第一四七話 危機再燃
建安十八年――たぶん西暦二一三年の七月。
私は陸渾で平穏な日々を過ごしていた。
帰国したのが、建安十六年の九月だったから、もうそろそろ二年になる。
その前半は、とてつもなく忙しかった。
陸渾に食料をはこぶ途中で、鄧艾と石苞を弟子にしたり、鄴に行って銅雀台の宴席に参加することになったり。
砂糖を融通してもらうために、広陵まで足を延ばしたこともあれば、劉璋暗殺を未然にふせぐために、また鄴に行って、なぜだか劉巴の相談に乗ったこともあった。
やらなきゃいけないことができた以上、以前より忙しくなってしまうのはしかたがない。
けれど、ようやく帰ってきたのだから、もうちょっと家でゆっくりさせていただきたいものである。
すこしばかり不満を抱えていたのだが、劉巴の相談に乗ってからこの一年近くものあいだ、とくに遠出する必要に駆られることもなく、私は陸渾近辺でのんびりとしていられた。
そして今日、私は杜畿の訪問を受けている。
「じつは、魏国の尚書となるよう辞令を受けていたのですが……、残念ながら、いまだに河東太守のままです」
残念といいながらも不満はなさそうに、杜畿は苦笑した。
「こたびの西征において、杜畿どのの功績が特筆すべきものであったことは、私も存じておる」
潼関の戦いとそれにつづく関西の動乱において、曹操軍の兵糧の大半をまかなったのが、河東郡なのだ。
ちなみに、州の下に郡があり、郡の下に県がある。
陸渾県も余剰穀物を徴収されているが、その量は、曹操軍全体の規模と比較すれば微々たるものにすぎない。
杜畿は照れるように、後頭部をかいた。
「関中こそ制圧したものの、隴右で動乱がつづいている現状、河東太守の職責は、一太守のそれよりはるかに重いと自覚しております」
馬超と韓遂は、隴右で抵抗をつづけている。
関中は紛争の混乱によって民が逃げだし、食糧生産が滞っているため、これからも河東郡が、曹操軍の胃袋をささえなければならない。
実際にそれをこなしている杜畿の内政手腕に対する評価は非常に高く、「天下一の太守」といった呼び声も聞こえてくる。
「それに馬超と韓遂を討って、それで終わりというわけにもいかないでしょう。まだ張魯討伐がひかえています」
「漢中は守りやすく攻めがたい地だ。張魯討伐も容易ではあるまい」
もっともらしくうなずいて、私は腕を組んだ。
張魯は漢中で善政を敷いている。五斗米道と称するだけあって、食料も潤沢なようで、関中からの流民を受け入れて人口も増加している。
天険の要害である漢中と、軍民一体となった張魯軍。
このふたつがそろえば、曹操軍とて苦戦は必至であろう。
前世でどうだったかといえば、あまり記憶になかった。
張魯の弟である張衛が健闘したことと、馬超の部下だった龐徳が、曹操軍の並みいる勇将・名将を相手取って、獅子奮迅の活躍を見せたことはおぼえている。
この時点で馬超がいなかったのは、すでに彼が張魯のもとをはなれて、劉備軍に投降していたからである。
杜畿は、ふと思い出したように、
「そういえば、劉備軍が葭萌関に駐屯して、張魯軍と争っているとか」
「うむ、私もそう聞いておる」
劉璋は無事だ。
どうやら、劉備軍が電撃的に成都を占拠するといった事態は阻止できたようだった。
ただ、気にかかるのは劉備軍の陣容である。
前世では荊州に残っていたはずの諸葛亮、張飛、趙雲が同行しているのだ。
関羽ひとり残しておけば、交州は守れると判断したのだろうか。
兵力は史実より少なくなっているはずなのだが、武将だけ見れば、むしろ陣容が強化されているようにも感じる。
「相手が劉備とあっては、劉璋のようにはいかないと判断したのでしょう。張魯軍はひたすら城に閉じこもり、防衛に徹しているようです。この方針が功を奏しているのか、張魯軍が守りをかためる城を、劉備は攻略できずにいます」
杜畿が語ってくれた益州の戦況は、すでに私の耳に入っているものと一致していた。
益州情勢に関する、私のおもな情報源は陳羣である。
陳羣によると、劉璋の心情はかなり揺れうごいているそうだ。
劉璋は広都で劉備と会見し、その人柄と度量に感銘を受けた。
力強くも頼もしい劉備軍、彼らであれば、きっと張魯に奪われた城を取り返してくれるにちがいない。
だが、劉璋の期待は現実とならなかった。
劉備軍は、いまだに城をひとつも奪還できずにいる。
日が経つにつれて、劉璋はふたたび、劉備に猜疑の目をむけるようになっている。
劉璋の家臣団も、複雑な思いを抱えているようだ。
劉備軍の兵糧を負担しているのは、益州の人々なのだ。
いっこうに戦果をあげられない劉備軍に対し、劉璋の家臣たちは苛立ちと疑念をつのらせ、また、この状況を招いた主君に対しても不満を隠さなくなっている。
益州の話からいくつか話題を転じて、杜畿は家庭の悩みをぼやいた。
「うちの長男が、出仕に興味がないようでして……」
おやまあ。杜畿の長男なら出世コースに乗れるだろうに。もったいない。
「どうしたものかと……」
杜畿は息子を出仕させたがっているようだが、相談相手を思いっきりまちがえている。
私は出仕したことがない。
うちの纂も出仕したことはない。
親子そろって出仕していないのである!
こんな私が、「出仕したほうがよい」などと、どの口でいえようか!!
眉間にしわを寄せて悩ましげにする杜畿に、私はこのようにいうことしかできなかった。
「うむ……。まあ、その、なんだ。出仕に興味がないというのなら、とりあえず、興味があることを存分にやらせてみるのも手かもしれぬぞ。それで身を立てるかもしれぬし、しばらくすれば、あらためて出仕に興味を抱くかもしれん」
杜畿の訪問から数日後、纂が書斎にやってきた。
第二子の誕生が間近とあって、最近の纂は頬が緩みっぱなしである。
「父上、仲達どのから手紙がとどいています」
纂がそわそわした様子で書斎を去ると、私は机の上に残された一通の手紙を手に取った。
司馬懿の手紙は時候のあいさつが簡潔で、婉曲な表現もほとんどない。
その実用的で短めな手紙が、私は嫌いではなかった。むしろ好き。
私は人より手紙を書く機会が多いので、どうしても判で押したようなあいさつや内容が多めになってしまう。個性的なものを考えようとしても、すぐに行き詰まってしまうのだ。古典の引用とかも、ありがちなものになってる気がしてしょうがない。
書く量が多いので、書き損じることも多い。竹簡や木簡なら表面を削ればいいが、紙だと一から書きなおさなければならない。高級紙に長々と書いて、最後のほうでミスったときなんて、目と口を丸くして凍りつくはめになるし、なんだか叫びたい気分になる。
だから、書家にあるまじきことかもしれないが、返書を手軽にすませられる司馬懿の手紙は、本当に好ましいのである。もっとも、一番頻繁に手紙を送ってくるのも司馬懿なのだが。
手紙をひらいて読みすすめる。私は目を見ひらいて凍りついた。
『曹丞相と荀彧どのが、意見を衝突させる可能性があります』
なんで……!?
曹操と荀彧の対立フラグは、しっかり折ったはずなのに!?
……いや、待て。郭嘉もそうだった。
病死する運命を、一度は乗り越えたはずだったのだ。
でも、結局は……赤壁の戦いで病に倒れてしまった。
司馬懿の手紙には、早めに荀彧と会ったほうがよいとだけ書かれていて、具体的なことは記されていなかった。手紙には書けない、機密に属する内容なのだろう。
こうしてはいられなかった。すぐさま荀彧に会いに行って、直接事情を聴きだして、曹操との衝突をふせがなければならない。
不可能ではないはずだ。
この前、鮮卑族の若者が陸渾を訪れ、郭図の手紙をとどけてくれた。郭図はまだ健在なのだ。
なますの寄生虫にやられる予定だった陳登も、元気に食道楽をしている。
荀彧の生存だって、不可能であるわけがない。
死亡フラグがしつこいのなら、もう一度へし折ってやればいい。根っこから引っこ抜いてしまえばいいのである。
旅支度を急ぐべく、私が書斎を出ると、庭では鄧艾と石苞が槍を手に打ち合っていた。
私の異変に気がついたのか、彼らは鍛錬の手をとめ、
「孔明先生、どうかなさいましたか?」
石苞が眉をひそめて訊ねてきた。
「急用ができた。許都に行かねばならん」
その瞬間、彼らは直立不動の姿勢になった。
「お供いたします」
「お、同じく」
「……うむ。ならば、ふたりとも身支度を急ぎなさい」
「はい!」
「は、はい!」
一礼すると、彼らは自分の部屋に駆けていった。
いつもであれば、彼らを許都のおえらいさんに紹介するところだが、今回ばかりはそんな余裕はないかもしれない。
ため息をつきそうになった私は、代わりに大きく息を吐きだした。呼吸を整えてから、ざわつく心を落ち着かせるために、あえてゆっくりと歩きだす。荀彧と私が、曹操と敵対しないですむことを、心の底から祈りながら。




