第一五〇話 死亡フラグをもって死亡フラグを制す
曹操の顔を正面から見すえて、荀彧は口をひらいた。
「曹操さまの排除・暗殺をくわだてていたことが発覚した以上、伏皇后に死をまぬがれる道は残されておりません」
「密書という物証もあるのだ。議論する余地などあるまい。伏皇后を生かしておけば、余をあなどる者が出てくる」
曹操は当然のようにうなずいた。
そりゃそうだ。自分の娘を皇后に据えようとしている曹操にしてみれば、伏皇后の排除は必要不可欠である。
荀彧もそれはわかっているから、伏皇后の助命を願い出ようとはしない。
「ですが、伏皇后の一族に対しては、寛大な処罰を――」
「ならん」
荀彧がいい終わるのを待つまでもなく、曹操は一刀のもとに斬り捨てた。そして、いかにもおもしろくなさそうな表情と声で、
「董承の一族は処刑したではないか。伏皇后の一族にだけ、恩赦をあたえてやる理由などなかろう」
「理由ならばございます」
「ほう……?」
曹操は、聞くだけなら聞いてやろう、という顔をした。
「董承は実際に同志を集めて謀議をはかっておりました。ですが、伏完どのは、曹操さまを害そうとはしていなかった。伏皇后の不満を、身内の範囲におしとどめたという見方もできます。これで同じ一族郎党皆殺しでは、いまは亡き伏完どのが浮かばれませぬ」
「亡者の気持ちをくんで、政をおこなえというのか?」
吐き捨てるようにいうと、曹操は眉をゆがめて、非難と拒絶の視線で荀彧をにらみつけた。
「考慮すべきは、民の気持ちであります」
苛烈な眼光を平然と受けとめて、荀彧は訴えかける。
「よくいえば寛容、悪くいえば規律のゆるんだ漢朝の政に、民草は慣れきっております。為政者の都合によって統治方針が変われば、その変化が急激であればあるほど、ついてこられずに逃亡する者が続出するでしょう」
「流民が増える、か……」
曹操の口から、苦々しげな声がこぼれでた。
流民が増えれば国家は揺らぐ。為政者として看過できる話ではないはずである。
顔をしかめる曹操に、荀彧はしずかな口調で、
「戸籍人口の大幅な減少によって、漢の衰亡は決定づけられました。同じ轍を踏んではなりませぬ。法令や刑罰の厳格化は、大いにけっこうでございますが、それはあくまで統治手段であり、結果として、流民が増えてしまっては元も子もありませぬ」
「漢朝が標榜してきた徳による統治は、官の腐敗ととなりあわせだ。そんなものを継承してたまるものか」
曹操は嫌悪と侮蔑を隠そうともしなかった。
実際、曹操のいっていることは正しい。
恩赦を乱発すれば、法規はないがしろにされ、社会は混乱する。
漢朝の徳治によって生じた腐敗は、曹操の忍耐の限度を越えてしまっているのだろう。
「寛容な政を否定するのではなく、それらを飲み干し、内包したうえで、法の整備を進めていかなければなりませぬ」
荀彧の主張は、ある意味、正反対の見方によっている。
曹操の改革速度は、社会が受容できる限度を越えてしまっている、というものである。
「賈詡、おぬしはどう思う?」
曹操が参謀に問うと、賈詡は小さく咳払いをしてから、荀彧に問いかけた。
「荀彧どの。死罪とするのは伏皇后当人のみ。彼女が生んだふたりの皇子を含め、一族は助命すべきである、と私の耳には聞こえましたが」
荀彧はうなずいて、
「さよう。皇子たちまで処刑すれば、曹操さまの下した処罰に、庶民はおそれおののき、士大夫たちの反発の声はふくれあがるでしょう」
「……なるほど」
荀彧の言葉を噛みしめるように、賈詡はあいづちを打つと、小さく息を吐いてから、
「理念は上策、手段は下策、というしかありませぬ」
そう断言した。
「たしかに、曹操さまが推し進めている改革には、性急すぎるきらいがあります。変化をゆるやかにすることで、流民の発生を抑制できるであろうという点は、私も同意いたします。しかし、皇子たちを生かしておくわけにはいきますまい。彼らからすれば、実の母を処刑した曹操さまは、報復の対象以外のなにものでもございません。生かしておけば、彼らの存在そのものが、大きな禍根となるでしょう」
「賈詡の言こそ、もっともである。皇子たちを助命してやったところで、彼らが余に感謝するはずもあるまい」
曹操は大きくうなずいた。
ふ、ふふふ……。くっくっく……。
だ、だめだ、まだ笑うな……。こらえるんだ。
このときすでに、私は荀彧の勝利を確信していた。
曹操と賈詡の反応は、私と荀彧が想定した範囲内に、見事におさまっていたのである。
保証人を名乗り出るくらいだから、もちろん、私は荀彧の策をあらかじめ知っている。なんなら相談を受けていっしょに考えたといえなくもない。
まあ、ほとんど考えるのは荀彧で、私はあいづちを打ってるだけだったような気がしなくもないが、それはともかくとしてだ。
荀彧は皇子たちに同情しているわけでもなければ、人道上の理由から助命を願い出ているわけでもない。
民衆が曹操に対して抱く、冷酷無比な支配者というイメージを、払拭しようとしているだけなのだ。
つまり、荀彧が皇子たちを生かそうとしているのは、あくまで曹操の人気取りのためである。当然のことながら、彼らが曹操に対して抱くであろう恨みも、計算のうちにある。
曹操の顔を正視して、荀彧は落ち着いた声音で言葉をささげる。
「生かしておけば火種となることも考慮したうえで、皇子と伏皇后の一族は助命し、旧幽州の北部に流刑とすべきである、と私は考えております」
「火種になるとわかっているのなら、さっさと消したほうが得策であろう。僻地に送れば、僻地でくすぶるだけではないか」
生かしておくのは危険だから処刑する。曹操の答えは、独裁者にふさわしいものだったが、それでも、私にはあくどさが足りないように感じられた。
いや、族滅だから十分におそろしいはずなのだが、あえていうのなら、乱世の奸雄らしさが足りない。
かつての曹操は、積極的にリスクに踏みこんで巨大な成果をもぎとってきた。常人にはとうていまねできないような方法で結果をつかんできたのだ。
その得体のしれない、底知れないおそろしさがなりを潜めているというか。こわいはこわいけど、なんというか、普通の独裁者っぽく感じられるのである。
荀彧はつづける。
「はばかりながら、火種などあちこちに転がっております。いつどこで火の手があがってもおかしくないのです。易姓革命を志すのであれば、曹操さまの歩む道が平坦になることは、これからもありえませぬ」
「む……」
曹操は返答に窮した。
たとえ漢朝が滅びようと、その再興をめざす者が立ち上がるかぎり、曹操と彼の子たちは、戦いつづけなければならないのだ。
漢朝が刻んできた四百年の歴史は伊達じゃない。その重みは、劉備や孫権以上に、曹操の頭痛の種になっているはずであった。
荀彧は、口元にうっすらと笑みを浮かべて、
「火災をさけられないのであれば、我々にとって利用価値の高い火災であったほうがよい。そうは思いませぬか、曹操さま」
その笑みは、微笑と呼ぶにはするどすぎた。どちらかというと、荀彧よりも郭嘉に似つかわしいような、危険な匂いのする笑みだった。
「荀彧……おぬし、なにをたくらんでいる?」
曹操の顔に浮かんでいた難色は、困惑の色でぬりつぶされた。




