第一四九話 曹家の出迎え
建安十八年八月、鄴の曹操軍が、孫権征討のために出征したのにあわせて、私はふたたび許都の荀彧邸を訪れた。
鄧艾と石苞は陸渾においてきた。私としても、荀彧と曹操の仲裁に全身全霊をそそぎたいので、彼らに気を配る余裕なんてない。
それにもし万が一、荀彧が曹操の勘気をこうむったら、私が巻き添えになる可能性もそこそこけっこう高いように思われる。
許都にいたら、弟子の彼らにまで累がおよぶかもしれないから、同行させないほうが、彼らにとってはリスクが少ないはずである。
……まあ、絶対にそうならないように、私は曹操と会おうとしているわけですが。
相府には、四方からぞくぞくと馬車が集まっていた。
車の音がかしましくひびくなか、私と荀彧が馬車から降りると、高貴そうな身なりをした男がふたり、歩み寄ってきた。
ひとりは虎髭をたくわえた、二十代半ばの男である。体格がよく、いかにも剽悍な武人といった印象を受ける。
もうひとりの男は、すこし年下だろうか、二十歳くらいに見える。体格はごく普通で、のびのびと育てられた貴公子、といった雰囲気である。
拱手して、彼らは名乗った。
「胡昭どの、お初にお目にかかる。曹彰、字は子文と申す」
「曹植、字は子建と申します。おふたりを案内するよう、父からおおせつかっています」
虎ひげで体格のいいほうが曹彰、ひとまわり小柄で年下のほうが曹植である。
拱手礼と名乗りを返しつつ、私は思う。
わざわざ息子たちに出迎えさせるとは……。曹操も、この訪問を特別視しているようである。
先導しながら、曹彰が訊ねてくる。
「ところで、胡先生。本日は、弟子を同伴させていないようですが?」
「弟子とは、鄧艾と石苞のことですかな?」
「ええ。なかなか根性のある若者だと、軍部の連中から聞いています」
「曹彰さまに名をおぼえていただければ、彼らもよろこぶことでしょう」
「はっはっは。いつか私の部隊で、ともに戦う日がくるかもしれませぬな」
曹彰は豪放な笑い声を立てた。
彼は、後世、豪傑として知られることになる人物である。
まだ二十代前半であろう現時点においても、武勇に長けているという評判は耳に入ってくる。
「私も楊修どのから聞いています。なんでも、胡先生は夷狄による寇略を警戒しておられるとか」
と、訊ねてきたのは曹植であった。
「…………」
私は一瞬、返答に窮した。
楊修の名に警戒してしまったのだ。すこし考えこんでから答える。
「この国に十分な軍事力があり、かつ曹操さまのような戦上手が指揮をとるのであれば、おそれることはありますまい。ですが、いつもそうとはいかぬものでございます」
ごく自然に曹操の軍事的手腕を称賛する私。ゴマをスリスリする機会は見逃さない。
「胡先生の憂慮は、まことにごもっとも。ですが、ご安心めされよ。蛮族の軍勢など、この曹彰が撃破してごらんにいれましょう」
私の言葉を弱気ととらえたのだろう、曹彰が胸を張り、その分厚い胸板を叩いてみせた。
「これは頼もしい。みずから陣頭に立って戦われるという曹彰さまの勇名は、私もうかがっております」
「なんの、まだまだ。十万の兵を率いて蛮族を追い立て、衛青や霍去病にも匹敵する偉大な功業を立てることこそが、私の本懐です」
「戦ばたらきこそ男子の本懐。武勲を望んでいるのは、私も同じです」
兄の豪語に負けじと、曹植がいった。
歴史的に、詩人として絶大な評価を受けることになる曹植だが、軍事面に関してはからっきしだったはずだ。ただ、彼自身は、詩文一辺倒でよしとしているわけではないようである。
曹彰は、肩をすくめて呆れるような声でいった。
「子建はどんくさいからなあ。戦のはげしさには、とてもついていけないだろうよ」
「なにをいいますか。子文兄上が血気盛んすぎるだけでしょう。私のこれはどんくさいのではなく、泰然自若というのです」
口を尖らせ、曹植はやり返した。
曹彰と曹植の兄弟仲は、悪くなさそうに感じられる。
しかし、ここに曹丕をまぜるとどうなるかはわからない。
そういえば、曹操の後継者の座をめぐる争いにおいて、曹彰はどちらかというと曹植派だったような記憶がある。
曹操が待っているという一室に、遠慮なく足を踏み入れながら、曹彰が声を投げかけた。
「父上、荀彧どのと胡昭どのをおつれしました!」
曹操は仕事中だった。眉間にしわを寄せて、なにやら家臣たちに指示を出している。むずかしげ表情を浮かべたまま、白髪の多くなった頭をこちらにむけると、
「おお。ふたりともよくぞ来た」
私は、以前ほど緊張していない自分に気づいた。
曹操と会うのが二度目だからというのもあるだろうけど、それだけではないように感じる。
よくよく考えてみると、機嫌をそこねたら危険なのは、曹操にかぎった話ではないのだ。話が通じない可能性がある分、異民族の族長なんかのほうが、危険度は高いわけで。私もそれなりに場数を踏んできた、と思ってもいいのだろうか?
曹操は人払いを命じていった。
「賈詡、おぬしはこの場に残れ」
「はっ」
老年の参謀が短く返答した。
賈詡、三国志ファンならおなじみ、その生涯で一度も失策がなかったともいわれている名軍師である。
私にとっては文通相手でもあるのだが、こうして顔をあわせるのははじめてのことになる。
それにしても、荀攸がいないのが残念でならない。
彼も許都に来ているはずなのだが、出払っているのだろうか。
荀攸がいれば、私と同じように仲裁役を買って出てくれただろうに。
……そうか。だから、この場にいないのか。
この時間帯に荀彧が訪れることも、私が同行することも、曹操はあらかじめ知っている。もちろん、伏皇后の処罰に関して、曹操と荀彧の意見が食いちがっていることもだ。
曹操にしてみれば、自分と荀彧の仲をとりなそうとするであろう荀攸は、完全な味方とはいえないのだろう。話の内容次第では、荀彧の肩を持つことすら考えられる。だから、荀攸を同席させなかったのだ。
曹彰や曹植を含め、みなが退室すると、曹操は笑いもせずに声をかけてきた。
「胡昭、おぬしと顔をあわせるのは、十……六年ぶりか」
「はっ、お久しうございます。曹操さま」
曹操さまと呼ぶことに、私は決めていた。
荀彧が曹操さまと呼ぶのだから、その呼びかたにあわせておいたほうが無難だろうとの判断である。
それに丞相の座も、魏公の座も、しょせん漢朝からあたえられたものにすぎない、と見なすこともできる。こいつらは自分の官爵に頭を下げているのだ、と感じたら、曹操は気を悪くするであろう。
そうではない。
官爵に頭を下げているわけではない。
私は、曹操の権勢に頭を下げているのだ!
「荀彧の用向きは、当然、おぬしも知っていよう」
「はっ、存じております」
「これは、おぬしが苦手としている権力がらみの話だぞ」
曹操はからかうような口調でいった。
「伏皇后の件について、私から曹操さまに申し上げるべきことは、なにひとつございません」
「ほう……?」
曹操は意外そうな表情をした。
「いうなれば、私は保証人でございます」
「保証人?」
曹操は小首をかしげた。
「荀文若の献策は、なにより曹操さまの治世を案じているがゆえのものであることを、私が保証いたします。彼は、曹操さまの覇業を補佐して、多大な功績を残してきました。その忠義の心は、いまも昔も、なんら変わっておりませぬ」
「なるほど。それを、おぬしが保証するということか」
納得したのか、曹操はひとつうなずいてから、視線をするどくして荀彧を見すえた。
「よかろう。……荀彧、おぬしの考えを申すがよい」




