第一三七話 三回死んだ名将
突然の訪問者が立ち去ると、司馬懿はどこか得意げにいった。
「この司馬仲達、感服いたしました。楊修は、曹丞相の鼻をへし折るほどの切れ者。それを、こうも鮮やかにあしらうとは……」
お、おう……。いやまあ、最初からまともに対話するつもりなんてなかったから、あしらうような形になってしまったわけだが。
私はコホンと咳払いをして、
「それはともかく。彼はなにを企図していたと思う?」
「先生を曹植側、あるいは漢朝側に引きこみたかったのではありませんか」
私の質問を予期していたのか、即座に答えが返ってきた。
「やはりそうか」
私だけでなく司馬懿までそう考えているのなら、まずまちがいないだろう。
司馬懿は首をかしげて、
「ただ、強く勧誘してくるそぶりもなかったように感じられました。おそらくですが、今日は探りを入れにきただけでしょう」
「ふむ。そんなところであろうな」
私は、もっともらしくうなずいた。
たしかに、しつこく勧誘してくる感じではなかった。楊修も手探りだったのだろう。どのような形でなら私を利用できるのか、見定めようとしていたのだ。
「そのうち、より明確な意図をもって接触してくるかもしれません」
司馬懿はそういってため息をついた。
彼の目から見ても、楊修は気が抜けない相手なのだろう。
私は辟易したかのように眉をひそめて、
「迷惑な相手ということだな。私にとってだけではあるまい。仲達も気をつけたほうがよいぞ」
「はっ。心得ております」
司馬懿は真剣な表情でいい、姿勢を正した。
「ところで……私も気になっております」
「うむ? なにがだ」
「先生は、曹軍一の名将は誰だと考えておられるのでしょうか?」
「むっ……それか」
それ、聞いちゃう?
司馬懿はじっと私を見つめてくる。その目にはっきりと興味の色が浮かんでいるのを見て、私はあらためて悩む。
「ううむ。……曹操、と答えるわけにはいかぬであろうな」
「曹操以外という条件ですから」
曹操と答えることができれば、それが一番あとくされがないはずだが、やっぱりダメなようである。
「曹丕・曹植の一方と同じ答えになるのは、私の気が進まぬ。となると……」
そのとき、私の脳裏に電撃が走った!
これは使える!
曹仁と夏侯淵は曹操の一門という理由で除外できるとして、曹魏を代表する名将は五人いる。
後世、五大将軍と呼ばれることになる彼らは、
命乞いの于禁!
影が薄い楽進!
孟達に額を射抜かれる徐晃!
正史のほうが活躍している張遼!
そして、三回死んだ張郃である!
……こうして並べてみると、そろいもそろって残念というか、微妙なあつかいだが、無理もない。
長年、三国志の主役は劉備や諸葛亮だったから、曹魏の名将たちは引き立て役にならざるをえなかったのだろう。
で、私が着目したのは張郃である。
一部の三国志ファンのあいだで、彼は三回死んだ名将として知られている。
もちろん、本当に三度も死んでいたら人間じゃないので、あくまで後世の創作、日本の三国志ブームの火付け役ともいうべき、吉川英治が書いた小説三国志のなかでの話である。
三回すべてではないが、そのうち二回は、私の記憶にもある。
一回は長坂の戦いにおいて。青釭の剣を手に入れた趙雲によって討ち取られる。
もう一回は諸葛亮の北伐時。退却する蜀軍を深追いした張郃は、いわゆる孔明の罠にかかって命を落とす。史実においても、このとき戦死しているようだ。
じつは、張郃自身は追撃に反対していたという。
それなのになぜ深追いしてしまったかというと、総大将の司馬懿に命じられたからなのだ。
この追撃命令は、司馬懿の戦歴において最大の失態といっても過言ではない。
そこでだ!
この機会を活かして、司馬懿が張郃の意見を尊重するようにしむけておけば、司馬懿の失態フラグを、ひいては張郃の死亡フラグをへし折ることができるのではなかろうか!
この世界で、諸葛亮の北伐がおこなわれるのかはさだかではないが、とりあえず、やっておいて損はないように思える。
ふふふ、楊修との会話といい、今朝の私は冴えている。
昨夜のうちから、今日は頭を使うことになるだろうなと思いながら就寝したおかげだろうか。
頭がギュインギュイン回転しているように感じられる。
私は自信ありげな表情をつくって、曹軍一の名将の名を答える。
「張郃であろう」
「張郃ですか」
「うむ。彼は黄巾の乱のころから戦場に立ち、さまざまな戦場において常に水準以上の判断と結果を示してきたと聞いておる」
「戦況や地形に応じて臨機応変に立ちまわれる。なるほど、真に名将といえましょう」
司馬懿は双眸に納得の色を浮かべ、ゆっくりとうなずいた。
「仲達、おぬしの将才があれば、いつの日か軍を任されることになろう」
「恐縮です」
大きな身体を縮める司馬懿に、私はさらに教訓を垂れる。
「だが、臨機応変、攻防一体といった言葉を体現している張郃のような敵将と遭遇すれば、苦戦は免れまい。なにしろ、おぬしが物心つくかどうかというころから戦場を駆けまわっていたのだ。場数がちがいすぎる。経験の差はいかんともしがたい」
「はっ」
「逆にいえば、副将として彼のような人物を得ることができれば僥倖である。敬意をもって接し、その意見に耳をかたむければ、悪い結果にはなるまい」
「はっ、肝に銘じておきます」
私の目を見据えて、司馬懿は答えた。
経験の重要性を理解できぬ司馬懿ではない。
これで張郃の進言を無視して追撃命令を出す可能性は、ぐっと減ったはずである。
……まあ、前世の歴史どおりに諸葛亮が北伐に動きだし、司馬懿が総大将、張郃が副将になって迎え撃つと仮定したうえでの話だ。
もともと実現する可能性は低いし、私の取り越し苦労かもしれない。
けれど、別の戦場で総大将司馬懿、副将張郃という組み合わせになることだって考えられるわけだし、司馬懿にいったように、張郃の意見に耳をかたむければ悪い結果にはならないだろう。
思案する私に、司馬懿は声をひそめていう。
「ご安心ください。このことは、けっして口外いたしません」
「……うむ?」
「孔明先生が曹軍一の名将を名指ししたと知られれば、我こそはと思う将軍たちは気が気でないでしょう。彼らをむやみに刺激することもありますまい」
そこまで騒ぎ立てるほどのことでもないと思うが……。
いや、司馬懿がいうのならそうなのかもしれない。
「ふむ……軽はずみな批評を広めるわけにはいかぬ、か。それが賢明であろう。楊修がいっていたように、人物評は名士の既得権益となっているが、だからこそ慎まなければならぬ」
「派閥づくりに無関心な孔明先生にしてみれば、わずらわしい話でしかありませんが……」
司馬懿はそれこそわずらわしげに冷笑を浮かべると、鶏を絞める料理人のような目つきで、
「楊修が、董卓と羌族の関係に思い至らなかったのは、彼の視野に異民族の存在が映っていなかったからでしょう。人事考課や権力闘争ばかり見ているのだとしたら……。しょせん、彼はその程度の男だったということです」




