第一二八話 魏公就任
「まあまあ、お待ちください」
士燮を処刑しようとする劉備を、諸葛亮はやんわりと制止した。
漢王朝は寛治を信条としている。
漢に心を寄せる人々の希望となるために、劉備には寛容な為政者を目指してもらわなければならない。
「敵対していたとはいえ、彼は圧政を敷いて民草を虐げていたわけではありません」
「逆賊の身で仁政を語るとは笑止千万。わしを誰だと思っている。朝廷より交州七郡の監督を命じられた身ぞ」
諸葛亮の言葉に反応したのは、助命を請われている士燮当人であった。
「はっはっは」
諸葛亮はさも面白そうに高笑いすると、
「士燮どのは朝廷の実態をご存じないようだ」
「なんだと」
「貴殿に交州をまかせたのは、天子の意思ではない。曹操の意思にすぎぬ」
「ぬうっ……」
答えに窮し、士燮は口元をゆがめた。
遠い交州にいようと、中央の情勢は伝わってくる。
士燮ほどの人物であれば、曹操が天子を意のままにあやつっていることは、うかがい知れよう。
諸葛亮はあらためて進言した。
「我が君、戦乱の世で寛厚な政をおこなえる人物は貴重です。彼は、ここで死なすのは惜しい」
劉備は眉根を寄せて、
「そうはいうがなぁ。生かしておけば、この男は、また我が軍と敵対するであろう」
「ご安心めされよ。士燮の抵抗が強力だったのは、財力があったからこそ。土地と私兵、そして私財を接収してしまえば、もはや我らの脅威とはなりえませぬ」
諸葛亮が自信ありげに白羽扇を揺らめかせると、劉備はうなずいて、
「ふむ、一理ある。……聞いてのとおりだ。士燮、おぬしを助命しよう。許都へ行って、自分の目で漢朝の現状を確かめてみるとよい」
「…………」
士燮の返答はなかった。
うなだれ、急に老けこんだように見える彼を、兵士が引き立てていく。
交州ですべてを手に入れたはずだった老人は、この瞬間、すべてを失ったのであった。
士燮がたくわえていた多額の財貨を手に入れた劉備は、その一部を民衆に施した。
士燮を追いだしたからには、それ以上の民衆の支持を得なければ、これからの統治のさまたげとなろう。
郡中の辻には税の一部を免除するとの高札が立てられ、食事や酒がふるまわれた。
むろん、劉備軍の将兵たちも恩賞にありつき、いままでの労をねぎらわれている。
「うほっ。酒だ酒だ。肉だ肉だ。たまらんねえ」
めったにありつけないごちそうを前に、張飛は歓喜した。
たらふく食して腹を存分に満たしてから、呆れと感心が半々の声で関羽に語りかける。
「しっかし、士燮の野郎、えらい溜めこんでやがったな」
無尽蔵であるはずもないが、士燮が残した私財は、将兵や民衆に惜しげもなく供されているにもかかわらず、あまり目減りしていないようであった。
「うむ。まさしく巨万の富というしかない。聞くところによると、士燮が居城を出て移動するたびに、数十人の者が、その両脇で香を焚いて付きしたがったそうだ」
「まるで王様じゃねえか」
張飛は呆れかえった。腕を組んで悩ましげに、
「本当に解放しちまってよかったのかねえ。きっちり殺しておいたほうが、あとくされがなかったと思うんだがなあ」
「理屈でいえばな」
張飛の意見を否定せずに、関羽は肩をすくめた。
「だろう?」
「だが、士燮が私利をむさぼっていたのも事実なら、この地をよく治めていたのも、領民に慕われていたのも事実だ」
「むっ……」
「見どころがある人物を殺すのは忍びない。軍師どのがそう判断したのもわからないではない」
善政をおこないながら、一方で私腹を肥やす。
矛盾するようだが、これらは両立する。
この場合、どちらで評価すべきかといえば、善政をおこなっていることである。
為政者が清貧であろうと、民を飢えさせては意味がない。
「ふうん、そんなもんかね。まあ、損得勘定だけでさくっと殺しちまうより、よっぽど人間味があっていいとは思うがよ」
張飛が首をかしげると、関羽はニヤリと口角をあげた。
「だが、益徳の懸念も正しい」
「だろう? 士燮の道案内で、曹操軍が攻めてくるかもしんねえ。…って、なにがおかしい?」
「ふっふっふ。いや、すまん。おまえがあまりに正しいことをいうものでな。たしかに、朝廷が我々に対して討伐の詔を出し、官軍をさしむけてくる可能性は高い。だが、その判断をするのは曹操であり、官軍の実態も曹操軍にすぎない。そうとわかっていて士燮が曹操の走狗となるのなら、あらためて戦うだけのことだ」
交州を追放された士燮は、いまごろ旅の空だ。
といっても、自由気ままな旅ではない。
劉備軍によって移送され、荊南の地で解放される予定となっている。
そこから先、彼がどこへ行くのかは、関羽たちのあずかり知るところではなかった。
ただし、荊南にとどまろうが、許都へ行こうが、曹操の勢力下である。
どこへ行こうと、曹操の権勢を認識せざるをえない。
関羽は思う。
漢朝の形骸化を目の当たりにした士燮は、どのような決断をくだすのであろうか。
漢朝への忠節を自覚し、社稷の臣として目覚めるのか。
それとも、あっさり曹操に頭を下げ、その臣下となるのか。
前者であれば味方になりうるし、後者であれば戦うしかあるまい。
じつのところ、関羽はたいして期待していない。
士燮が漢朝側につく可能性は皆無ではないにせよきわめて低いであろうし、味方になったところで曹操に対してなにができるとも思われない。
もっとも、戦力として数えることができないのは、敵にまわった場合も同様である。
曹操軍には、張遼、徐晃といった名将が綺羅星のごとくそろっている。
いまさら士燮ひとり加わったところで、脅威が増すわけではない。
さらにいえば、交州の地理にくわしい人物は士燮だけではない。
ほかにいくらでもいるのだ。
「なあ、雲長よ」
張飛は渋面になって訊ねた。
「うむ?」
「これ以上、逃げる場所なんてないぜ。なんとかして、こっちから攻めることはできねえのか?」
ほとほと嫌気がさしたといわんばかりの表情である。
「むっ……反攻に出るか」
心情としては関羽も同じだが、簡単に同意できる話ではなかった。
もっともらしく返答する。
「南の果てとはいえ、交州が豊かな土地だったのは不幸中の幸いだった。交易が生みだす財と、士燮から奪った資金を生かせば、荊南四郡を落とすのも不可能ではあるまい。だがその場合、江陵が難関になるだろうな」
「だから巴蜀ってことか……」
「残念だが、巴蜀に攻めこむのも簡単ではない。やはり江陵が鬼門になる。荊南から巴蜀に攻めこんだところで、江陵の曹操軍が動けば、我々は補給路を断たれて敵中に孤立してしまう」
関羽は長い髭をしごき、自分たちの置かれている苦境をひとつひとつ確認しながら、思案をめぐらせる。
「交州から巴蜀への道もあるようだが……。険しい山道を進軍して、その先で待ちかまえている劉璋軍を撃破する、というのもむずかしい。曹操が涼州を攻めているいまが好機なのはまちがいないのだが……」
交州を平定して確たる拠点は得たように思える。
しかし、今後の展望がひらけたというにはほど遠い。
ほろ酔い気分が醒めていくのを、関羽は感じるのだった。
交州の争乱が落ち着き、年が明けた建安十七年(二一二年)の一月。
涼州平定の指揮を夏侯淵にまかせて、曹操は鄴に帰還した。
涼州および、その涼州から分割された雍州では、いまだ小さな紛争が絶えないが、すでに大勢は決している。
曹操としては、次の階段をのぼるための準備を優先させなければならなかった。
そして、四月。
かねてより流れていた噂が現実のものとなり、その報せが海内を駆けめぐった。
曹操が魏公に封じられたのである。
本来あるべき歴史より、一年早い出来事であった。




