第一四二話 旅路の記憶(捏造)
「いや、うっかり口がすべってしまった。この言葉は、まだ表立って発信したことはなかったか」
私はそういって苦笑を浮かべた。
覆水盆に返らず。
言葉にしてしまったものは、もはやなかったことにはできまい。
こうなった以上は、悪貨は良貨を駆逐する、という考えかたに至ったもっともらしい理由を、ほどよく捏造すべきであろう。
白羽扇で口元を隠して、頭のなかで算段を立てる。
ああしてこうして、あれがこうなって……よし。
じっくり考えている時間なんてないので、見切り発車だけどスタート。
「これは私が異郷を旅していたときに経験したことなのだが……」
必殺、旅路の途中でこんなことがあった!
なんと都合のよい過去であろうか。
なにしろ、ことの真偽を誰も確かめようがないのだ。
経歴詐称ではないが、経験捏造し放題である!
「とある部族の集落で、私は西域の商人たちと知り合った。我々の国で絹織物や漆器を仕入れた彼らは、大秦国へもどる途中であった」
とはいえ、ここまではホントの話。
嘘を上手につくコツは、真実を織り交ぜることだという。
「私の目には、彼らが大量の商品をはこんでいるように見えた。だが、彼ら自身は満足していなかったようで、もっと多くの商品を仕入れたかった、と口々にこぼしていた」
とくにそんなエピソードはない。
「私は不思議に思った。彼らは銅貨だけでなく、銀貨や金貨も所有しているようだったのだ。それらを使えば、もっと商品を購入できたであろう。訊ねてみると、こんな答えが返ってきた。『粗悪な貨幣はすべて使い果たしてしまいました。手元に残した貨幣はどれも立派なものなので、自国へ持ち帰るつもりです』と」
私は過去を懐かしむように遠い目をした。
存在しない思い出にひたるのが、なんだかむなしくてしかたがない。
「彼らが見せてくれた貨幣は、どれもたいそう立派な造りをしていた。金貨や銀貨はおろか、銅貨ですら、美術品のような輝きを放っていた。それを見たとき、私は貨幣問題の本質を垣間見たように感じたのだ」
私はひと息つくと、目に力をこめて、陳羣、司馬懿、劉巴の顔を見まわした。
三人ともまじめな表情で聞き入っていることを確認しつつ、
「長文、仲達、劉巴どの。おぬしたちも、悪銭ばかりが世にはびこる現象は知っていよう」
「はい」
司馬懿は神妙に返事をしながら、陳羣と劉巴は無言で、うなずいた。
「額面価値が同じ悪貨と良貨が存在すれば、誰もが悪貨を手放したがる。良貨を蔵にしまいこみたくなる。それが人の常といえよう。結果、良貨は市場から姿を消してしまうのだ」
陳羣が深いため息をついて、
「……なるほど。それが、悪貨は良貨を駆逐する」
「うむ」
「しかし、これではどのような貨幣を発行したところで――」
徒労に終わるだけなのでは、とでも司馬懿はつづけようとしたのだろう。
彼が言葉を切ったのは、劉巴の様子に異変が生じていたからである。
劉巴は右手で口をおさえながら、うつむき加減になにごとかをぶつぶつとつぶやいている。
「………………」
良貨、悪貨、民。そんな言葉が聞こえたような気がする。
なにやら思いついたようだったので、私と陳羣と司馬懿は顔を見合わせ、劉巴の思考の邪魔をしないように押し黙った。
しばらくして、劉巴はがばっと顔を上げた。
磨きあげた銅貨のような、キラキラとしたまばゆいまなざしで、
「胡先生。このような案なら、いかがでしょうか?」
私と司馬懿は、劉巴の家をあとにした。
馬車に乗って司馬懿の家に帰る途中で、司馬懿が口をひらく。
「問題は……貨幣だけではなかったのかもしれません」
「む、どういうことだ?」
「陳羣どのは、劉巴どのの自己肯定感の欠如を心配していたのではないでしょうか?」
「ふむ?」
自己肯定感か……。
そういえば、劉巴からは身をちぢめているというか、自信がなさそうな印象を受けたが。
「劉巴どのの家は名門です。書物には不自由しなかったでしょう。しかし、劉表に疎まれていたため、周囲の人間とは疎遠にならざるをえなかった」
「人との交流が制限された環境下で、書物だけを頼りに学んできた、ということか」
「はい、そのような境遇では、自己評価が低くなるのも当然でしょう」
誰かに誤りを指摘されることもなければ、すぐれた人物と議論を戦わせることもない。
それでは、自分の知識に自信がもてないのも当然だろう。
「もし、陳羣どのが貨幣問題の解決策だけを欲していたのなら、劉巴どのの相談内容を伏せておく必要はないように思えるのです」
「たしかに」
五銖銭に関する相談だと前もって教えてくれていたら、私だってもうちょっと賢い立ちまわりができたと思う。
「ですが、あらかじめ相談内容を伝えたら、孔明先生のことですから、あっさり解決策を見つけだしてしまうかもしれません」
「…………」
それはない、と思わずツッコんでしまうところだった。
ううむ……。ちょくちょくボロが出てる気もしなくもないのだが、司馬懿さんの頭のなかの私は、あいかわらずすばらしい人物のようである。
「あれだけ頭を悩ませていたのに、あっさり答えが返ってくる。それでは劉巴どのはますます自信を失ってしまいます。しかし、なんの予備知識もない状態で、孔明先生と劉巴どのを引きあわせれば、じっくり話を聞くところからはじまります。孔明先生の性格であれば、まずは劉巴どのの意見や才能について肯定的な評価を下してくれるだろう。陳羣どのはそう考えたのではないでしょうか?」
まあ、私の性格を知っている陳羣なら、私が劉巴に対して否定的な言葉をぶつけることはない、と予測できたはずだ。
「……仲達の推察はおそらく正しい」
「ありがとうございます」
けれど、陳羣自身が褒めてやるのでは、ダメだったのだろうか?
……ダメだと判断したのだろうな。
そんなことをしたら、劉巴はますます陳羣に傾倒してしまう。
崇拝や妄信は劉巴のためにならない。
陳羣がそう考えていたところに、人物評の大家といわれている私がやってきたということか。
……そんなこといったら、うちの司馬懿さんはどうなるのよ!?
いや、こっちは大丈夫なのか。
私と司馬懿は日常的に顔をあわせているわけではない。
曹操の後継者争いだって、私は中立を標榜しているが、司馬懿は曹丕の側近だから、曹丕を支持しなければならない立場にいる。
距離もあれば、立場もちがう。
司馬懿は、私とまったく同じスタンスを取っているわけではないし、取るわけにもいかない。
「ですが、劉巴どのの自己評価の低さをなんとかしたいのなら……」
「うむ。これからが本番であろうな」
劉巴が思いついた案は、大胆かつ独創的なものだった。
穴はあるし、デメリットもある。
現代日本で実行したら、ハイパーインフレを引き起こすんじゃないかなとも思う。
けれど、貨幣価値があってないようなこの時代なら、かえってうまくいくかもしれない。
それになにより、曹操でも無視しえない絶大なメリットがあった。
私たち四人で話しあって微調整をしたその案を、劉巴はさっそく曹操に上申することにしたのである。
◆◆◆
数日後、曹操は榻に腰をおろし、いかにもくつろいだ様子で声をかけた。
「さて、おまえたちを呼んだのはほかでもない。貨幣政策について腹案がある旨を、劉巴が申し出たからである。丞相府でも魏公府でもなく、余の私宅に招かれたつもりで、遠慮なく意見を戦わせるがよい」
曹操の前で直立しているのは、百銭貨幣の発行を主張した劉巴と、それに真っ向から反対した丁儀である。ふたりとも才気あふれる若手ではあるが、数多の輝かしい人材を見てきた曹操には、少々物足りなかった。
劉巴はすぐれた識見を有しながらも、それを実行しようとする意志が弱い。覇気に欠ける。
丁儀に至っては、政敵をおとしいれて勝利に酔いしれる暗い一面があった。暗闘も必要であろうが、それによって得られるものは、丁儀個人の栄華にすぎず、曹魏の未来に繁栄をもたらすわけではない。
いずれにしても、曹操は彼らに期待をかけていたが、それは特別なものではなかった。代わりはいるのだ。機会はあたえるが、それをつかめるかどうかは、彼ら自身の器量次第である。
「私、劉子初は、五銖銭百枚に相当する直百五銖銭の発行を提言いたします。百枚相当としたのは、百枚の五銖銭をひとくくりにして使用している現状が、民衆に不便を強いているからでございます」
劉巴の声が、曹操の耳に心地よくひびいた。
「また、この直百五銖銭は、重さを二十四銖、つまり一両とします。これは重量の単位を、銖から両へと上げることによって、あらたな貨幣の価値を民衆に知らしめるためでございます」
いままでにない力感に富んだ声である。
知らず知らずのうちに笑みをこぼす曹操に、ひと皮むけた劉巴は堂々と自案を披露する。
「そして発行方法が肝でございます。この直百五銖銭を、五銖銭八十五枚と交換するのでございます」
「なん……だと……?」
それは曹操を驚愕させるにあまりある、思いも寄らぬ提案であった。




