第一三八話 劉巴の相談
私と司馬懿は馬車に乗って、劉巴が待つ官舎へとむかっていた。
「劉巴どのは、権力にまったく興味がない人物です」
と語る司馬懿に、私はあいづちを打つ。
「ほう」
「鄴の士大夫たちを緊張させている曹丞相の後継者問題にも、彼は関心を示しておりません」
司馬懿はいったん言葉を切ると、ひげをたくわえたあごをつまんで、首をかしげた。
「ですが、あえて分類すれば、子桓さまの支持者といえるでしょう」
司馬懿は曹丕のことを子桓さまと呼んだ。
御者の耳もあるし、外では誰が聞いているかわかったものではない。
家のなかで話すようにはいかないのだ。
この鄴には、敵にまわしてはいけない権力者がたくさんいる。
私も気をつけねばなるまい。
「なぜ、曹丕さまを支持していることになるのだ? 劉巴どのは権力争いに興味がないのであろう?」
「彼は常日頃から、名士らしくあろうと心がけているようです」
「ふむ」
「その手本とすべき人物が陳羣どのであり、劉巴どのは子桓さまの支持者というより、陳羣どのの信奉者なのです」
「なるほど」
司馬懿と同じく、陳羣も曹丕の側近である。
陳羣の意見に従うのであれば、曹丕派と見なされてもおかしくはない。
……待てよ。
そうなると司馬懿と陳羣が側近な時点で、私も曹丕派にカウントされる可能性があるのではなかろうか?
この前、曹丕主催の宴席に参加しちゃったし。
いかんな。もうすこし注意深く行動しないと。
まあ、勝ち馬に乗るのが私流の三国乱世必勝法なわけでして。
もし曹丕派と見なされたとしても、たいした問題にはならないような気もするが。
とはいえ、前世の歴史どおりに曹丕が後継者争いで勝利すると保証されているわけでもない。
前世と大きく異なる点といえば、荀彧が生きていることと、曹操が赤壁の戦いで勝利して荊州を治めていることである。
荀彧であれば長男の曹丕を支持しそうに思えるが、彼は曹操の後継者問題に関しては口を閉ざしている。
劉備・孫権連合軍を撃破した曹操はどう考えているだろうか?
なにしろ、むかうところ敵なし状態である。
能力主義の彼が自分の主張を通して、曹植を後継者に選ぶことも十分に考えられる。
……けどなあ。曹操は文学に心を奪われているわけではない。
彼が文学を称揚しているのは、あくまで儒教や名士、漢朝の影響力を減らすのが目的なのだ。
人物鑑定眼にすぐれた曹操が、文学の才能と自分の後継者としての素養を混同しているとも思えないし、曹植の能力は詩文に限定されているようにも思える。
そんなことを考えているうちに、馬車がとまった。
いかにも官舎といった狭小住宅が密集する一角で、私と司馬懿は馬車を降りる。
ほぼ同時に、私たちの到着に気づいたらしい陳羣が、ひとりの男をともなって、門前に姿をあらわした。
男の年齢は三十手前に見える。
彼が劉巴だろう。
私は白羽扇を右手に握ったまま、拱手する。
「陸渾の胡昭。字は孔明と申す」
劉巴は顔だけでなく全身に緊張をみなぎらせ、大仰に拱手を返した。
「楚王劉英の七世の孫、六安侯劉种の六世の孫、蒼梧郡太守劉曜の孫、江夏郡太守劉祥の子、零陵郡は烝陽県出身の姓は劉、名は巴、字は子初と申します」
何度も練習したかのように、劉巴はひと息にいいきったが、よどみない言葉のわりに、その声は硬く、ぎこちなかった。
うーむ、がちがちに緊張しておられる様子。
「胡昭さま。ようこそおはこびくださいました。お会いできて幸甚の至りに存じます」
「ははは、さまと呼ばれるのは、どうにも面映ゆいな。そうかしこまらないでくれ、劉巴どの」
こんな調子で話していたら、こちらまで肩が凝ってしまう。
劉巴は視線を宙にさまよわせて逡巡すると、
「……それでは、胡先生、でいかがでございましょう?」
「む……それでかまわぬ」
「はっ、承知いたしました」
劉巴は額に浮かんだ玉のような汗を、手巾で拭き取ってからつづける。
「それにしても、陳羣どのも、さまと呼ばれるのは性にあわないようでございましたが、胡先生もそうでございましたか」
そこで、陳羣が苦笑を浮かべながら口をはさんだ。
「私と劉巴どのが初めて顔をあわせたときも、同じようなことがありまして」
「名士たる者、士大夫の模範とならなければならぬ。卑屈になってはならないのだ。そう思いながら私は生きてまいりました。ですが、こうして目下の者にも礼をかかさぬ胡先生や陳羣どのとお会いすると、堂々と生きようとするあまり、周囲への配慮を欠いていたのではないかと、慙愧の念にかられるばかりでございます」
劉巴はそういって、今度は首筋に浮かんだ汗を拭う。どんだけ汗っかきなのだろう。冷や汗というやつだろうか。
日の入りが近づいても気温が高止まりしているため、私も背中に汗がにじむのを感じているが、いくらなんでも劉巴ほど汗だくではない。
「責任感が強く、おのれに厳しい。それは劉巴どのの美徳ではありますが、ときとして重荷になっているようにも感じられます。なにごとも中庸を心がけるべきだと思うのですが……」
陳羣は困ったようにいい、こちらに視線をむけてくる。
援護射撃してほしそうな視線だったので、私は陳羣に同意するように、
「うむ。劉巴どのは自制が利く御仁のようだ。気負うくらいなら、肩の力を抜いたほうがよい結果につながるかもしれぬな」
「ありがたきお言葉でございます。ささっ、粗末な家ですが、どうぞお入りください」
小さな息をついて余分な力を抜くと、劉巴は私と司馬懿を家のなかに招き入れた。
いちおう国が用意してくれてるわけだし、官舎を粗末な家と形容するのはいかがなものだろうか。
ちらりとそんなことを思ったが、たしかに立派な家とはいいがたかった。
都の鄴にあっても、司馬懿や陳羣の家は邸宅と呼んで差しつかえない程度には大きかったが、劉巴の家は手狭で、大人四人がむしろに座ると窮屈に感じられる。クールな司馬懿さんの存在がいつになく暑苦しい。だって、圧迫感があるんだもの、大柄だから。
劉巴の奥方が酒とつまみをはこんで、奥の間に引っこむと、劉巴は簡単に身の上話をする。
「私は郷里の零陵で、下級官吏として勤めておりました。曹丞相が荊州を統治なさると、民心を落ち着かせるために荊南の四郡を走りまわることになり、その功績を認められて、鄴で忠勤に励む栄誉を賜りました」
劉巴の身の上は、陳羣からも聞いている。
彼は主君の劉表とあまり仲がよくなかったそうだ。
劉表の後を継いだ劉琮が降伏すると、曹操に仕えることになり、赤壁の戦いが終結してからも、しばらくは荊南ではたらいていた。
劉巴はかねてより鄴ではたらきたいと希望しており、その念願がかなったのは、一年ほど前のことだという。
「つい先日のことでございます。じつは曹丞相から、貨幣政策についてご下問を受けたのです」
劉巴は深刻な顔をして本題を切りだした。
「貨幣政策というと、五銖銭に関することであろうか?」
私が訊ねると、劉巴はうなずいて、
「さようでございます。武帝以来、漢朝は五銖銭による統一貨幣制度の普及に努めてきました。ですが、この制度は幾度となく破綻の危機に直面しています」
劉巴は眉をひそめた。いつの間にか、彼の顔から汗が引いている。あまりに巨大な問題を前にして、血の気まで引いているようだった。
「うむ……正常に機能しているとはいいがたいな」
そう応じながら、私は思う。
なるほど、経済問題か……。
こいつは厄介そうだ。




