第一三〇話 四悪人のはかりごと
劉璋の問いに、龐統は落ち着いた声で答える。
「劉備どのは、毒にも薬にもなりうる人物です。彼の配下は勇将ぞろい。利用できれば、張魯をおそれる必要はなくなります。その一方で、強力すぎれば劉璋さまの立場をあやうくするかもしれませぬ」
「うむ」
劉璋はうなずいた。
家臣たちからも、異論はあがらない。
龐統の意見は、中立的かつ客観的であるように思われた。
「益州に入る劉備軍が三万を超える規模であれば、彼らは張魯以上の脅威となるかもしれませぬ。ですが、一万程度であれば、まったく脅威とはならないかと。劉備どのに援軍を要請する使者を派遣した際、いかほどの兵力を出せるのか訊ねてみればよろしいでしょう」
「なるほど。三万を送るといいだせば、野心ありと見て受け入れなければよい。龐統の言は、まこと賢哲のものである」
さすが荊州で名を馳せた俊才である。
劉璋は満足げに笑みを浮かべ、かさねて問いかける。
「使者は誰がよいか? 龐統、おぬしが行ってくれるか」
「お待ちくだされ、劉璋さま。龐統どのは荊州出身。荊州にいた劉備と結託する可能性がございます!」
王累がまたしても待ったをかけたが、これが劉璋の癪にさわった。
「くどいぞ、王累! おぬしは、我が軍が、たった一万の劉備軍におくれを取るとでもいうのか!」
「い、いえ……」
王累はびくりと身をちぢめた。
誰も彼も敵と見なす。
それが許されるのは、自分たちの力だけで問題を解決できればの話ではないか。
そもそも、王累ら益州人士がしっかりしていれば、劉備軍の力など必要ないのだ。
従来からの家臣が誠心から献策してくれるのであれば、劉璋とて、新参の龐統の言葉を尊重しようという気にはならなかったであろう。
「ははは。私も無用な疑いは受けたくありませぬゆえ、使者の任は辞退させていただきたい。とはいえ、王累どのを派遣するわけにもいきますまい」
龐統は気を悪くしたそぶりも見せず、鷹揚に笑った。
そればかりか、身を慎もうとすらしているようである。
劉璋はすっかり気に入って、
「では、誰が適任であろう?」
「誰とはいいませぬが、かたよらずに客観的な判断ができる人物が望ましい。劉璋さまの政権を支えているのは、益州の者と、南陽・三輔の出身者。益州出身の張松どのが派遣されたのなら、今度は別の地域の者が適任かと」
「ふむ……。南陽・三輔の出身者か」
劉璋の視線が、家臣団のなかをさまよった。
目が合い、ひとりの男が口をひらく。
「私にお命じくだされ」
「おお、法正。おぬしはたしか三輔出身であったな」
法正、字を孝直といい、司隷の右扶風、つまり三輔の出身である。
「張松どのは益州の成都出身。龐統どのは、南陽に隣接する襄陽の出身。ならば次は三輔の者が、劉備を見定めるべきでございましょう」
劉璋はあらためて家臣たちを見やったが、ほかに名乗り出る者はいないようであった。
「よかろう、法正。おぬしの才であれば申し分ない」
自分では毅然と信じる口調で、劉璋はそう命じた。
このとき、彼の胸には小さな満足感があった。
益州の張松、荊州の龐統、司隷の法正。いずれも評判の切れ者である。
それぞれの出身地域からなる派閥のなかで、彼らが発言力を高めていけば、劉璋政権は力強く変貌を遂げるであろう。
その夜、法正の屋敷を、三人の客が訪れた。
龐統と張松、そして法正と同郷の孟達である。
「我が友・法孝直が大命を拝したことを祝って」
孟達が祝杯を掲げると、法正は口元の片側だけをゆがめて苦笑を浮かべた。
「ふっ、おおげさな。……とはいえ、これで劉備どのを益州に招き入れることができる」
劉璋が内心で期待を寄せた三人と、孟達。
彼ら四人は、すでに劉璋を見かぎっていた。
ひとり龐統に関していえば、見かぎるという表現では生ぬるい。
彼は、劉備に益州を奪わせるために、劉璋に仕官していたのである。
「龐統どの、まず最初の難関は越えたと見てよいかな」
法正に問われた龐統は、劉璋の前では見せなかったいたずらっぽい笑顔を浮かべて、
「問題はこれからでしょう。張松どの、劉備軍の現在の兵力はわかりますか?」
「劉備どのがいうには、二万をようやく上まわったそうです。南海貿易の利潤を活用して徴兵すれば、三万までは増やせると聞いておりますが……」
「交州をがら空きにするわけにもいかない。そうなると入蜀する劉備軍の兵力は、せいぜい二万が上限といったところか」
そう戦力を見積もった法正に、今度は龐統が問いかける。
「法正どのは、劉璋さまにどう報告するつもりで?」
「劉備どのと謀ってからのことになるが、派遣される劉備軍の兵力は一万五千ほどと報告しようと思う。それで、実際に到着してみたら、劉備どのの善意で、二万に増えていた、ということにすれば問題はあるまい。その程度の差であれば、いくらでも追及は逃れられよう」
にやりと笑う法正を見て、人の悪い笑顔がこれほど似合う人物もめずらしい、と龐統は思った。
「二万……。たった二万で、成都を攻略しなければならないのか」
対照的に、孟達は顔をしかめた。
いくら劉備軍が精強であろうと、二万で劉璋軍に打ち勝つのはむずかしい。
「きびしいのはわかっている。だが、劉璋さまでは張魯に勝てぬ。曹操もだめだ。魏公曹操に益州を譲り渡せば、漢朝滅亡に加担することになろう。もはや劉備どのに益州を治めてもらうしかない」
張松は漢朝という大義を言葉にしたが、そこに私怨がまざっていることは、龐統も知っている。
以前、劉璋は曹操に三度使者を送った。
帰服を伝えるための使者である。三度目の使者が張松だった。
だが、ちょうど荊州を占領したところだった曹操は驕り、張松を軽くあつかってしまった。
先のふたりと比べて冷遇された張松は憤慨し、結果、劉璋が帰服するという話は立ち消えになったという。
ほんの些細なことで、曹操は益州を手に入れそびれたのだ。
「劉備軍の力だけで益州を奪うのはむずかしい。我々が、劉璋軍を内部から切りくずす。それしか手はあるまい」
法正がいった。
近い。龐統は、自分の思考と近いものを法正のなかに感じながら、
「劉璋さまに仕えて日が浅い私の目から見ると、益州の豪族たちは日和見者が多いように見受けられますが」
「これは耳が痛い」
益州の豪族である張松が、片目を閉じて、まるでいいわけでもするかのように、
「益州の豪族たちは、劉焉さまに裏切られたことを忘れていないのです。劉璋さまの統治に対しても、どうしても消極的な態度をとってしまう」
「龐統どのの狙いは豪族か……。たしかに、豪族たちを味方に引き入れることができれば、いや、せめて中立にできれば、劉璋軍の主力は嫌われ者の東州兵だけになる。益州人士の支持も、劉備どのに流れやすくなるでしょう」
法正がそう算段を立てると、張松がうなずいて、
「益州の豪族を調略するとなると、私の担当でしょうな」
「敵は少ないほうがよかろう。三輔出身者には、私がそれとなく探りを入れてみよう」
孟達も力強くうなずいた。
そうなると、龐統の役割も自然と決まる。
「それでは、私は荊州出身者を」
法正の屋敷を去った龐統は、夜道を歩いていた。
頭を去来するのは、友人の諸葛孔明と再会したときのことである。
曹操か、孫権か、劉備か。
主君を決めかねていた龐統は、とりあえず、夏口を放棄して南へ逃走している劉備軍と合流した。
曹操や孫権とちがい、劉備はどこへ飛んでいくかわからなかったため、捕まえられるうちに接触しておこうと考えたのである。
しかし、龐統の決断に影響をあたえたのは、劉備自身ではなく諸葛亮であった。
「これからどうするつもりだ」
龐統が訊ねると、諸葛亮は迷いなくいいきった。
「蒼梧郡の呉巨を頼り、士燮から交州を奪う」
弱気のかけらもない声とまなざしである。
いろいろ考えすぎて、慎重になりがちだった諸葛亮とは信じられぬ姿であった。
「交州を占領したあとは?」
「むろん、北上する」
「無謀だ。交州一州で、曹操と戦うつもりか」
「まさか」
諸葛亮はゆっくりと首を振った。
楽観しているわけでも、自棄になっているわけでもないようだった。
絶望的な現状は認識している。
だが、折れてはいない。
敗北しても折れなかったのだ。
負け戦で鍛えられたのだろうか、諸葛亮は乱世を生きる男の目をしている。
「士元、荊南は僻地だ。曹操の優先順位は低い」
「ああ、交州を占領すれば、荊南までは攻めとれるかもしれない。だが、江陵はそうはいかない。北上したところで、まず江陵ではばまれる。そして、すぐに曹操の大軍が南下してくる」
「やみくもに北上するつもりはない。重要なのは益州の巴郡だ」
「巴郡か。たしかに上流をおさえれば、江陵攻略に成功する可能性も、ぐんと上がるが……」
「劉璋は、益州全土を支配しているわけではない。北は張魯、南は在地豪族の勢力下にあり、巴郡にも張魯の手が伸びている。荊南を落としたあと、間髪入れずに、ここに第三勢力として割って入る」
「まあ、割れている巴郡を急襲するのであれば、一城や二城は簡単に落とせるだろう。だが、江陵の曹操軍が動けば、荊南との連絡を断たれるぞ。下手をしたら、巴郡一郡を手に入れるために、荊南四郡を失いかねん」
「そうなったらしかたがない。荊南の維持は、ひとまずあきらめる」
「おいおい……」
曹操もかくやと思われる苛烈な軍事作戦に、龐統は唖然とさせられた。




