、北の広陵である。
このうち、最も警戒しなければならないのは、西の荊州方面からの侵攻であった。
上流から、曹操軍の水軍が大挙して押し寄せてくれば、孫権軍の苦戦は必至である。
だが、曹操は荊州方面の道を選ばなかった。
理由はおそらく距離にある。
江夏では、水軍の規模が足りない。江陵に移動して、そこから船で江水をくだるとなれば、移動距離が長くなり、日数もかかる。さらに、北の兵士が不慣れな船旅をしなければならない。
その点、濡須口は最も移動距離が短い。しかも、道中では、曹操の本貫地である沛国の譙県を通過するため、比較的安全に移動できる。これは、許都で異変が生じた場合に、すばやく引き返せるという利点もあった。
ちなみに、曹操が広陵を選ぶ可能性は低い、と陸議は見ていた。
曹操は徐州の民に嫌われている。わざわざ嫌われている場所に足を踏み入れ、後背に不安を抱えている場所に、本陣を置く必要もあるまい。
それでも三方といったのは、広陵方面から攻めてくる可能性も皆無ではなかったからであり、孫権が江陵の陳登との対決を望んでいたからでもあった。
いうなれば、耳あたりのよい言葉を口にしてしまったのであって、平然と諌言できる張紘や張昭の度胸がうらやましい。張昭あたりは、陸議の見立てに眉をひそめていたのかもしれない。
その張昭も、今回は降伏論を唱えようとはしなかった。
和睦を反故にした曹操は、すでに信用できる相手ではなくなっている。
「曹操軍十余万といえども、濡須口に大量の軍船があるわけではありません。まあ、なんとかなるでしょう」
陸議が彼なりに前向きな意見を述べると、孫権は声を落として、
「大量の軍船か……。やはり、荊州の曹操軍の動きが気になるな」




