第一四八話 孔明VS死亡フラグ
許都にある荀彧の屋敷を訪れた私は、まず鄧艾と石苞を荀彧に引き合わせた。
そして、例によって例のごとく、弟子たちにおこづかいをあげて、許都の散策をしてくるように申しつけた。
これから荀彧と話すことは、おそらく機密に触れるものだろうから、彼らを同席させるわけにはいかなかった。
荀彧と曹操の意見が衝突するのではないか。司馬懿がそう憂慮していたことを、私が伝えると、
「そうか、司馬懿が……」
荀彧は申し訳なさそうに苦笑をにじませた。
「君を巻きこむような話ではないのだが」
そう前置きしてから、荀彧はため息をついて、
「じつは、伏皇后が曹操さまの排除をもくろんでいた、と宦官たちから密告があった」
「ほう……」
伏皇后は、皇帝劉協の正室である。
私の前世の記憶にも、伏皇后の名はあった。
たしか、父親の伏完とともに、曹操暗殺をはかったものの、ことが露見して、伏皇后と伏完、その一族は処刑されてしまった、という話だったはずだ。
「曹操さまのご息女が後宮に入っていることは、知っているだろう?」
「うむ」
後宮に入った曹操の娘は三人いる。上から順に、曹憲、曹節、曹華という。
「彼女たち三人が、そろって貴人に昇進した。こうなってくると、残るは皇后の座のみ、ということになる」
貴人は皇后に次ぐ地位である。
曹操の娘たちが、皇后の座を狙える地位に昇ったということだ。
自分の娘が皇后になれば、曹操は外戚となって、より強大な権勢を振るえるようになる。
絶大な権力を手にしている曹操にとって、実態としてどれほどプラスになるかは疑わしいが、ほかの誰かが外戚となれば、その人物が曹操に反旗をひるがえすかもしれない。その可能性もつみとれるということである。
「ふむ……。曹操が、自分の娘を皇后にしたいのであれば、その前に、伏皇后を排除しなければならない。その宦官たちにしてみれば、曹操に恩を売る千載一遇の好機だったということか」
「そういうことだ。かつて董承の一族が処刑された際に、娘の董貴人も連座している。彼女は帝の子を身ごもっていたが、それでも処刑をまぬがれなかった。伏皇后はこれにおそれを抱いたようで、曹操さまを排除できないかと、再三、父の伏完に懇願していたのだ。そのとき交わした密書の一部を、宦官たちが保管していた」
その密書は、曹操に取り入るための虎の子だったはずだ。
曹操の娘が貴人となったことで、いよいよそれを活用するときがきた、と宦官たちは判断したのだろう。
「伏完は四年前に亡くなったが、生前、ことを起こそうとしなかった。董承の二の舞になるだけだと、彼にはわかっていたのだろうな」
あれ? 伏完は曹操暗殺に消極的だったのか?
……そうだ。そういえば、伏完の死後に、伏皇后のくわだてが発覚する作品もあった。
それが史実で、伏完が曹操暗殺を計画して失敗するのは、三国志演義のなかでの話、ということだろうか。
「伏皇后の一族は処刑される。皇后本人は暴室に幽閉して自殺をうながし、彼女が生んだふたりの皇子には酖毒を飲んでいただく。それが、曹操さまが下された判決だ。董承一族も処刑されているし、不当な処罰とまではいえないのだろうが……。私は手心を加えたほうがよいと考えている」
荀彧の声が陰った。
「それが、文若と曹操の、意見の衝突か」
「うむ……。皇后と皇子を弑するとなると、やはり反発は大きなものにならざるをえない。それに、あまりにも間がよすぎる」
「曹操の娘が貴人となるや、伏皇后の陰謀が露見した。伏皇后は廃立され、貴人のなかから曹操の娘が、あらたな皇后として選ばれる。……宦官の密告も含めて、すべてが曹操の謀略であると世間は見なすであろうな」
間がよすぎるし、都合もよすぎる。
曹操が書いた筋書きとしか思えない。
伏皇后は無実の罪を着せられて処刑されたのだ、と考える者だって出てくるだろう。
荀彧は、がくりと肩を落として、
「そうなんだ……。なにも宦官がしたことまで、曹操さまが誹謗を浴びせられることもないだろうに」
曹操と荀彧は、性格こそまったくちがうが、身内に宦官がいるという共通項があった。
曹操の祖父は、いわずと知れた大宦官である。
宦官の仲間と見なされたくない、という思いもあったのだろうか。
曹操は宦官の不法行為を見逃さず、きびしく取り締まった。
荀彧の妻は宦官の家の出である。
本人たちが幼いころに、両家の都合で婚姻が決まった。
曹操ほどきびしさを前面に出しはしないが、荀彧も宦官とは関わりあいにならないようにしているというか、距離の取りかたはうまい。
それが、いまになって宦官の行為にふりまわされるだなんて、荀彧でも想像していなかったろう。
「だが、曹操が娘を皇后にしたがっているのは事実であろう。曹操なら、その程度の悪名は笑って受け入れそうなものだが」
宦官の密告がなかったとしても、曹操はタイミングを見はからって、やるつもりだったと思う。
密書という物証がある分、ありがたいとすら思っているのではないだろうか。
荀彧は渋い顔をすると、
「悪名など、進んで得るようなものではあるまい。徐州での虐殺は、各地の統治によからぬ影響を残してしまった」
「……うむ。たしかにそのとおりだ」
「いままでは天下統一だけを見すえていたが、これからは統一後のことも考えなければなるまい。漢朝の統治が長くつづいただけに、易姓革命の抵抗は大きく、その変化は劇的なものになるはずだ。そこで、悪名が統治のさまたげとなるようではいけない。こだわれるのであれば、形にもこだわるべきだ。民心をつかむには、恐怖でおさえつけるより、寛恕を示したほうがよかろう」
荀彧は茶をひと口飲んでから、ゆっくりと息を吐いて、
「近々、曹操さまは孫権征討の兵を動かされる予定だ。途中、許都にも立ち寄られる。そこで直接お会いして、もうすこし寛仁な処罰にできないか、あらためて申し上げるつもりだ」
「曹操と直接会って、か……」
私は、その言葉に不穏な気配を感じとった。
曹操と荀彧が会う。
意見が衝突して、両者の仲に亀裂が入る。
荀彧が謎の憤死をとげる。
そんなパターンが、どうしても脳裏をよぎる。
「なに、孔明が心配するほどのことではないさ。私は、あくまで曹操さまが悪名を被ることを心配しているのであって、漢朝側に立とうとしているわけではない。それに、聞き入れてもらえなければ、私が折れればいいだけの話だ」
荀彧はことさら軽く聞こえるような口調でいった。
そうか、それなら安心だ。
……などと、いうとでも思ったか!
前世で荀彧が憤死したことを知っている私は、荀彧ほどポジティブに考えることができなかった。
ここで納得して引き下がったら、荀彧の死亡フラグがにょきにょき再生するのを、私は傍観しているだけになってしまうのではないか?
なにしろ死亡フラグというやつは、気まぐれでしつこいやつだ。
あっさり折れるやつもいれば、平然と復活してくるやつもいる。
荀彧の頭に突き刺さっている死亡フラグは、かなりしつこいと見るべきだった。
一度折れてもよみがえってくるのなら、徹底的に、バッキバキに叩き折ってやらなければならないのである。
そうなると、最も効果的な方法は……こうするよりほかにあるまい。
「文若。曹操と漢朝の対立は、もはや隠しおおせるようなものではない。であるからには、この件に関しては、おぬしもできるかぎり慎重にふるまわなければなるまい。曹操と会うのなら、私もその場に同席させてもらうぞ」




