第一四〇話 名目貨幣
「原料銅の不足による貨幣鋳造量の減少、東西貿易による金の国外への流出……。こうした問題を解消するために、王莽は国内すべての金を国有化し、また、額面価値と実際の重さが一致しない貨幣を発行しました」
劉巴は拳をほどいて膝の上に落ち着かせた。
口調も落ち着いて、その声からとげとげしさは感じられない。
王莽といえば、前漢を滅ぼした大悪漢である。
漢の世の士大夫からすれば、敵視してしかるべき人物のはずだが、劉巴が感情を高ぶらせたのはほんの一瞬にすぎなかった。
王莽個人の善悪は度外視して、その政策をつぶさに見つめなおそうというのだろう。
「貯めこんでいた金を没収された諸侯や富豪の嘆き、怒り、不満……は、とりあえずどうでもよろしいとして」
どうでもいいんかいッ!?
ううむ……劉巴は名士らしさにこだわる人物だそうだが、貧民や庶民を救うのが名士の使命だと思いこんでいるのかもしれない。
それはそれでまちがいではないのだろうが、名士なんてもんはそういう枠組みに分類されているだけなわけで。名士という存在をちょっと崇高に捉えすぎているようにも思う。
諸侯や富豪の感情も重要よ?
彼らを敵にまわしたら、うまくいくものだってうまくいかなくなるんだから。
私? もちろん悪徳商法や詐欺にはノーといわせていただくが、金持ちとはそこそこ仲よくして、おごってもらいたい派である。
「ここで議論すべきは、額面価値と実際の重さが一致しない貨幣の存在でございます」
「ふむ」
劉巴の言葉に、私はうなずく。
王莽が発行したのは、後世でいうところの名目貨幣である。
劉巴は顔を曇らせて、
「一枚で五銖銭五十枚に相当する大泉五十、五百枚に相当する契刀五百、金象嵌がほどこされた五千枚相当の一刀平五千。これらの銅貨は世間に受け入れられず、ほとんど流通しませんでした」
五銖銭一枚が一銭だから、五十銭玉、五百銭玉、五千銭玉ということになる。
より正確にいうと、契刀五百と一刀平五千はただの円貨ではなく、円貨と刀貨をくっつけた形状をしている。
「帝位を簒奪して新王朝の皇帝を僭称した王莽は、五銖銭を廃止して、五銖銭の代わりとなる一銭相当の貨幣を発行しました。しかし、これも重さわずか一銖の小さな貨幣であったため、民衆は使用を禁じられた五銖銭を好んで使いつづけました。王莽はほかにも金貨や銀貨を含む多種多様の貨幣を発行しましたが、原料価値と額面価値が一致しなかったこと、複雑な貨幣制度であったことから、いずれも失敗に終わっています」
劉巴の声と表情は平静で、やはり王莽に対する憎悪は感じられない。
けっして王莽を肯定しているわけではないが、その貨幣政策のなかに、なにかしらの評価すべき点を見いだしているようだった。
「漢の再興が果たされてからも、貨幣経済の混乱・衰退はつづきました。貨幣の偽造は死罪であるにもかかわらず私鋳銭は横行し、五銖銭の信用が低下するにともない、布帛・穀物・金といった貨幣的機能を有する現物は、それまで以上に広く用いられるようになります」
ため息を言葉に置き換えるかのように、劉巴はつづける。
「五銖銭の価値低下を危うんだ章帝は、五銖銭を封蔵し、銭納の代替手段として布帛による納税を認められました。五銖銭は商取引における存在感の低下のみならず、公的な地位をも脅かされるようになったのでございます。どちらも一時的な措置であったはずですが、布帛による納税はいまでも黙認されております」
五銖銭の普及をめざしてきた漢朝が、五銖銭による市場売買の停止を宣告した。いや、宣告させられた。
悪銭が氾濫し、五銖銭の価値の低下に歯止めがかからなかったのだ。
物価を落ち着かせるために、いったん五銖銭による取引を停止せざるをえなかったのだ。
「五銖銭制の崩壊を決定づけたのは、董卓悪銭といっても過言ではございません。董卓が発行した粗悪な五銖銭によって五銖銭の価値は地に落ち、いまや庶民ですら五銖銭をひもでくくって、百枚単位、千枚単位で使用しております」
出たな、董卓。
三国志最大の悪役・董卓は、この時代においても、すでに王莽に比肩する大悪人と見なされている。
しかし奇妙なことに、王莽に言及したときとは異なり、劉巴の様子は平静そのもので、感情の乱れは見られなかった。
……まあ、劉巴は、董卓の貨幣政策に関心をそそられなかったのかもしれない。
董卓が発行した五銖銭は楡莢銭のように軽薄で、それ以上に粗悪なつくりだった。
そんな代物、誰も信用するわけがない。
最初から成功する見込みがなかったのだ。
この董卓五銖銭がばらまかれたせいでハイパーインフレが発生してしまい、吏民・貧富を問わずに、誰もが大打撃を受けた。
そんな状況下でも、庶民より取れる選択肢が多いのが富豪である。
彼らは金銀財宝や良質な貨幣をかき集めることで財産の保全をはかり、ある程度それに成功している。
もろにダメージを受けたのは、逃げ道がなかった人々である。
たとえば董卓は長安の近くに郿城という城を築いて、金銀財宝と食料を山のようにたくわえていたのだが、この城を築くためにはたらいていた人々には、労働の対価として董卓五銖銭が支払われた。
報酬が悪銭では労働者たちの生活は成り立たないし、そんな政権が長持ちするはずもない。
劉巴の目には、いろんな意味で救いようのない貨幣政策に見えるだろう。
もっとも、董卓には彼ならではの打算があったはずだ。
富裕層は金銀財貨を貯めこむことで難を逃れようとしたが、それを最も大規模におこなったのが董卓自身なのだ。
自分の損失をおさえたうえで、誰もが経済的に大打撃を受けるのであれば、董卓にとって悪い話ではない。
自分が不利益を被ってでも他者に損害をあたえようとすることを、たしかスパイト行動といったと思う。
労働者たちの不満? 恨み?
最初から彼らを使いつぶすつもりだったなら、気にかける必要もない。
はたらこうとしない者がいたら処刑すればいい。逆らう者がいたら処刑すればいい。
おっそろしい話だが、董卓からすればたいした問題ではあるまい。
「五銖銭の復権をはかり、曹丞相は良質な五銖銭を発行なさいました。ですが、いかんせん財源も原料銅も不足しております。発行量は微々たるもので、成果はまったくあがっておりません。焼け石に水と呼ぶことすらおこがましい現状です」
「そこで、曹丞相が劉巴どのに問われた、ということか」
私が確認すると、劉巴は両眼に使命の光を宿して、
「はい。貨幣制度を立てなおす妙案はないか、と。私は額面百銭の大銭を発行すべきだと答えました。曹丞相は興味を示されたのですが、その場に居合わせた丁儀どのが待ったをかけました」
「ほう?」
丁儀は豫洲沛国の人である。
沛国丁氏は同郷の曹氏と一族ぐるみで懇意にしており、丁儀の父親は曹操の幼馴染だったと聞いている。
また、現在の曹操の正室は卞氏なのだが、その前の正室は丁氏といい、この丁氏の出身だったはずだ。丁氏と丁氏でややこしいが、丁一族出身の丁夫人ということである。
「王莽が大泉五十を発行して失敗している。王莽と同じ過ちをくり返すのか、と丁儀どのは反発したのでございます……」
すらすらと説明をつづけてきた劉巴の声が、にわかに鈍くなった。
「私も反論いたしました。周の景王は大銭を鋳造して成功している、と」
「うむ。たしか、漢書にそのような記述があったな」
記憶を掘りおこしながら、私はそういった。
「丁儀どのも声高に主張しました。周代の話は遠い昔の出来事であり、半ば伝承のようなものではないか。そのような眉唾な話は先例として認めるべきではない。まして当時は統一貨幣ではなかったのだから、なんの参考にもならない、と」
劉巴は無念そうに顔をしかめて、
「丁儀どのの言葉にも理があります。私は引き下がることしかできませんでした。ですが、何度考えなおしても、額面の大きな貨幣が必要であると思えてならないのです」
ひとつ深呼吸をすると、劉巴は教師の採点を待つ生徒のような表情を浮かべて、
「額面価値と実際の重さが一致しない大貨幣について、胡先生はいかようにお考えでしょうか?」
「ふむ……」
私は重々しげにまぶたを閉じた。
劉巴が最も訊きたいことは、ようするに名目貨幣は成り立つか否か、ということであろう。
当然ながら、私は名目貨幣でまわっている社会を知っているし、なんなら物理的には存在しない電子マネーなんてものも知っている。
この千八百年の差を活かせば、それなりによさげな回答は出せると思う。
あとは、私がどうかみ砕いて説明するかだが……。




