第一三五話 中立の弱点
「これはご謙遜を。胡昭どのは人物評の第一人者ではございませぬか。しかも、武人に対する理解も厚いと聞いておりますが」
さも意外そうに、楊修は目を瞠った。
「交流があればこそ、順位をつけたくない気持ちがまさるのだ」
私の主張は、「気分的にやりたくないからやらない!」である。
なんという感情論。しかし、問題はないはずである。
曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した許子将だって、最初は批評しようとしなかったのだ。曹操がしつこかったから、しかたなく評価を下しただけで。
「なにより、私情をはさまずに順位をつけるのはむずかしかろう。……ふむ、そこで客観的に評価できるのであれば、私は官途を歩んでいたかもしれぬな。ははは」
と私はつけたして、軽やかに笑った。
順位をつけたがらないのは私個人の事情であって、そのような質問を発した曹操が悪いのではない、というフォローである。
「なるほど……。それも道理かもしれませぬ」
楊修は納得してみせた。
インテリ名士である彼には、曹操のようなしつこい態度はとれまい。引きさがるしかないはずだ。
楊修はつづけて、
「この曹操さまの問いに、子桓さまは于禁、子建さまは張遼とお答えになりました。ぜひ胡昭どののご意見もうかがいたかったのですが」
「ほう……」
表面上は感心しながら、私は肝を冷やしていた。
もし、まっとうに答えようとしていたなら、私はきっと張遼と答えていただろう。
楊修は、曹植と私の答えが一致していたことを、おおげさに触れまわったにちがいない。
たいしたことではないような気もするが、そんな小さなことからでも、曹丕と曹植の後継者争いに巻きこまれるかもしれないのだから油断は禁物である。
それにしても、曹丕の答えが于禁だったとは……。
たしかに、現時点での于禁の武功は、張遼にも劣るものではない。
あくまで現時点では、だが。
後世における于禁の評価は、かんばしいものではなかった。
于禁は、関羽に降伏して晩節を汚してしまうのだ。
その後、捕虜交換だかなんだかで魏にもどった于禁に対して、曹丕はいたわりの言葉をかけ、曹操の墓に参拝するよう命じる。
だが、それは曹丕の巧妙な罠だった!
曹丕は、曹操の墓の壁に、于禁が関羽に命乞いをする場面を描かせていたのだ。
あわれ、壁画を見た于禁は恥辱のあまり憤死してしまう。
いじめである。辱めをあたえて死に追いやったのだ。
曹丕の陰険な性格をあらわすエピソードといえよう。
その曹丕が、まさか于禁を曹操軍一の名将だと思っていたとは……。
常日頃から称賛していた于禁が降伏したことで、恥をかかされたと感じたのだろうか。
それとも、信じていた于禁に裏切られ、敬意やあこがれが憎悪に変質してしまったのだろうか。
再確認させられる。現状の関係性は悪くないはずだが、やはり曹丕には警戒が必要である。
彼には、陰湿かつ怒りの沸点が低い逸話が、いくつかあったはずだ。それでいて魏の帝位につき、絶対的な権力を手に入れるのだから、ある意味曹操よりも危険な人物と見ておかなければならない。
楊修は申し訳なさそうに苦笑して、
「これは私の質問がよくなかったようです。胡昭どのもご存じのように、最近、鄴では曹操さまの後継者問題についてよからぬ噂が流れています。子桓さまと子建さまを比較するような話題はさけるべきでございました」
「ふむ、楊修どのは賢明な御仁だ。たしかにその話題はさけたほうがよいやもしれぬ」
「私は子建さまの側近ともいうべき立場にいるゆえ、どうしても、そのようなわずらわしい噂が耳に入ってきてしまうのです。子桓さまの側近である司馬懿どのも、似たような思いをしているのではありませんか?」
司馬懿は無表情のまま、小さく首をかしげて答える。
「そうですな。しかし、ご兄弟の仲が悪いとも思いませぬ。周囲の者が騒ぐから波風が立ってしまうのでしょう」
司馬懿の言葉に、楊修は我が意を得たといわんばかりに大きくうなずいた。
「まったく司馬懿どののいわれるとおりです。ご兄弟で争わずにすむよう取り計らうことが、おふたりに近侍する我々の役割でしょう」
おまいう!
楊修、おまえ、どの口でそんなこといえんの?
おまえ、曹植のブレーンだろう。
曹植派の中心人物としていろいろ画策してたじゃねーか!
ふん、善良そうな言葉で兄弟仲を案じてみせたところで、私は絶対に騙されないからな。
楊修は悩ましげにため息をついて、
「もっとも、この問題が大きくなるも小さくなるも、曹操さまのお心ひとつ。司馬懿どのも知っているでしょう。曹操さまは自身の後継者問題を利用して、人事評価の基準を変えようとしておられる」
「…………」
司馬懿は無言で、かすかに眉をひそめた。
「胡昭どの。我々名士と呼ばれる者は、儒教に基づいた人物評をおこなうことで紐帯をはかり、また人事に影響をおよぼしてきました。どうも曹操さまは、そのつながりを時代遅れと見なしておられるようなのです」
「ほう?」
私はしらばっくれた。
楊修に説明されるまでもない。
曹操が儒教国家である漢を打倒するために、文学というあらたな価値観を普及させようとしていることは、私もすでに知っている。
「人物評そのものの価値が否定されようとしているのです。これは胡昭どのにとっても、よろこばしいことではありますまい」
名士たちの儒教利権が失われようとしている。人物批評の価値が損なわれるとあらば、私にとっても他人事ではなくなってくる。楊修はそう訴えているのだろう。
てっきり楊修は曹植の味方をつくるために動いているのだと思っていたが、どうやらそんな単純な話ではなさそうである。
ここで私が曹操に怖じ気づいて、文学的価値観を受け入れるべきだと発言すれば、楊修は文学の申し子曹植の側近として、私と親交をむすぼうとするだろう。
逆に、儒教を尊重すべきだといった趣旨の発言をすれば、名士として私との交流を深めればよい。
どっちに転んだところで、彼は損をしないというわけだ。
私は杯に手を伸ばし、白湯に柑橘をしぼった飲み物でゆっくりと口をうるおす。
この際、楊修はさほど問題ではない。
本当に問題となるのは曹操と曹丕である。
文学を推せば、曹丕に恨まれるかもしれない。
儒教を重視すれば、今度は曹操に敵視される可能性が出てくる。
私の十八番である中立的な発言もダメだ。
私が考える中立の範囲と、曹操や曹丕のそれが完全に一致するとは思えない。
下手をすると、両方からにらまれる最悪の状況になりかねない。
むむむ……。
正直、性格面を考慮すると、曹操よりも曹丕のほうが危険な気がする。
いちおう司馬懿という安全弁もあるにはあるが、彼は最終防衛ラインでもある。
最初からあてにするのはよくないだろう。
文学推しは、なしだ。
儒教寄りのスタンスをとったほうが安全に思える。
そうなると、どの程度であれば、曹操の機嫌を損ねないかだが……。
いや、待てよ。
……うん、いける。
これなら問題はなさそうだ。
杯を置いて、私は泰然と口をひらいた。




