第一三二話 龐統VS胡孔明
なぜ司隷がなくなったのかといえば、曹操が魏公に封じられる直前に、天下十四州が九州に再編されたからである。
司隷だった地域は豫州、冀州、雍州の三州に編入された。
三国志ファンにはなじみが薄いかもしれないが、雍州とは、涼州の西部四郡を分割して置かれた州である。
この雍州の管轄区域が大幅に拡大され、涼州と司隷西部が吸収されたのだ。
陸渾県がある弘農郡も雍州に編入されたのだが、陸渾はぎりぎりのところで豫州に組み入れられた。
「いやあ、陸渾が雍州とならずにすんだのも、孔明先生のご威光のおかげでしょうな」
県令の脂ギッシュ張固は、わざわざ私に会いにきて、揉み手をしながらそういった。
雍州の県令と、豫州の県令とでは、後者のほうがずっとイメージがいいわけで。
辺境州の県令とならずにすんだ、という安堵の思いが強いようであった。
とはいえ、その判断に私の存在が影響したとは思わない。
おそらく、荊州の南陽郡から洛陽への移動ルートにぎりぎり引っかかると判断されたのであろう。
もちろん、豫州に編入されたのは陸渾だけではない。
洛陽がある河南尹、つまり司隷の東南地区も、豫州になった。
そして、残る司隷東北部、河北に位置する河内郡と河東郡だが……。
この二郡は、青州の河北地域、并州 、幽州とともに、冀州に組み入れられた。
つまり、河北全土が、旧袁紹領に匹敵する約四州分の土地が、冀州一州となったのである。
いうまでもなく、この再編を主導したのは曹操であり、得をするのも曹操である。
丞相で魏公となった曹操は、忘れられがちだが、冀州牧でもある。
この再編によって、曹操の自治は、広大な河北全土におよぶようになった。
よくよく考えれば漢が滅びるぐらいなんだから、行政区分がどうなろうがいまさら驚くほどのことではないのだろうが、それまで常識だと思っていたことが変わると、やっぱり抵抗感はあるわけでして。
漢をとっくに見かぎっている私ですら、最初に聞いたときは、ちょっとやりすぎではないかと感じたのだ。
当然のように、「曹操の横暴、許すまじ!」と、一部の士大夫たちの反発は強まっている。
つぎに、呉で起こっているちょっと不思議な現象について。
広陵に行ったとき、別行動をしていた弟子の鄧艾と石苞が、陸遜と名乗る人物と遭遇した。
彼らの証言によると、三十歳前後の、顔立ちは整っているものの、やる気のなさそうな人物だったらしい。
呉の陸遜といえば、三国志ファンにはおなじみ、呉の大黒柱となる人物である。
こういうときに、私がやることは決まっている。
手紙だ。手紙を書くのだ。広げよう、ペンフレンドの輪。
そんなわけで、私は、弟子が世話になったという感謝の手紙を、陸遜に送った。
彼は呉郡の大姓、陸氏の出身なはずだから、孫権の部下、呉郡陸氏の陸遜さま宛にすればとどくだろう。
で、以後よろしくお願いします的な返書がとどいたので、荀彧にも手紙を送った。
『孫権の家臣に陸遜っていうとんでもなく優秀な人物がいるぞ。気をつけろよ』
表向きは陸遜と仲良くしておきながら、裏では注意喚起の手紙である。なんて姑息。
けれど、陸遜の存在には留意しておかないと、とんでもない大敗を喫しかねない。
で、荀彧からの返書にはこうあった。
『呉郡陸氏に、陸遜という人物はいないようだが……?』
……どういうことだってばよ?
陸遜が存在しない? そんなバカな。
では、鄧艾たちが会った男は何者なのだろうか?
私と手紙のやり取りをしている陸遜なる人物はいったい……?
鄧艾と石苞の話によると、その人物はおそらく孫権の家臣で、陸遜という名は偽名の可能性が高いそうである。
ということは、誰かが陸遜の名を騙っているのだろうか……。
しかし、呉の大黒柱になってからならともかく、現時点で陸遜と名乗る理由がないような気もする。
偽名を使っている時点で、それなりに理由なり事情なりがあるのだろうし、手紙で本名を聞いちゃっていいのだろうか……。私は決断できずにいる。
最後に、劉備軍について。
交州を占領した劉備軍が、州境を越えて益州に入っている。
張魯と戦うための援軍として、劉璋が招き入れたようだ。
前世でも似たような形で劉備は入蜀に成功していた。
たしか――。
江陵以南の荊州南部を占拠した劉備は、劉璋の要請を受け、対張魯の援軍として堂々と益州に入る。
人のいい劉璋はみずから出迎え、宴をひらいて、劉備たちをもてなした。
その油断しきっている姿を見て、劉備の軍師となっていた龐統は、こう献策する。
「劉璋を暗殺してしまえば、労せずして蜀が手に入ります」
そこは三国志演義の主役たる劉備、そんな外道な策は採らない。最初から蜀を奪うつもりで来ているくせに、と思わなくもないが、とにかく龐統の案を却下する。
だが、張松が劉備を益州の君主として迎え入れようとしていたことが発覚。敵対関係が明確になると、劉備軍はどこかの関だか城だかを強奪して、成都をめざし進軍を開始した。
次々と城を陥落させていく劉備軍。
しかし、彼らの前に益州一の名将・張任が立ちはだかった。
張任が守る雒城を攻略できず、龐統を討たれた劉備は危機的状況に追いこまれる。
ここで、荊州に残っていた諸葛亮・張飛・趙雲らが後詰めとして出陣する。
諸葛亮らは快進撃を見せ、劉備と合流、雒城を攻略して成都を包囲した。
籠城を選んだ劉璋だったが、張魯に降っていた馬超が劉備に帰順すると、馬超まで敵になってはもはや抵抗しても無意味だと悟り、ついに降伏を申し出るのだった。
――正史ではなく三国志演義ではあるが、だいたいこんな流れだったと記憶している。
まず、前世と決定的にちがうのは、曹操軍が江陵・荊南をおさえている点である。
交州から益州に入るには、南中ルートを通らなければならない。
史実で通った巴郡ルートと比べれば、難易度は数段上になるはずである。
……交州からの後詰めが、劉備軍本隊と合流できないのではなかろうか?
劉備軍本隊はまだいい。
彼らは劉璋にとって友軍だから、物資の補給などは劉璋側の協力を当てにできる。
だが、後詰めの軍はそうはいかない。
すでに劉璋と敵対している状況で、南中ルートを踏破できるのだろうか。
仮に踏破できたとしても、戦える状態とは思えないのだが……。
そう考えると、劉備軍が全滅する可能性だって十分にありえるのだが、なんだかんだいってあの劉備軍である。益州乗っ取りを成功させてしまうかもしれない。
成功する確率が高いとしたら、後詰めを必要としない電撃作戦。
すなわち、劉璋暗殺という龐統の献策を聞き入れた場合だろう。
その龐統がどこにいるのか、私は知っている。
広陵で徐庶と会ったときに、龐統の名が話にあがったので、居場所を聞いておいたのだ。なんと間がいいことか。
龐統はいま、劉璋に仕えているらしい。
彼が本心から劉璋に仕えているとしたら、おそらく劉備の益州乗っ取りは失敗する……と思うのだが、埋伏の毒である可能性も高いように思える。
なにしろ、前世では曹操をもあざむいたとされる龐統である。
劉璋陣営にもぐりこむのも、そんなにむずかしいことではないはずだ。
もしそうだったとすると、初手で劉璋を暗殺して、乗っ取り成功なんてパターンもありえるわけで。
劉備が蜀をおさえると、魏・呉・蜀の三国鼎立状態になって戦乱が長引く可能性が高くなる。
これは……邪魔できるなら、邪魔したほうがよさそうに思える。
ちょっと手を打ってみるとしよう。
劉備たちに恨まれる心配がないように、私の名が表に出ないような形で、こっそりとな!




