第一三六話 名士らしく
「ふむ。楊修どのは、私のことを人物評の第一人者だなどと持ちあげてくれるが、私は人物評を利用して潁川閥を広げようとしてきたわけではない。だからといって、儒教を軽視するつもりもないが」
そもそも曹操が儒教の影響力を削ごうとしているのは、儒教が名士たちの既得権益となっており、その権益を維持するために、名士たちが儒教国家・漢を護持しようと虚々実々動きまわるからである。
その点、政争に無関心な私は、曹操にとって都合のよい名士といえる。
司馬懿がいっていたではないか。曹操にとって、在野の名士・胡孔明は利用価値がある。私を引き合いに出して、権力闘争に明け暮れる名士たちの士名を貶めるのに利用できる、と。
あやうく本質を見誤りそうになったが、曹操が私に望んでいるのは、『権力に近づこうとしない名士』であって、文学か儒教かはそこまで重要ではない。
私が名士らしく儒教を重んじてみせたところで、曹操は私に危害を加えようとせずに、
「儒教を重んじ、君主権力から独立して自律の道を歩む。胡孔明は、名士のあるべき姿を体現しているといえよう。それにひきかえ、おまえたちは……」
とでもいって、反曹操派の名士たちの評判を落とそうとするだろう。
つまり……私が儒教を推したとしても、曹操の攻撃の矛先は、私ではなく反曹操派の名士たちにむけられるのだ! まったく全然問題ないな、よしッ!
「それが高士のあるべき姿というわけでございますな」
内心とは裏腹のいかにも名士らしい私の言葉を聞いて、楊修は感嘆と安堵の表情をした。
彼は、私の主張をそっくり肯定するかのような声音で、
「我々名士と呼ばれる者は、社会秩序をかたちづくり、理想の国家を実現させるために、儒教を指針としてきました。その指針が失われてしまうのではないか、と不安を感じている者も少なくありません」
指針ではなく利権が失われるのをおそれているのだろうな、と思いつつ、私は訊ねる。
「楊修どの自身はどう思っておられるのだ?」
「まったく不安がないと申せば嘘になります」
楊修は眉をひそめて、不安と困惑をあらわした。
「ふむ……たしかに、私も儒教の現状と先行きには不安を感じておる」
「官途に在ろうと野に在ろうと、名士は名士。天下を憂える気持ちは同じということでございましょう」
楊修は私に寄り添うような発言をくり返したが、彼に同志あつかいされるのはごめんである。
フフフ、と私は意味ありげに笑って、
「天下を憂える気持ちは同じであれど、見ているものはちがうかもしれぬぞ」
「……と、いいますと?」
「立場が異なれば見える景色も変わるものだ。曹丞相が推し進める人事改革は、政にたずさわる楊修どのにとって身近な出来事であろう。だが、無官の私にとってはそうではない」
「それでは……胡昭どのはなにを不安に思っておられるのでしょうか?」
粛然とした様子で、楊修は疑問の声をあげた。
私は自信をもって断言する。
「異民族だ」
「夷狄……と儒教に、どのような関連が?」
楊修は疑問の声を怪訝のそれに変えた。
「漢朝は、徳を重んじる儒教を官学とし、寛容な政治を心がけてきた。だが、北方を旅してきた私の目に映ったのは、漢朝の寛治を柔弱と見なしている彼らの姿だった。寒冷化のせいで、彼らの南への進出意欲は高まっている。我々の国は、異民族に狙われているのだ」
楊修は曹操をやりこめるほど明晰な男である。
そんな男と対等な立場で議論なんてしてたまるか。
立場のちがいを生かしてマウントを取るのだ! マウントを取って反論を封じるのだ!
私は異郷を旅してこの目で異民族の実態を確かめてきたが、楊修にその経験はない。異民族についてなら、まちがいなく私のほうがくわしいのである。
前漢の趙充国が残した「百聞は一見にしかず」という言葉を、まさか楊修が知らないはずもない。
「ですが胡昭どの。寛治を旨としている漢朝も、夷狄に対しては硬軟織り交ぜた対応をしてきたように思います。逆らう者は軍事力をもって徹底的に弾圧し、従順な者には恩徳をほどこして体制内に取り入れ、同じ夷狄と戦わせる。たしかに、彼らの軍事力には警戒が必要でしょうが、力があるなら分裂させて、同胞どうしで争わせればよいだけのこと」
落ち着いた様子で、楊修は反論を呈した。
事実である。あくまで正しい意見をいう楊修。自分に不利な話題だとわかっているはずだが、そこに動揺の色は見えない。
一貫して友好的な雰囲気を醸しつづけている彼の本心を、私は確信をもってこれだと判断することができなかった。司馬懿の無表情のほうがわかりやすいような気がしてくる。
ともかく、私は自分に有利な戦場をはなれるつもりはない。異民族をからめて話を組み立てる。
「その手がいつも成功してきたわけではない。いつまで通用するかもわからぬ。……そうだな、たとえば董卓を見るがよい。彼はおそろしい男だった」
「まさしく。私の本貫地である弘農郡も、胡昭どのの潁川郡や司馬懿どのの河内郡同様、深刻な害を被りました」
「董卓を主体とした見方をすれば、彼の軍勢が精強であったのは、羌族の兵を組み入れていたからであろう。しかし、羌族を主体とすれば、自分たちに友好的な董卓を利用し、漢を分裂させて略奪に成功したともいえる」
「……っ!?」
なにもかもが計算ずくに感じられた楊修の表情に、はじめて亀裂が入った。
「董卓が羌族を一方的に利用していたとは思えぬ。その後の動きを見ればあきらかであろう。董卓亡きあと、羌族は李傕軍の兵となって長安を襲撃したが、李傕が吝嗇家で十分な報酬を得られないと知るや、長安を去っている。彼らは意思を奪われて隷属していたのではない。董卓に協力したことも、李傕を見かぎったことも、報酬の多寡によって、みずからの意思で選んだのだ」
「…………」
楊修は息をのんで黙りこんだ。
董卓という巨悪の裏で異民族が糸を引いていた、とまではいわないが、羌族が董卓を利用して利益を得ようとするのは、よくよく考えれば当然である。
董卓は羌族と友好的な関係を築くことには成功していたが、彼らを支配していたわけではないのだから。
「自分たちに都合のよい人物を利用して、敵対勢力を内部分裂させ、同胞どうしで争わせる。董卓の乱に見え隠れする羌族のやりかたは、まるで漢朝の異民族対策をそのままやり返されたようにも見えるではないか」
「……たしかに」
頭を忙しく回転させているのか、楊修は視線を宙にさまよわせる。
この説は、異民族を夷狄とさげすみ、漢朝を聖漢とする人々にしてみれば受け入れがたいものである。
そうした人々は、夷狄との知恵比べで後れを取ったことを認めようとせず、漢帝国の純然たる内紛、あるいは董卓個人の問題に帰結させたがる。
楊修が動揺しているのは、彼の知性が盲目的な思考停止を許さないからだと思う。
名士のなかの名士をよそおい、私は宣告する。
「国家であれ、儒教であれ、我々はみずからの意思で刷新していき、あらたな力を手に入れなければならないのだ。このまま停滞していては、董卓のごとき災厄にふたたび見舞われよう」
国家を案じているからこそ、儒教に重きを置いているからこそ、そこにあらたな風を吹きこまねばならないのである!
しっかりと名士っぽい主張をしつつ、変革を求める曹操の意向にも逆らわない。
……こんな感じで大丈夫だと思うのですが、いかがでしょうか?
眉をゆがめる楊修を見すえながら、視界の片隅で確認する。
司馬懿が小さくうなずいた。その口の端にうっすらと満足そうな笑みが浮かんでいるのを見て、私は安堵の息をつくのであった。




