第一四五話 劉璋の葛藤
あけはなした窓から、夕風が入ってくる。
夏の蒸し暑さがやわらいだ、心地よいともいえる風であったが、劉璋の気分はいっこうに晴れなかった。
建安十七年(二一二年)は、劉璋にとって決断の年となった。
張魯を討つために、劉備軍を招き入れる。
劉璋にしてみれば、果敢に踏みこんだすえの決断であった。
だが、刻一刻と成都に近づいている劉備軍の存在が、めぐりめぐって、彼にあらたな悩みをもたらしていたのである。
「父上、お呼びでしょうか」
部屋に入ってきたのは、長子の劉循である。
「う、うむ。じつは、陳羣どのから書簡が届いたのだが……」
一通の書簡を、劉璋は息子に手渡した。
劉循はその中身をじっくりと読んで、眉をひそめた。
張松と龐統の両人は、曹操と敵対する道を選んだ人物である。
彼らが共謀して、劉備に益州を譲り渡そうとしている可能性が高い。
交州の二の舞にならぬよう警戒されたし、とのことであった。
「……なるほど。それでお悩みでしたか」
「陳羣どのは、人品すぐれた信用できる人物だ。だが、劉備どのが益州を狙っているなど、私には信じられん。信じとうない」
劉璋の目から見れば、劉備も陳羣も立派な人物なのだ。
もし劉備が実の兄であれば、劉璋は自分の身に降りかかる災難を背負わずにすんだであろうし、もし陳羣が幕僚にいれば、安心してすべてをまかせられたであろう。
だからこそ、どちらを信じていいのかわからないのである。
「劉備は、士燮から交州を奪いました。益州がそうならないと誰がいえましょうか」
劉循がいうと、劉璋は不快そうに眉を上げて、
「私と劉備どのは、同流同族だ」
「父上が劉表とよしみをむすんでいたとは、私は存じあげませぬが」
「むぅ……」
それをいわれると、劉璋としても反論しようがなかった。
「いずれにしても、私たちだけで話していても妙案は浮かびませぬ」
「……評議はひらきとうない」
と劉璋は、ぷいっと視線をそらした。
「どうしてです?」
「劉備どのに援軍を請うたのは、私のほうなのだ。いまさら私が劉備軍を警戒しているなどという風評が広がれば、それこそ劉備どのは気を悪くするだろう」
劉循はまばたきすると、嘆息してから、
「であるのなら、信頼できる者と、内密に話しあうべきかと」
「誰に相談すればよい?」
「劉備軍を迎え入れることに反対した者がよろしいかと」
「むむ、そうなると……」
劉備軍に否定的な見方をしていた人物の名をつぶやきながら、劉璋は両手の指を折りはじめる。
八本目の指を折ったところで、彼は愕然とした。次に挙げるべき人物の名が底をついてしまったのである。
かといって、劉備軍に肯定的な意見が主流だったかというと、そういうわけでもないのだ。
張松をはじめ、劉備軍を積極的に迎え入れようとした人物を思い浮かべてみても、やはり十人にはとどきそうもない。
つまり、家臣のほとんどが、賛否どちらの意見も表明していなかったのである。
劉備軍を迎え入れようという劉璋の一大決心に、関心を示さなかったのである。
劉璋が呼吸すら忘れたかのように動きをとめると、劉循はしばし考えこんでから意見を述べた。
「そのなかでしたら、王累どのと黄権どのがよろしいでしょう」
「うっ……黄権はともかく、王累か」
劉璋は顔をゆがめて難色をあらわした。
王累に対しては、あきらかに苦手意識があるのだ。
「劉備軍を迎え入れることに、最も強硬に反対していたのは王累どのです。彼ならば、ここぞとばかりに劉備軍に対抗する策をひねりだしてくれるでしょう」
「アレは口やかましくてかなわんのだが……」
「口やかましく主君を諫めるのは忠心のあらわれ。王累どのこそ義士でありましょう」
「そ、そういう考えかたもあるか」
「黄権どのは道に明るく、思慮に富んだ人物であり、しかも益州の大姓でもあります。どのような策も実行できなければ意味はありません。豪族たちの協力を得るためにも、彼を味方につけておかねばなりますまい」
翌日、劉璋の私室に、劉循、王累、黄権が集められた。
劉循が事情を説明すると、黄権は小首をかしげ、冷静な口調で評した。
「なるほど……。陳羣という人物は、ずいぶん遠くのことまで見える目を持っているようですな。これが純然たる善意からの忠告であれば、ありがたいのですが」
一方、王累はまくしたてるように、
「劉璋さま、ようやく目を覚まされましたか。ですが、陳羣にも警戒を解いてはなりませぬぞ。これは、我々と劉備を争わせようとする策略かもしれないのです。彼は曹操の配下。いまは敵の敵にすぎませぬが、いずれ正面から戦うときがきます」
「う、うむ……」
主君に対して目を覚ましたか、とは無礼ではないだろうか。
そう思いながらも、劉璋は強い態度を取れなかった。
いま頼りにできるのは、黄権と王累だけなのだ。
この場ではうるさいことはいわずに、彼らの意見に耳をかたむけるべきであろう。
それにしても、黄権と王累は、劉備だけでなく、陳羣も敵と見なしているようであった。
劉璋には慎重すぎるようにも、猜疑心が強すぎるようにも感じられた。
誰も彼も敵にまわしていては、いずれ味方になる者がいなくなってしまうのではないか。
劉璋は反論したい衝動をおさえこんだが、それは外から見れば、ただ無言をつらぬいただけにすぎなかった。
黙りこんだ父の代わりに、劉循が口をひらく。
「まだ劉備軍が敵と決まったわけではありませぬが、敵対することになった場合の善後策を、おふたりには考えていただきたいのです」
彼の声には、懇願のひびきがあった。
間髪入れずに、王累が気炎をあげる。
「劉備軍は交州からの長旅で疲弊しきっていよう。こちらに近づいてきたところを、全軍でもって叩きつぶせばよい!」
さすがに過激すぎる意見である。
劉璋は鼻をふくらませて、
「まだ劉備どのが敵と決まったわけではない、といっておろうに」
「劉璋さまのおっしゃるとおりですな。現状、劉備軍は友軍なのです。敵であるとはっきりしない段階で、こちらから攻撃をしかければ、義を失うのは我々のほうでございましょう」
「そ、そうだろう。黄権のいうとおりだ。私はそういいたかったのだ」
劉璋の要請に応じてやってきた劉備軍に、ここぞとばかりに襲いかかろうものなら、奸悪の烙印を押されるのは劉璋のほうである。
「ならば、劉備が宿す虎狼のごとき悪心を、白日のもとにさらしてしまえばよいのです。まずは張松・龐統両名の身辺をさぐって、劉備軍と内通している証拠をつかみましょう」
王累は軌道修正してみせた。
先の案と比較すれば、だいぶ穏当な方法である。
「うむ……」
劉璋がうなずくと、今度は黄権が直言する。
「もうひとつ、肝心なことがございます。劉備軍を成都に近づけるのは危険です。劉璋さまは、劉備軍を歓待する宴席を成都で催すおつもりでしたが、その場所を南の広都へと変更すべきでしょう」
「しかし、それでは劉備どのに失礼ではないだろうか?」
劉璋の不安そうな声に、黄権は平然と、
「ご安心を。あらかじめ成都城内に、流言をばらまいておくのです。劉備軍と士燮軍の戦によって交趾の民は戦禍に叩き落とされた、と噂を広めれば、民は不安をつのらせます。さすれば、劉備軍を成都へ近づけさせないのは、民の不安をやわらげるためとなり、劉璋さまに非は一切ございません」
「そ、そういうものか」
全面的に納得したわけではなかったが、とりあえず劉璋はうなずいた。
民の不安を煽っておいて、それを利用しようというのだ。
自分で火をつけて、自分で消火するような行為である。
姑息かつ卑劣な手段のような気もしないではなかったが、それで自分が汚名を被らずにすむというのなら、劉璋としては了承する以外に道はなかった。
「劉備軍には、広都から成都を経由せずに、直接、前線の葭萌関へとむかってもらいます。そこで予定どおり張魯と戦うようであればよし。戦わないようであれば……こちらの要請とは別の思惑によって、入蜀したのだと見なさなければなりますまい」
気が弱い主君に覚悟をうながすように、黄権は語気を強めた。
そして、秋九月。
劉備軍がついに蜀郡に到着し、彼らを歓迎する宴が、広都で盛大にひらかれた。




