第一四三話 胡昭の法則
「劉巴どの、なにをいいだすのだ!? 八十五銭を百銭に交換してやるだと? それでは民が得をするだけではないか!」
気勢と迫力に満ちた言葉が、劉巴の全身を打ちすえた。
丁儀が声を荒らげて反論したのである。
「民がよろこぶことに、なんの問題がありましょうか。民衆からの支持は、政策の成否を左右します。彼らは直百五銖銭の存在を快く受け入れてくれるでしょう」
劉巴は動じなかった。
以前の彼であれば、顔をこわばらせ、肩をすぼめていたであろうが、もはや弱腰は見られない。
刮目する曹操をよそに、丁儀はさらに気を吐こうとする。
「民衆の機嫌を取るために、国家財政を悪化させようというのかッ!」
「官にも大きな益がもたらされます。二十四銖の直百五銖銭を発行することで、八十五枚の五銖銭――五銖銭一枚を一銖として計算しても、八十五銖の原料銅を得られるのです。差し引き六十銖もの得をするではありませんか」
「むむっ……」
沈黙を強いられたのは、丁儀のほうであった。
劉巴は楽観的観測を述べているのではない。
五銖銭一枚を、五銖ではなく一銖として計算している。
集まるのは悪銭ばかりであろうと現実的な見通しを立てたうえで、おのれの案に自信を抱いているようであった。
「曹操さま。この直百五銖銭と交換する権限を、徴税官にもお与えくださいませ。民からすれば、八十五銭を百銭に交換してから納税できるのですから、実質的な減税となります」
「税収が減るとは考えぬのか?」
曹操はあご髭をつまんで、小首をかしげた。
「もともと金属貨幣は、穀物や布帛と比べて傷みにくく劣化しにくい。圧倒的な優位性がございます。徴税の手間やその後の物資の管理などを考えると、利点のほうが大きいと私は考えております」
説明にうなずきながら、曹操は考える。
劉巴の案は、銭納制度の浸透にもつながる。
さらには、曹操個人にとってそれ以上の利点があった。
直百五銖銭が普及すれば、曹操が減税をおこなったという事績も世に知れわたるのではないだろうか。
いままでも減税策は実施しているのだが、それが直接曹操の評判につながっているかというと、世間はそう素直に反応してくれないのである。
だが、噂話とは異なり、貨幣は目に見え、手で触れることができる。
直百五銖銭は減税の証拠・象徴となって、曹操の仁政をなによりも雄弁に物語ってくれよう。
「劉巴どのは最も重要なことを忘れている! 直百五銖銭が普及したところで、すぐに悪質な私鋳銭が横行するようになろう。貨幣価値のさらなる下落を招くだけだ!」
丁儀の指摘はこの上なく正しかったが、それゆえ予測されてしかるべき内容でもあった。
返答する劉巴の声は揺らがない。
「たしかに。額面と質量が乖離している以上、盗鋳による被害の拡大はさけられませぬ。ですが、悪い面ばかりではありませぬ。対処法もあれば、よい面をつくりだすこともできます」
「ほう、申せ」
興味を隠さず、曹操は先をうながした。
「納税に使用できる直百五銖銭の重量は、二十四銖を厳守します。そして、その旨を布告するのです。さすれば、民は二十四銖に満たない粗悪な私鋳銭には見向きもしなくなるでしょう。なにしろ、八十五銭あれば、正規の直百五銖銭が手に入るのですから、怪しげな私鋳銭に手を出す必要などございませぬ」
「ふむ」
「直百五銖銭の悪銭が出まわることで、直百五銖銭そのものが廃止されてしまったら、減税制度まで失われてしまうのです。民衆は悪銭が横行しないように目を光らせ、みずから進んでお上の捜査に協力するようになるでしょう」
貨幣の偽造を完全にふせぐことはできない。
だが、減税維持を望む民衆の心理を、ある種の抑止力として利用できる、と劉巴は述べているのである。
劉巴は丁儀にむかって、
「丁儀どの。いまの世においても、盗鋳に手を染めて死罪となる者はあとを絶ちません。悪銭が氾濫する現状では、それを取り締まるのもむずかしい。ですが、市中に出まわる悪銭が減少すれば、その出所をつかむのも容易となります」
「…………」
反論を封じられ、丁儀は顔をしかめた。
悪銭が市中から姿を消せば、あらたな悪銭が流通しはじめたときに摘発しやすくなるのは道理である。
劉巴は曹操にむきなおると、
「悪銭の横行が落ち着くにしたがい、九十枚、九十五枚と交換比率を変えていく必要も出てくるかと存じます。ですが、そこまでいけば」
「うむ。直百五銖銭の導入は成功したと見なしてよい」
「はっ。そして、もしこの案を魏公国のみで実施したならば……。天下の悪銭が、曹操さまのもとへと集まってくるはずでございます」
「ふ、ふ、ふははははッ!」
曹操は大笑した。
「権力者とは金玉珍宝を貯めこみたがるものだが、余のもとには悪銭ばかりが集まってくるということか!」
文字どおり受け取れば、機嫌を損ねたようにも聞こえかねないが、曹操の態度は快哉に満ち満ちていた。
原料銅不足が、思わぬ形で解消されるのだ。
方法もよい。
財貨を独占して悪銭をばらまいた董卓とは、いかにも正反対の施策であるように思われる。
最近、自分に対する世評が気にかかる曹操である。
彼が抱く大志のためにも、大衆からの印象はよくしておくに越したことはない。
「気に入った。既存の貨幣政策とは、どうも毛色の異なる発想のようだが、おぬしはこの案をひとりで考えついたのか?」
だとすれば、劉巴の才は、曹操の想定をはるかに上まわっている。
いますぐにでも、大臣相当の官職をもって遇したいほどであった。
「いえ、私ひとりの知恵ではございませぬ」
ゆっくりと首を振って否定すると、劉巴はうやうやしく拱手した。
その動作には曹操に対する敬意のみならず、この場にいない人物に対する敬仰の念もこめられているようであった。
「僥倖に恵まれ、陸渾の胡昭どのに相談に乗っていただきました」
「ほう……?」
曹操は意外そうな反応を示しながらも、内心納得していた。
劉巴の案は、減税を望む民衆の心と、原料銅の不足に悩む曹操の心の両方をつかんでいる。
権力の籠にとらわれていない孔明であれば、民衆の心情を汲んで立案することも可能であろうし、彼の才知をもってすれば、朝政を執る者の心理も当然のように理解していよう。
「胡先生は、『悪貨は良貨を駆逐する』とおっしゃいました」
劉巴はそういうと、孔明の話を丁寧に再現してみせる。
話を聞き終えると、曹操は感嘆の息を吐いた。
「……悪貨は良貨を駆逐する、か。説明されれば納得するしかない」
「そこで、良貨を動かせないのなら悪貨を動かせばよい、と、私は考えたのでございます」
精神の高揚を映すかのように、劉巴の頬は紅潮している。
その表情が、孔明から受けた衝撃の深さをあらわにしていた。
「つまるところ、ただ良貨を発行しても死蔵されてしまうだけであり、市中から悪貨を回収する制度こそが肝要なのでございます。粗悪な五銖銭を回収していけば、その重さも一銖から、二銖、三銖と正常化していくでしょう。いずれは蔵のなかに眠っている良質な五銖銭も、市中に出まわるようになる日が来るかと存じます」
と締めくくる劉巴に、曹操は満足そうにうなずいた。
……もし、この場に孔明が同席していたら、白羽扇で口元を隠して、冷や汗を流していたにちがいない。
こうして孔明が捏造した架空の体験談は、後世でいうところの胡昭の法則――悪貨は良貨を駆逐するという言葉とともに、歴史的事実として語り継がれていくことになるのであった。




