第一二九話 益州情勢
巴蜀の地と呼ばれる益州は、魯王劉余の末裔・劉璋が治めている。
しかし、益州にはもうひとり、強力な指導者がいる。
五斗米道の教祖・張魯である。
彼らの対立は、そもそも劉璋の父・劉焉に端を発していた。
董卓が朝廷をほしいままにする前年の、中平五年(一八八年)のことである。
当時、益州では黄巾賊の残党が反乱を起こしており、また益州刺史の失政が洛陽で話題となっていた。
こうした混乱をしずめるために、霊帝劉宏が益州牧に任じたのが、九卿のひとつ、太常の職にあった劉焉であった。
劉焉は、かねてより親交のあった人物をつれて益州をめざした。
洛陽に未練はなかった。
朝廷の腐敗に嫌気がさし、僻地への異動を望んでいた彼にしてみれば、益州牧の座は願ったり叶ったりだったのである。
ところが、益州に入る道が閉ざされていたため、一行は荊州にとどまるはめになった。
この足止めこそ不運だったが、劉焉はより大きな幸運に恵まれた。
益州刺史が黄巾賊の残党によって殺害され、その黄巾賊の残党も、益州の豪族たちの手によって討ちほろぼされたのである。
劉焉に課されたふたつの大きな使命は、彼が益州の地を踏む前に、ある程度の解決を見たのであった。
さらに、益州の豪族たちは荊州にまで吏卒を派遣し、劉焉を迎え入れた。
豪族たちにしてみれば、劉焉にかける期待は小さなものではなかった。
益州では不当な重税が課され、賄賂が横行しており、死亡した刺史の放埓ぶりに、彼らは辟易していたのである。
それに対して、宗室に名をつらねる劉焉は、少なくとも表向きは清廉な人物と見られていた。
入蜀に成功した劉焉は、土着豪族を味方につけ、寛容な政治を心がけ、着実に州内の統治体制をかためていった。
こうした統治手法は袁紹や劉表と類似していたが、彼らより年長の劉焉は、よりしたたかだった。
豪族たちの支配力が、自身の統治に影を落とすであろうことを、当初から認識していたのである。
劉焉は、豪族を潜在的な敵と見なしていた。
豪族の影響力を排除するには、なにより軍事力が必要となる。
先に鎮圧された黄巾賊の残党や、南陽・三輔地方からの流民を集めて、彼は東州兵という私兵集団を組織していく。
同時に、ひと組の母子に目をつけた。
五斗米道三代目教祖の張魯と、その母親の盧氏である。
盧氏は若々しく妖艶な美貌の持ち主で、劉焉と彼女はたちまち親密な関係となった。
家臣たちは主君の情事をあやうんだ。
なにしろ五斗米道は、米賊とも呼ばれる怪しげな宗教団体である。
記憶にあたらしい黄巾の乱も、太平道という新興宗教が起こしたものではないか。
彼らの懸念は理屈の上でも結果的にも正しかったが、彼らが考えている以上に、劉焉は計算高く、あるいは狡猾だった。
劉焉は、盧氏の色香に惑わされていたのではなかった。
五斗米道そのものを利用しようとくわだてていたのである。
劉焉に命じられ、張魯は漢中を攻めて占領すると、五斗米道の国家を築き、中原との要路である桟道を焼き払った。
これによって、長安に遷都していた朝廷と劉焉との連絡は断たれた。
もともと独立志向の強かった劉焉は、朝廷からの指図を受けない、自分のための政権を手に入れたのである。
朝廷との関係をみずから断ち切ったのだから、協力的だった豪族たちも、さすがにこれには反発した。
ここで虎の子だった東州兵が、満を持して動きだした。
反発する在地勢力をことごとく攻めほろぼし、劉焉は独裁体制を築きあげることに成功した。
こうした軍事的・強権的な手法は、青州兵を組織した曹操や、豪族を次々と屈服させていった孫策に通じるものがあろう。
ともかく、豪族たちの心情は別として、益州は一定の安寧を得たかと思われた。
しかし、それも長くはつづかなかった。
劉焉が天に召されたのである。
後を継いだ劉璋は、温厚ではあったが、剛腕とはほど遠い人物であった。
先主におさえこまれていた豪族たちの反発が、表に出るようになった。
各地で反乱が勃発し、この機に乗じて、漢中郡の張魯も反旗をひるがえした。
張魯からしてみれば、劉焉ならばともかく、劉璋のようなぼんくらのいいなりになるいわれはなかった。
ここでも東州兵が活躍し、各地の反乱を鎮圧していった。
しかし、巴郡にまで勢力を伸ばした張魯だけは、討伐することができなかった。
人質の盧氏を、劉璋は見せしめとして誅殺した。
こうして劉璋と張魯の関係は修復不可能となり、他の多くの州と同様に、益州もまた紛争の絶えない土地へと逆戻りしたのであった……。
張魯なにするものぞ、という思いが劉璋にはあった。
母親が劉焉を籠絡して支援を引きだしていなければ、なにもできなかった男ではないか。
劉璋自身、益州牧でいられるのは父のおかげだが、それをいうなら三代目の張魯も同じである。
教祖でいられるのは、祖父のおかげではないか。そう思っていたのだ。
いまとなっては、あなどっていたのだと認めざるをえない。
東州兵が討伐に失敗することも、張魯がここまで強力な指導者となることも、想定外であった。
手詰まりだった。
純軍事的に、張魯から巴郡を取り戻す展望が見えなかった。
東州兵の増強はできない。
彼らは治安悪化の要因となっている。
父から受け継いだ東州兵を、劉璋は御しきれずにいた。
ここで増員なり組織改編なりに踏みこめば、東州兵がいうことを聞かなくなるおそれがある。それこそ最悪の事態を招きかねない。
豪族たちの私兵をあてにする、という手もあるが……。
玉座を模した豪奢な椅子から、劉璋は家臣たちの顔を眺めた。
彼の椅子は、部屋の奥にある壇上に置かれているため、座りながら群臣たちの顔を見おろせる。
……どいつもこいつも頼りにならない顔をしている、と劉璋は思った。
東州兵から抜擢された将も、私兵を有する豪族も、張魯征討には消極的な姿勢を見せるようになっていた。
張魯討伐を声高に主張して討伐軍が編成されれば、自分の手勢が中心に組みこまれてしまう。彼らはそれをおそれているのだ。張魯と戦えば、勝とうが負けようが、大きな被害が出るのだけはまちがいないのだから。
埒もない妄想が、劉璋の脳裏に浮かんだ。
もし、名にし負う賈詡や張遼がこの場にいれば、
「我が策によって、張魯軍を内部から崩壊させてみせましょう」
「張魯ごとき、我が勇武で一蹴してごらんにいれましょう」
などといって、劉璋をよろこばせてくれたろうか。
なぜ曹操軍の謀臣勇将の名が浮かんだのかといえば、曹操に支援を要請するという意見があったのを思い出したからであった。
もっとも、その意見は即座に却下された。
「益州は、内部の盆地は農産物に恵まれ、外郭の山間部は天険の要害となる」
「防衛に徹すれば、曹操軍の侵略とてはねのけられよう」
「張魯をおそれて曹操軍を領内に入れるなど、狼をおそれて虎を庭に招き入れるようなものではないか!」
との反発が強かったからである。
じつのところ、東州兵も豪族も、自分たちの都合を考えていた。
曹操が益州を占領すれば、東州兵は解体される。
中央集権化がこの地まで波及して、豪族の利権も弱まっていく。
彼らの真意に気づかず、家臣たちの提言を劉璋はよろこんだ。
益州政権の独立性を守るための忠言だと信じこんだ。
だが、事態はそこから悪化の一途をたどっていた。
曹操軍が関中に侵攻し、馬超軍を撃破した。
馬超は張魯とつながりがあったようだから、その敗北自体はよしとしよう。
問題は、敗残兵や避難民が、漢中に流入していることである。
そうした人々を吸収して、張魯は勢力を拡大してきたのだ。
これから、ますます勢いづくにちがいない。
張魯が自分にはない特異な才能を持っていることを認め、劉璋はうつむいた。
――家臣たちではない。一番頼りにならないのは、私自身か。きっと誰もがそう思っている。
「張松さまがお戻りになりました」
評議の場に、役人の声がひびいた。
劉璋は視線をあげた。
小男が入ってくる。
冴えない風貌だが、背筋は伸び、眼光には力を宿している。
「劉璋さま。張子喬、交州より戻ってまいりました」
張松の声は自信にあふれていた。
識見と判断力を評価され、別駕従事となった男である。
劉備の為人を確認するために、彼は交州に使者として派遣されていた。
「うむ、よく帰った。して、劉備どのはどのような人物だった?」
「天下を憂う気持ち、漢朝再興を掲げる想い、まこと侠気にとんだ人物でございました。交州を奪えたのも、将兵からの信望が厚いからでございましょう」
張松はするどい男だ。
見立てはまちがっていまい。
劉璋はうなずいた。
「お待ちください、劉璋さま」
にわかに制止の声をあげたのは、王累という男である。
劉備の助力を得るという意見に、彼はかねてより反対していた。
「曹操同様、劉備も危険でございます。劉備を招き入れるは、災厄を招き入れるも同義でございます!」
これには張松も語気を荒らげて、
「王累だまらっしゃい! 私は、曹操劉備両人と直接会ったうえで、判断しているのだ!」
「ムムム……」
王累は悔しそうに肩をふるわせた。
以前、張松は使者として曹操のもとに派遣されたことがある。
張松の判断と比べれば、王累のそれは伝聞にもとづいたものにすぎない。
「ふむ……」
劉璋は考えこむと、ひとりの男に視線をむけた。
「劉備どのの為人か……。荊州にいたおぬしなら、我々より知っていよう。なにか意見はあるか?」
群臣の列から前へ進み出たのは、鳳雛こと龐統士元であった。




