第十三話 初陣の記憶
一時はどうなることかと思われた料理教室も無事に終わり、私たちは割烹着やエプロンを脱いで、台所がある土間から板の間にあがった。
席につくなり、曹丕は正座して、それまでのくだけた調子を一変させる。
「失礼いたした。じつは、貴殿がまことの賢者であるか試したく、名を偽っていました。私の本当の名は曹丕、字を子桓という……」
ふいに曹丕は口を閉ざした。私と司馬懿の顔に視線をはしらせると、わざとらしく肩をすくめる。
「あ~、全然おどろかないのな。とっくに気づかれていたのか」
うん、知っていました。けれど、自分で気づいたわけじゃないので、なんとなくフォローしたくなる。
「いやいや、おどろいてはいるぞ。その年で字があるとは、たいしたものだ」
私の孔明だとか、司馬懿の仲達だとか、字とは成人と同時に名乗るものとされている。もっとも、私も司馬懿も二十歳になる前から字はあった。前倒しでもらうことは、けっしてめずらしいことではない。……のだが、それにしても曹丕は若すぎるような。
「そっちか……。オレが字をもらったのは、去年のことだ。初陣をむかえた十一歳のときに、一人前の証として字をもらったんだ」
得意にしていいはずなのに、曹丕はつまらなそうにいった。
十一歳で字をもらえるなんて、すごいことだと思うんですがね。
「……人より早く一人前あつかいしてもらえたのはうれしかったさ。けど、すぐに誇れるようなことじゃなくなったよ。ひどい負け戦だったからな」
「宛城の戦い、か」
と司馬懿が眉をひそめた。
曹丕が苦々しげに顔をしかめる。
きっと、私も彼らとよく似た表情をしていただろう。
勝つも負けるもド派手な曹操が、惨敗を喫したのが宛城の戦いである。
一度は降伏させた張繡軍の奇襲をうけて、まったく警戒していなかった曹操軍は、まともに戦うこともできずに敗走した。この戦いで曹操は長男の曹昂、甥の曹安民、護衛の典韋といった将をうしなっている。
「……ああ、最悪の初陣だった。オレと、兄上にとっても初陣だったんだ。十二も年上の兄と、初陣が同時だったんだぜ。父上に自分の才能を認めてもらえたんだって、オレは浮かれていたよ」
曹丕は自嘲するように頬をゆがめた。
「オレだけじゃない。みんな、父上もふくめて、みんな油断していたんだ。うちはいつも寡兵で大軍の敵と戦っていたから。圧倒的に有利な、負けるはずのない戦だと、みんな思っていた。十一歳のガキが初陣をむかえられたのだって、敵を寡兵とみて、あなどっていたからさ」
曹丕の視線が床に落ちた。ひざにおいた手に、力がこめられたようだった。
「天幕の外がいきなり騒がしくなって、なにが起きたのか最初は理解できなかった。外から兵士が駆けこんできて、張繡軍の夜襲だと伝えられて、ようやく自分が戦場のただなかにいるんだって実感したんだ。
あわてて鎧を着こんで天幕を飛びだしたら、いたるところから火の手があがっていて、生暖かい風が、焦げくさい匂いと血の匂いをはこんできた。
父上のもとへいくにも、馬に乗っていかなきゃ、さまにならないと思った。オレは厩舎にむかって、そこで兄上にあったんだ」
曹丕はじっと床を見つめている。
「兄上は、自分の馬と父上の馬の手綱を引いていた。オレがついていこうとすると、敵の狙いは父上だから、おまえは先に逃げろっていわれた。子どもを追いまわすような余裕は、敵にだってないはずだって……」
曹丕が見ているのは床ではなく、過去の戦場なのだろう。
その戦場で命を落とした、長兄、曹昂の姿なのだろう。
「いわれたとおり、オレは兄上とは別の方角へ逃げた。
……想像していた戦場とは、正反対の光景が広がっていたよ。統率のとれた動きをしているのは敵ばかりで、数が多いはずの味方は右往左往するしかなくて、ひとりでうろついているところを、敵の集団におそわれて次々と殺されていった。
首を刈られる味方を尻目に、敵と剣をまじえることもできず、オレは馬の首にしがみついて、ただひたすら逃げつづけた。馬術だって、弓術だって、剣術だって、たくさん練習してきたのに。敵兵のひとりやふたり、討ちとれたはずだったのに」
曹丕は鼻で笑うように、ため息をもらした。
「気がついたら、陣営から遠くはなれた場所にいた。
夜の闇に黒煙が立ちのぼり、陣営が真っ赤に燃えていた。
オレと同じように脱出してきた兵士に、背中に矢が刺さっていますって指摘されて、馬からおりて、その矢を鎧から引き抜いてもらいながら思ったんだ。オレはもう少しで死ぬところだったんだ、オレたちは負けたんだって。
それから、本隊と合流しなきゃいけないと思って、散り散りになったうちの兵士たちに、父上の行方を聞いてまわった。敗残兵はそこかしこにさまよっていたから、聞く相手だけは不自由しなかったよ」
曹操の行方を、少年は必死に聞いてまわっただろう。あるいは毅然と胸をはってか。どちらにせよ、聞くほうも聞かれるほうも、身なりはボロボロだったにちがいない。
「父上が東の舞陰にむかっているとわかって、オレたちも舞陰をめざした。途中、ある兵士が、父上は敵に射られて討ちとられたっていったけど信じなかった。三十万の青州黄巾党をくだした父上が、五千ぽっちの張繡軍に討ちとられるもんか、って」
曹丕の口元がひきつるようにゆがんだ。もしかすると、笑ったのかもしれない。
「敗残兵ってのはみっともないもんさ。なかには、味方におそいかかるような連中だっている。そいつらをさけながら東へむかった。敵兵どころか、自軍の兵からも逃げなきゃいけないんだ。みじめだったよ」
いったん言葉を切って、
「……父上たちと合流できたのは、夜が明けてからだった。みんな疲れきっていて、だけど、そこに兄上はいなかった」
床をにらみつけながら、
「……敵に射られて馬をうしなった父上に、自分の馬をゆずったらしい。囮になって、敵兵をくいとめて、それが兄上の最期だって。もちろん悲しかったさ。だけど正直いうと、一瞬ほっとしちまった。父上さえ生きていれば再起できる、って。薄情だよな」
曹丕の肩がかすかに震えた。
「兄上は正しいことをしたと思った。オレたちが生きていくためには、なんとしても父上を生かさなきゃいけなかったから。
でも、父上の次に生きのびなきゃいけなかったのは、嫡子である兄上だったはずなんだ。
オレが本当に一人前だったら、あのとき兄上と同行していたはずで、父上に馬をゆずって死ぬ役目は、庶子で三男のオレがやらなきゃいけなかったんだ」
そこで、曹丕は顔をあげた。
「正しいことをしてみせた兄上が死んで、なにもできなかったオレが、結果的に曹家の跡取りになる。そんなの馬鹿げた話だろ。……だから、オレは決めたんだ」
歯を食いしばって、宣言する。
「誰にも、『曹昂が生きていれば』なんていわせない。それくらい優秀な人物になってやる。父上にも負けない大物になってみせるんだって」
それは言葉とは裏腹に、力強さを欠いた声だった。
まるで、シルクロードを踏破すると決意した、ひとりぼっちの旅人のように。
少年の顔には、強い覚悟とそれなりの自信をあわせてもあまりある、心細さがにじんでいた。
なんだか重い話を聞いてしまった気がする。
曹丕はこれから常に、曹操、曹昂と比較されながら生きていかねばならないのだろう。
窮地の父を救い、功績と可能性だけを残してこの世を去った兄と。
英雄がごろごろ転がっている三国志において、もっとも巨大な足跡を残した偉大な父と。
……おもおもですよ。死者と曹操を相手にしなきゃいけないなんて。
私はしばし思案してから、口をひらいた。
「ときには昔の話をしてみようか」
司馬懿さん(二十歳)はともかく、曹丕くん(十二歳)になら、私にだって教えられることはあるでしょう。
「あるおじさんの若かりしころ、今の司馬懿くらいの年齢だったかな、そのころの話だ。
大規模な日照りになるわ、河水が氾濫するわで、ついには黄巾党の反乱が起こり、天下は麻のように乱れていた。
明日の見えない世を憂え、さかんに議論をかわす若者たちのなかに、彼の姿はあった。しかし、その一方で、彼は自分の才覚が友人たちにとどかぬことを、自覚もしていたのだ。
周囲には天下の俊傑がそろっていた。年長者を見れば荀攸がおり、同年代には荀彧が、年少者には郭嘉がいた」
「おまえのことじゃねーか」と、曹丕のまなざしがツッコんでくる。
そうです。私がそのおじさんです。
自分の経験にもとづいた話は、興味をもたれやすく、説得力も格段にアップするというではありませんか。
私は荀彧たちとは別の道を選べたが、曹丕は曹操と同じ道を歩まねばならない。
それでも。曹操をめざさなくていい、同じでなくていいのだ、ということだけは伝えなければならないと思う。
創業者である初代と二代目とでは、求められる役割がちがうのだ。
これは前世では、常識となっていたように記憶している。
いずれにしても、曹丕の話は少しばかり長くなりすぎたし、私の話も長くなるだろう。
日が傾いて、窓から差しこむ陽射しが、部屋の奥のほうまでのびていた。
今から陸渾を出たところで、隣の村に着く前に日は暮れてしまう。
この様子だと、曹丕は今夜、私の家に泊まることになるでしょう。
……ふむ。どうやらトラブル対策のため、司馬懿にも泊まってもらったほうがよさげですかね。




