第十四話 魏文帝
「あんたの師は自分のことを、うちの幕僚たちより下に見ているようだぜ」
曹丕は揶揄するような声を投げかけた。
夕餉のあと、司馬懿に客間に案内されているときのことである。
司馬懿は気にとめた様子もなく、
「私は同意できないな」
「ふぅん? どうして」
「仮に、彼らが野にいたとして、なにができた? 孔明先生に並ぶほどの功業をとげていたとは、とうてい思えぬ」
「……それはそうだな」
司馬懿の言葉を否定する理由は見当たらない。曹丕は素直にうなずいた。
孔明の功績は、在野にあって群を抜いている。とくに農具の開発によって、どれほど多くの民が救われたかは想像にかたくなかった。
「わが師にとって宮廷は狭すぎる、ただそれだけなのだ。誰に仕えずとも、千里先を見通し、万民を救える能力があるのであれば、なにも権力争いや雑務などに時を奪われることもあるまい」
「とんでもない自信家だな、おい」
「孔明先生がおっしゃったのではない。私が勝手にそう思っているだけだ」
司馬懿は足をとめた。
「ここが客間だ」
「ああ」
「なにかあっても勝手にうろつきまわるな。先生の手をわずらわせるな。私が泊まる部屋はすぐそこだから、用があるのなら、まずは私にいうように」
「……オレが曹操の子だとわかってからも、そんな態度をとっていいのか?」
曹丕が不思議がると、司馬懿は、
「私は曹操の部下ではない。……しかし、若君がお望みとおっしゃるならば、いくらでも丁重なあつかいをいたしま――」
「やめてくれッ!」
曹丕は得体の知れない寒気をおぼえて、体を震わせた。
「なんだか気色悪ぃ」
すると司馬懿は、短い沈黙のあと、
「……皇甫と名乗ったのは、曹操が名乗った偽名にならったのだろう?」
その声は落ち着いていて、尋ねるというよりも確かめているように、曹丕には感じられた。
「ああ」
「鑠と名乗ったのは、病弱で外に出られなかった次兄のかわりに旅をしよう、とでも思ってか?」
「…………」
曹丕は答えに詰まった。
家を飛び出してきたのに、家族とのつながりを求めているなんて。とんだ軟弱者だ。そのように思われてもおかしくはない。心外であるが。
「……では、長兄のかわりに自分が死ぬべきだったのではないか、と誰かに話したことは?」
あくまでも無表情に、司馬懿は言葉の槍を突きつけた。
「……話せるか、そんなこと」
ふてくされたふうに、じつのところ弱々しく、曹丕は吐き捨てた。
宛城の戦いから帰還したあと、曹操は周囲の者にこってりしぼられた。
乱世の奸雄もさすがにこたえたのか、あの戦の話題になると、とたんに機嫌が悪くなる。
亡兄の名を口にして、父の機嫌を損ねるような真似は、曹丕にはできなかった。
そうこうしているうちに、曹丕の心には鬱屈した思いがたまっていった。
兄がすべてをうしなったことによって、自分はすべてを手に入れようとしている。それはひどい裏切りなのではないか。
荀彧あたりに相談していれば、このうえなく正しい答えが返ってきただろう。
曹操の部下が、曹操の後継者に対して出す、疑う余地のない正答が。
だが、その正しさゆえに、兄は命を落としたのだと考えると、気が晴れるとは思えなかった。
「……そうか。ここに曹操の部下はいない。弱音を吐きたくなったら、また来るがいい」
「…………!」
司馬懿の硬質な視線が、曹丕を射抜いた。
胸の裡を見透かすようなその眸が、曹丕は気に入らなかった。
だが、不思議と不快ではない。
――ああ、そうか。
曹丕は知った。
自分はただ、愚痴をこぼす相手が欲しかったのだ。
曹家とは関係のない相手が。
自覚すると同時に、口が動いていた。
「冗談じゃない。弱音なんて吐いてたまるかよ」
弱音なんてゆるされない、と曹丕は思った。
兄の命を代償に、自分は生きているのだ。
この体には、曹家の旗に殉じた将兵の血が流れているのだ。
そう思うが早いか、腹の奥がかっと熱くなる。
その熱の塊は、一瞬にして全身の血潮を沸きたたせ、弱腰な自分を灰になるまで燃やしつくした。
「オレを誰だと思ってる。将来一〇〇万の将兵に号令をかけ、億の民草の上に立つ男だぜ」
のちに後漢王朝を滅ぼす少年は、胸を張って、昂然といってのけるのだった。
「父上、ただいまもどりました」
「おお、どこをほっつき歩いておった」
許都に帰った曹丕は、父の部屋を訪れた。
曹操は忙しい業務の合間だったのか、楽にしているようだった。
「はい、洛陽周辺を。陸渾の胡昭先生にもお会いしてきました」
「ほう……」
曹操の眸に興味の色が浮かぶ。
「おもしろい人物だったろう。おまえの目にはどう映った?」
試されていると感じとった曹丕は、緊張して、かすかに身をかたくした。
「まことの賢者とは、野に在ろうとも千里先を見通し、万民を救えるものなのでしょう」
より適切な言葉も見つからなかったので、とっさに司馬懿の言葉を借りる。
どうも自分はあの無愛想なでかぶつを、存外高く評価していたらしい、と曹丕は思った。
「じゃむの人は、今のままでよろしいのではないかと」
「……じゃむの人?」
聞いたことのないであろう単語に、曹操は目を丸くした。
「はい。これが胡昭先生といっしょにつくった『じゃむ』にございます」
陶製の小さなつぼをふたつ、曹丕は差しだした。
なかにはもちろん、りんごと梨のジャムがたっぷり詰まっている。
「……ふむ?」
曹操がジャムのふたをひらくと、なんともいえない甘くさわやかな香りがふわっと広がった。
曹丕は思わず、のどをゴクリと鳴らした。
紅い皮の色に染まった、つややかに輝くりんごのジャムである。
りんごなんて食味が悪く、すっぱいだけ。
小鳥にでも食わせておけばいい、と思っていた。
ところがジャムにするとぐんと甘くなって、その酸味が果実らしい切れのよさに生まれ変わるのだ。
小麦の粉を焼いた皮に、こんもりとのせて包むようにして食べるのがまたうまい。
口を大きくあけてほおばり、ひと噛みした瞬間、口中にどっとジャムがあふれだす。
とても甘くて、だけど上品で、舌がとろけそうなほどうまかった。
思い出しただけで、唾がこみあげ、口が緩みそうになる。
曹丕は余韻をなめとるように、口のなかで舌を一周させると、曹操がどんな反応をするか見守った。
曹操は子どものように目を輝かせ、ひとつうなずくと、さじに手を伸ばそうとした。そのとき、郭嘉が足早にやってきた。
「曹操さま。劉備の守る小沛が、呂布に落とされたようです」
ゆるんでいた空気が、たちまち張りつめた。
なぜ、劉備が曹操の命を受けて、小沛を守っていたのか。
これには、なかなかに奇妙な経緯がある。
興平二年(一九五年)、曹操に敗れた呂布は、徐州の劉備を頼った。
しばらくはおとなしくしていた呂布だったが、丁原、董卓と主君を裏切ってきた男は、やはり裏切りを繰り返した。
劉備が袁術と争っている隙をついて、徐州を乗っとったのである。
本拠地をうしなって流浪する劉備軍は、深刻な飢餓に見舞われた。
味方の肉を食らいあうにいたって、劉備はやむをえず呂布に降伏し、呂布は劉備を小沛に駐屯させた。
小沛は、曹操、袁術、呂布の三勢力がぶつかりあう最前線の地である。
当然、劉備は募兵をはじめた。
しかし、これに不安をかきたてられたのか、呂布は小沛を攻めたてたのだ。
劉備軍は、数でも練度でも大きく劣っていた。
そのうえ、飛将と呼ばれる呂布が相手では、とても対抗できない。
劉備が小沛を放棄して、曹操のもとに身を寄せたのが、建安元年(一九六年)のことである。
曹操は、上機嫌で迎え入れた。
人材獲得に貪欲な彼からしてみれば、歴戦の劉備主従がやってきたのだから、厚遇もしよう。
曹操は手を尽くして小沛を奪いとると、小沛の人心をつかんでいる劉備に城を任せたのであった。
つまり、劉備はまたしても、呂布によって小沛を追い出されたのだ。
「同じ相手に同じ城を奪われるとは、なにをやっているんだ、劉備はっ!」
曹丕は、劉備の不甲斐なさを非難した。
「まあ、そういうな。呂布と戦って勝てるのは余ぐらいのものだ」
曹操は苦笑を浮かべるにとどめ、手をつけぬままのジャムの小つぼを、文机においた。
「あれで劉備はなかなかの良将だぞ。関羽もいるしな、関羽も。なあ、郭嘉」
「そうっすね。オレは、騎兵をおさえればなんとかなる呂布より、劉備のほうが厄介だと思いますよ。劉備は民だけでなく、商人にも人気があるんで。博打ってのは結局、金があるやつのほうが強いもんです」
「……賭博ですったのだな。そうだろう?」
曹操があきれたように片眉をあげた。郭嘉はすっとぼけて、
「勝敗は兵家の常というじゃないっすか」
「ふふ、勝ち運は戦にとっておけ」
曹操の鳳眼に、機知と野望の炎が燃えあがった。
「さぁ、戦の準備だ。今度こそ、呂布を仕留めてみせよう」
……異様な光を放つ父の双眸を見て、曹丕の胸はずきりと痛んだ。
この眼だ。
己の才覚に絶対の自信をもつ、死中に活を見いだしてきた男の眼。
自分には真似できないものだと、うすうすわかってはいたのだ。
曹丕はどうあがいても曹操にはなれない。
目をそむけていたその現実を、受け入れなければならなかった。
そもそも兄に対する罪悪感や、父に対する劣等感にせきたてられた決意に、どれほどの価値があっただろうか。
いつまでも曹昂の幻と、曹操の背中を追いかけているわけにはいかなかった。
新たな時代を治めるにふさわしい人物に、曹丕はならなければならないのだ。
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曹丕の興味は詩文のみならず、未知の事象にも向けられていた。その一例として、著書『典論』では、火浣布について言及している。
火浣布とは、周代に西戎から献上された燃えない布のことであり、炎火の山に住む鳥獣の毛でつくられたもの、と当時は考えられていた。また後漢の梁冀は宴席のさなか、火浣布の衣を火に投げこませて、周囲の者を驚かせたとの記録が残っている。
しかし、それから長らくこの布地が世に出ることはなく、人々はその存在を疑っていたという。
曹丕は、すべての生命は火の性質の前に容赦なく焼き尽くされると考え、火浣布の材料は生き物の毛や皮ではなく石である、と『典論』に記した。
この『典論』は、曹叡が即位するにおよび、不朽の格言として石碑に刻まれた。
239年、西域の使者が火浣布を献上したので問いただしたところ、『典論』に記されたとおり、火浣布の材料が石(石綿)であることが判明した。
曹丕の理知に人々はみな感嘆し、その短かった治世を惜しみ、懐かしんだという。
後世、隋の開祖楊堅は火浣布の記述が刻まれた石碑を見て、「魏の文帝は開明的な君主であり、民衆にとっては仁君であった」と評し、為政者は手本とすべきであるとした。
この石碑は元代に洛陽から大都へ移設する際、事故にあって水没してしまったが、2009年に発見され、古代中国の先進性を示す貴重な経典刻石として一級文物に指定されている。
曹丕 wiikiより一部抜粋
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