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第一四一話 失言から生まれる経済法則


 私は慎重に口をひらく。


「ひとまず、額面価値が原料銅の重さや価値よりもはるかに大きな貨幣のことを、名目貨幣と呼ぶことにするが……」


 あらかじめこう定義してしまえば、この時代には存在しない名目貨幣という単語を使っても、なんら問題ないのである!


「文帝が十二(しゅ)あるべき半両銭を四銖と定めて成功したように、名目貨幣は成立しうる。いや、銅産出量の劇的な改善など見込めぬ以上、いずれ名目貨幣の存在を許容しなければ、商業活動は立ち行かなくなるであろう」


「では、百銭の大貨幣を流通させることも不可能ではない、と!」


 劉巴は声を弾ませ、顔を輝かせた。

 先走りすぎである。


 私は名目貨幣の可能性に言及しただけであって、百銭貨幣の導入が成功すると断じたわけではない。


「まあ、そうくでない、劉巴どの。周景王の大銭しかり、文帝の四銖半両銭しかり、名目貨幣が成功した事例はあるにせよ、失敗例のほうが多いのも事実だ」


「むむむ……」


「名目貨幣を成り立たせるためには、原料では足りぬ価値を、ほかのもので補わねばならぬ」


「ほかのもの、でございますか……」


「第一に必要とされるのは、発行者に対する信用であろう」


「信用……。たしかに王莽おうもうも董卓も、万民を統べるにふさわしい為政者とは見なされておりませんでした」


 曹操の失敗には触れないあたり、劉巴は賢明な人物である。


 彼からすれば、自分の主君の悪口はいうべきでないし、王莽や董卓といっしょくたにするのもまずい。


 もちろん私だって、曹操を非難するようなことは頼まれたって口にしない。してたまるか。


「しかし、これは名目貨幣にかぎった話ではないが、信用があればよいというものでもない。武帝の三銖銭は、銭文せんぶんどおり三銖の重さがありながら、失敗に終わっている」


 その代わりというわけでもないが、私は武帝の失敗例を取り上げた。


 武帝はその諡号しごうにふさわしく、匈奴きょうどを討伐し、漢朝の最盛期を築いた人物である。


 内政面においては無能だったのかというと、けっしてそんなことはなく、中央集権化を推し進めて強力な統治体制の構築に成功している。


 彼はこう考えたのではなかろうか。


「文帝・景帝と名君がつづいて漢朝の統治は安定し、皇帝の権力は飛躍的に強化された。この状況であれば、一銭を四銖の半両銭から三銖銭に改鋳しても、民衆は受け入れてくれるはずだ」


 だが三銖銭は経済の混迷を深め、それを収束させるために、武帝はかえって五銖銭の発行を余儀なくされた。


 劉巴は、これ以上ないほど真剣な表情で、


「信用以外の……なにかが不足していたのですね」


「うむ」


「それは、いったい?」


「大衆を味方につけることだ」


「大衆を味方につける……?」


 オウム返しにつぶやく劉巴に、私はこんこんと説く。


「文帝の四銖半両銭が、名目貨幣であるにもかかわらず成功したのはなぜか? 誰もが物価の高騰や経済の混乱に苦しめられているところに、それを収拾させるべく発行された貨幣だったからだ。それに対して、武帝の三銖銭は同様の目的を掲げてはいたものの、その最大の狙いは改鋳益にあった」


「な、なるほど。四銖半両銭が成功したのは、民衆が必要としている貨幣だったから。三銖銭が失敗したのは、政府にとって必要な貨幣にすぎなかったから、ということでしょうか?」


「うむ。こうした事例を踏まえると、あらたな貨幣が普及するか否かは、民衆が自分たちの生活に寄与する貨幣だと認知するか否かにかかっていると見てよかろう」


 民衆の支持を得られるような貨幣でなければならない。


 この時代の民に投票権などあるはずもないが、ある意味、民主主義的な考え方といえるかもしれない。


「大衆心理――群集心理というものは衝動的・突発的な面がある。理屈では予測しきれぬ動きをすることがあるゆえ、劉巴どのが提唱したという百銭貨幣を導入したとして、それが成功するかどうかは、私にもわからぬ」


 金融と信用と群集心理というと、たしか日本でこんな話があった。


 ある日、電車のなかで女子高生たちが会話をしていた。


「A信用金庫は危ないよ」


 このひとことが広まるうちに、A信用金庫が倒産するというデマに発展。

 噂を信じこんだ人々はパニックに陥った。


 結局、デマはデマにすぎなかったのだが、預金をおろそうとする人々がA信用金庫に殺到して、取り付け騒ぎにまでなったらしい。


 二十世紀後半の日本ですら、女子高生たちの雑談から取り付け騒ぎが発生してしまうのだ。


 こちとら、西暦に換算すると二百年ちょっとなわけで。

 どこからどんな噂が流れて、どんな騒動が発生するかなんて想像もつかない。


 百銭貨幣を導入した結果だって、そんな噂話や騒動によっていちいち左右されてしまうだろうから、成功するとも失敗するとも断言できるようなものではないのだ。


 結論も出せなければ、絶対にうまくいく案も出せない。


 こういうときは……結論も案も人にまかせてしまえばよい!

 自分はあくまで訓示を垂れるだけにとどめておくのが吉であろう!


「だが、庶民が百銭単位で売買している現状を見れば、百銭の大貨幣を発行しようという劉巴どのの案は、理にかなったものだと私は思う」


 と、私はもっともらしく白羽扇を揺らめかせた。


「あ、ありがたきお言葉にございます。私が百銭貨幣を発行すべきだと思い至ったのも、まさしく買い物をする際に大量の貨幣を携帯しなければならず、いかにも不便そうにしている民の姿を見たからでございまして」


 劉巴はうれしそうに頬を紅潮させると、照れ隠しでもするように後頭部をかいた。


 うむ。これでよし。

 私としても、答えのない問題に対して、それなりに役立ちそうなアドバイスはできたと思う。


 私が安堵の息をつくのとほぼ同時に、陳羣ちんぐんがひかえめな動作で、右手を顔のあたりまで上げた。


「孔明どの。私からもひとつ質問してよろしいでしょうか?」


 おいこら、陳羣。


 おまえさん、世界史に名を残すほどの政治家だろうに。

 なにしれっと生徒(づら)して挙手してんの?


 ……まあ、よいでしょう。

 はい、陳長文(ちょうぶん)くん、質問をどうぞ。


「曹操さまが発行した五銖銭は、残念ながらまったく普及しておりません。もとより発行量が少なかったため、各地へ流通させるのは不可能と考えていたのですが、ぎょう城内の市ですら使用されていないようなのです。その五銖銭自体は、重さが五銖ある良質な貨幣なので、問題があるとは思わないのですが……」


 ふむ、答えがわかる問題で助かった。


「悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるが、まさにそのとおり――」


 そこで私は口を閉ざした。


 劉巴と陳羣と司馬懿が、そろってキョトンとした顔でこちらを見つめている。

 彼らの表情を見て、私は自分の失言を悟った。


 しまった……。


 悪貨は良貨を駆逐するなんて言葉、この時代にはまだ存在しねえッ!!


 や、やらかしたあああああッ!?




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― 新着の感想 ―
通貨に必要なのは国家の強制力ですからねぇ、結果的に民衆がそれをその額面価値のある通貨と認識する状態とも言い換えられなくもないですが。 前提として国家が発行した公的な銭のみが流通し、私鋳銭を撲滅させる…
今日本屋さんで行ってきました。 TOブックスのところになくて他も色々探し、結局なかったので他の店にも行きとしましたが見つかりませんでした。 Amazonさんで注文しようとしましたがなんと届くのは…
身構えてた問いに対する応答がなんとかなって気を抜いて、つっこんできた陳羣にも普通に答えられそうだからもっかい気を抜いて、って感じやろなぁ。 果たして孔明先生のウィキは、最終的にどこまでシークバーが伸び…
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