第一五三話 曹操の軍師論
「ひさしぶりに、荀彧の顔を見たような気がするな」
荀彧と孔明が去ると、曹操はつぶやいた。安堵の声であった。
「胡昭どのはともかく、荀彧どのとは、たまに顔をあわせておられるのでは?」
賈詡は、いぶかしげに眉をひそめた。
「それはそうだが、お互い忙しい身だ。伝達すべきことが多すぎて、腹を割って話したのは、いつ以来だったか……」
曹操の本拠地は鄴であり、荀彧は許都をはなれられない。
この距離が最大の理由ではあるのだが、彼らが会う機会はかぎられており、私的な会話を交わす時間などなかったのである。
伏皇后の一件にしても、私的な会話とはほど遠かった。
それでも、荀彧が自分の手に負えそうにないと白状したことで、彼の存在を、曹操は身近に感じていた。
「それにしても、意外でございました。伏皇后とその一族について、荀彧どのが甘い裁定を願い出ることは予期していましたが、まさか、あのような謀略を献策してくるとは」
じつは曹操も意外に思ったのだが、それは隠したまま問いかける。
「漢室に対して冷淡すぎる、と思うか?」
「それもありますが、荀彧どのにしては……過激すぎる謀のようにも感じられました」
「ふふふ、正論をいうばかりが荀彧ではないぞ」
曹操は低く笑った。
賈詡が荀彧に対して抱く印象は、正当なものである。
だが、それがすべてではなかった。
賈詡が曹操に帰順するより前、曹操が天子を推戴するより前、荀彧は軍師だったのだ。戦場に立つこともあれば、謀略を駆使することもあった。きれいごとが通用しない、生死を賭した場所を、荀彧も生き抜いてきたのである。
「アレは責任を感じているのだ。このままでは許都の不穏分子をおさえきれない。そう判断したからこそ、あのような策を上申してきたのであろうよ」
「責任感ゆえ、でございますか」
「賈詡よ。もし、『皇子たちの身柄を最大限に利用する策を考えろ』と、余が命じたら、おぬしも似たような策を考えついたのではないか?」
試すような問いに、賈詡はわずかにためらってから、口をひらいた。
「……おそらくは。私は、胡昭どのほど鮮卑や烏丸の内情にくわしくありませぬゆえ、まったく同じとまではいかなかったでしょうが」
「過激な策であろうが、悪辣な策であろうが、おぬしが考えるようなことは、荀彧も考える。逆に、荀彧が考えるようなことは、おぬしにも考えつくであろう。そこに差はあるまい。おぬしたちに、ちがいがあるとすれば、それは頭脳ではなく、姿勢によるものだ」
「…………」
無言の賈詡に、賈詡らしさを感じながら、曹操はつづける。
「賈詡、おぬしは慎重な男だ。他者との軋轢をさけるため、出過ぎないようにつとめている。余に反対するときも、最小限の発言しかしまい」
「荀彧どのはちがいますか?」
「荀彧は、立場と責任を優先させる。自分がなすべきこと、余がなすべきことを考え、必要と判断したなら、余の意向と正反対のことであろうと直言してくる。それが、差し出がましいことだと自覚していようとな。……必要ないと判断したなら、おぬしと同様、余計なことは口にしないのだが」
淡々と論じるうちに、曹操は過去を振り返らざるをえなかった。
「賢者は、舌が災いを招くことを知っている。おぬしや荀彧がそうであるように、口を慎もうとするものだ。だが、郭嘉が生きていたら、余が訊ねるまでもなく、荀彧が必要にせまられるまでもなく、同じような策を提案してきたであろうよ。アレは慎むという言葉とは縁がない男だったからな……」
賈詡も荀彧も、身を慎み、口を慎もうとする。
それが身を守るためであり、良識でもあるからだ。
そうした消極的な姿勢と、郭嘉は無縁の男であった。
どちらが正しい姿勢かといえば、賈詡や荀彧のほうであろう。
だが、誰もが曹操の行動を急進的と見なして諫めようとしてくるなか、ぽんぽんと策を投げつけてきて、「もっと急げ、もっとやれ」と急きたててくるような軍師は郭嘉だけであった。
今回の件にしても、郭嘉であれば、もっと早い時期に、同じような献策をしてきたにちがいなかった。
もっと早くに、伏皇后とその一族の処分が定まっていれば、曹操と荀彧のあいだに緊張が生じることもなかったであろう。
潜在的な脅威をはかれば、馬超、孫権、劉備よりも、荀彧は危険な存在である。
曹操の最大の敵は漢朝であり、それを監視し、統制しているのは荀彧である。
しかも、彼は、漢朝をささえる名士たちのまとめ役でもあるのだ。
荀彧が反旗をひるがえせば、天子と許都は曹操の手をはなれる。
そして、それに同調する者が、曹操軍内部にすら続出するおそれがあった。
心情的に荀彧を疑いたくはなかったが、曹操には、その脅威を無視することはできなかったのである。
「慎むといえば、胡昭どのの行動も意外でございました。このような話には関わらないようにしていると思っておりましたが」
賈詡の疑問は、曹操の諧謔心を刺激した。
笑いの衝動をこらえて考える。
なるほど、賈文和と胡孔明は、ある意味正反対の賢者といえる。
賈詡は何度も主君を変えてきた謀士であり、張繍に策を献じて、曹操の長男である曹昂を討ち取ったことすらあった。
自分の能力と経歴が、疑念の対象となりやすいことを知っているのだろう。彼は、有力者との交流をさけ、親しい友人をつくらないようにしているようであった。
一方で、孔明は誰にも仕えず、無位無官であるがゆえに、何物にも束縛されずに行動しているように見える。
曹操は口元をゆるめて、
「余と漢朝の争いに口を差しはさむつもりなど、胡昭にはなかったであろうよ」
「それでは、なぜ?」
「アレは荀彧の身を案じていただけにすぎん。余と荀彧の意見がくいちがっていることを知り、それが深刻な事態を招くのではないかと危惧したのだ。おおかた、荀彧が相談したのであろうよ」
曹操も人である。孔明の心境は洞察できても、きっかけが司馬懿の手紙だったことまでは推察しようがなかった。
ふいに、曹操はこめかみをおさえた。持病の頭痛に襲われたのだ。
賈詡が気づかわしげに眉をひそめて、
「そういえば、自分は保証人であると、胡昭どのは発言していましたな」
「そういうことだ。おかげで、もう荀彧を疑わずにすむ」
曹操は、荀彧から尚書令の座をはく奪するつもりだったのである。
別の人物を尚書令にすえてしまえば、荀彧の朝廷における存在感はうすれる。
名士社会における影響力も低下するであろう。
だが、曹操の懸念は、無用の長物であった。
あれほどはっきりと、漢朝の力を削ぐための策を上申してきたのだ。
もはや、荀彧を疑う必要はあるまい。
「これからも漢の尚書令の座は、荀彧にまかせておけば問題なかろう」
「荀彧どの以上の適任者はおりませぬ……」
賈詡の表情と声に、不明瞭なものを、曹操は感じとった。
「なにか、いいたそうだな、賈詡」
賈詡はためらいながらも、
「……胡昭どのは、すでに漢朝を見かぎっている様子。召し抱えることも、けっして不可能ではないと思いますが」
「これでよいのだ」
半ば自分にいい聞かせるために、曹操は断言した。
「もし、胡昭が漢の尚書令となったとしても、荀彧を超えるはたらきができるわけではない。余の幕僚となったとしても、おぬしを超えるはたらきができるわけではない。そして、ほかの誰が野に在ろうと、胡昭に匹敵するはたらきができるとは思えぬ。これでよい」
「残念です」
賈詡は顔を曇らせたが、曹操はつとめて鷹揚に応じる。
「なに、残念がることはない。胡昭が民を救いたいのなら、結局は力強い国家が必要になるのだ。余がめざすものと、なにも変わらぬ」
この国を力強く生まれ変わらせることにおいて、曹操以上の者はいない。
曹操が覇者の道を歩みつづけるかぎり、孔明は曹操の味方でありつづけるであろう。
漢朝打倒後も、永く戦うことになるであろう、北方異民族を視察してきたように。
劉巴や荀彧の相談に乗ったように。
そういえば、孔明は儒教の解釈にも一石を投じて、その変容をうながしている。
まるで、漢が定めた現行の儒教が絶対ではないのだ、と主張しているようではないか。
この動きは、硬直した儒教一尊体制を打破しようとしている曹操にとって、いうまでもなく、追い風であった。孔明が吹かせた風を、背中にしっかりと受けとめて、曹操は力強く進んでみせなければならなかった。
「歩む道はちがえど、同志は同志、でございますか」
と、賈詡は納得してみせた。
「余は、この道を粛々と歩むだけのことよ」
笑みを浮かべようとして、曹操はふたたびこめかみをおさえた。
年々、痛みは、はげしくなっている。
頭痛が思考をさまたげ、老いゆく肉体が長期の出征をはばもうとする。
残りの命数を、意識しないわけにもいかなかった。
宿敵・袁紹も、このような思いをしながら戦っていたのであろうか。
大業をなそうと思えば、敵が多くなるのは必然である。
外に、はむかう群雄がいる。
内に、曹操を排除しようとたくらむ朝廷がある。
さらには、彼自身の肉体までもが牙をむいてくる。
曹操が歩んでいる道は、誰よりも敵が多い道である。
なるほど、荀彧のいうとおり、平穏な日など死ぬまで訪れまい。
むろん曹操は、創業半ばにして折れるつもりもなければ、ならび立とうする何者の存在も、許すつもりはなかった。
「何人たりとも、余の前を歩くことはおろか、追随することも許さぬ」
建安十八年、冷気をともなう西北の風を背に、曹操軍は許都を経由して、濡須口 に進軍する。
母なる江水の川面を、ふたたび血風が吹き荒れようとしていた。




